|
2012年 01月 25日
読書ノートです。 大地をまもる会、らでぃっしゅぼーや など有機農業の流通で第一線で活躍されてきた徳江さんの本。1999年とちょっと古いですが、おもしろかったです。 ============ 「農業こそ21世紀の環境ビジネスだ」徳江倫明(とくえ みちあき/エコ・ステップ・プランナー)1999年。 P. 105 「これまでのリサイクルというのは、大量生産、大量消費、大量廃棄の社会を前提にしたものであるからです。つまり、捨てるのはもったいないからという、人間の素直な感情にしたがって、使えるものは大事に使おうということで生まれてきた思想、あるいは運動の一つが、リサイクル活動だったのです。しかしそれは、高度成長時代の大量生産、大量消費、大量廃棄という価値観の、あくまでも補完的仕組み、あるいは考え方にすぎませんでした。 そういう意味で、本当の循環型社会というのはむしろ、リサイクルというものを前提にどのようにモノをつくるか、ということが大事になります。そのためには、素材を選ぶ段階から、リサイクルを前提にした選び方が求められます。」 P.143~ 有機農産物は普通だった。 1961年の6月に制定された農業基本法によって、有機農産物が消えていく。豊かさから取り残された農業、農村、そこで、「農業分野への工業の論理の導入」 選択的拡大、産地指定制度 とは、分業制度を農業分野でも採用、嬬恋のキャベツなど。単一の品種を大量に生産し、大量に輸送し、価格を安くすることで、生産の効率を上げて農業経営を大規模化する。そして、大消費地、東京に安く大量に供給する。 産地に指定された農地には、冷蔵施設やストック基地など、物流体制を整えるための補助金を投入するほか、農薬や化学肥料も多投して大量生産が図られた。 → ・連作障害。同種類の作物を同一圃場に連作したときに、その作物の生育や収量、品質が低下する現象である。 ・同一の栄養物のみが土中から採られたり、同じ病害虫が発生しやすくなったり・・・特定の養分が欠乏あるいは過剰になり、土壌が酸性もしくはアルカリ性障害 ・微量なミネラル要素が欠乏。 ・化学肥料は硫安や過リン酸石灰など。硫安はチッソを補う肥料として多用されている、過度に使用すると、土壌が酸性になり植物は生育しなくなり、ミミズやその他の微生物を殺す。ミミズがいないと土が固くなり、根も張りにくくなり、まったく植物が育たない嫌地現象まで引き起こす。 → 連作障害を防ぐために、土壌消毒剤や殺虫、殺菌剤などの農薬使用。 農薬の繰り返しの使用は薬剤耐性病害虫を生む危険性も。 高温多湿の日本では、病害虫による被害に常に晒されてはいる。最小限の使用に控える方法を探るべき。 p.154~ ●日本有機農業研究会1971年10月 財団法人 協同組合経営研究所理事長 一楽照雄によって設立、 有機農業は気候条件に大きく左右されている、そのリスクを生産者、消費者で採るトラスト、産消提携 契約栽培 前もって消費者と生産者とが作付け量を決めて生産を開始する 全量引き取り 生産されたものは消費者が責任を持って全て買い取る。 ●大地をまもる会、使い捨て時代を考える会(有機農産センター)、JAC、ポラン広場 共同購入 流通自体がコミュニケーションの場。 有機農業運動は地域のネットワークをつくる、一つの市民運動。 女性の社会進出。共同購入の難しさ。 ●らでぃっしゅぼーや 1988年1月11日 夜間置きどめ個別宅配システム 野菜パレット 年間52週を通して採り続けるのが消費者会員の条件。季節の野菜が約10種類、セット詰め、届いてみないと中身が分からない。有機農業では大事なこと、産消提携。 徹底した情報公開。生産者名とある事情で農薬を使用せざるを得なかった場合、その理由と使用した農薬の種類と回数の表示。生産者あるいは生産者グループの住所。 p.198 野菜の規格の細分化。 質、実はそんなに変わらない、なのに、なぜ細分化して価格を変えるか? 卸し市場法 卸(荷受け)の手数料は定率で野菜8.5%、果物7%で決められている。利益を上げるために、野菜の価格を高くする高値安定をつくりだす流通による手法。 p.244 有機農業の規格 無農薬/無化学肥料3年というものでいいか? (こころがない) 有機農業五原則というものがあった 有機堆肥を使用する、土壌消毒をしない、除草剤は使わない、農薬など仕方なく使った場合にはきちんと報告する、その他情報は全てオープンにする。 情報オープンをすることによって、産消が直接交流する!これが一番大事。 2012年 01月 06日
年始を利用して、長野県飯田市に行ってきました。 飯田市は、最近は自然再生エネルギーの取り組みで有名なまちです。 初期費用0円で融資するシステムもあります。 環境エネルギー研究所などのNPO団体と手を組みながら、 まち中の人たちが手づくりで形を作ってきた歴史があります。 NPO南信州おひさま進歩 おひさま進歩エネルギー株式会社 メガソーラー ![]() すでに色んな情報が出ているし、本などもあるので、 私が追加して言えるはなしは、ないです。 とはいえ、久しぶりに自然の近くに行ったり、 本当に多くの民家の屋根に太陽光パネルが置いてあったりしたのをみたり、 それから、まちのなかに、色んな店や、おしゃれなレストランなんかが並んでいたりするのを見ることができました。 そんなのを見ながら、もしかすると、自然エネルギーというのは、「ネタ」にすぎなくて、 その取り組みをつうじて、街の人たちが、色々と手を組んで、工夫したり、楽しんだりしはじめたことが、 一番大事なことなんではないかなぁと思いました。 商業や、お店や、それから農業、教育、福祉、そんなことへの取り組みにも、 自然エネルギーを契機にした動きは大きな力を与え続けているんではないか、と。 株式会社 飯田まちづくりカンパニー 今回は正月に行って、まちの人とあまり話ができなかったので、 ぜひ、またゆっくりと行きたいなと思いました。 とはいえ、個人的には、父親とゆっくり旅をできたのが、色んな意味で良かったです(笑)。 鼎みつば保育園 ![]() 町中のリンゴ並木など ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() 2011年 12月 05日
「セカイノカラクリ」を説き起こし、「セカイノシュウリ」へ。 トランスコミック論文(5) 資本の動き、止まらない貨幣の自動運動 の続き 以前までで、交換の3種類の説明が大体すみました。 贈与、収奪と再分配、市場交換(貨幣を用いる交換)です。 (全体構成は、こちらへ → 「トランス・コミック」完全版 目次(予定)) いよいよ、この3つの交換が、現代の社会ではどのように組み合わさっているか、この問題の根幹に入ります。 「セカイノカラクリ」の説明がそのまま「セカイノシュウリ」につながるように進めます。 あるいは、「セカイノカラクリ」がこうなっているなら、以前にあったような対抗運動・対抗文化がどこが間違っていたかも明らかになるのではないか、と思います。 カラクリに外れた、あるいは逆に強化するような、運動・文化だったかもしれません。 政治経済学は、例えば社会学などと違って、普通に感じる「現象」とまったく違う姿が見えてくるようなところがあります。 「セカイノカラクリ」は、現象の裏に隠れてうごめいている構造のようなものです。あるいは枠組み、あるいはゲームのルール、あるいは、要するにカラクリ。 カラクリの本質は、感じる現象とまったく逆の方向に動いているかもしれません。 資本という制度の根幹にあるのは、「交換する」ということの難しさがあります。 人と人の間で思いを通じさせることの難しさ、というようなこととつながるのかもしれません。 前書きが長過ぎました。資本制の一番の困難さ、そしてその結果起きてくる問題について、考えてみましょう。 命がけの交換 & 命がけを避ける方法(国家と資本の癒着など) お金があると分業が可能になる。 それは自給自足と異なっている。 自分の好きな物を、必要なものを、使うだけの量を作る。これが自給自足だ。 ところが貨幣を得ることを目指す交換を始めると、自分ではなく「他人」のために作るようになる。 残念ながら、「他人」の好きなもの、必要なもの、必要な量、これは自分のときほど確かでない。 他人が好きであろうものを、必要であろうものを、使うであろう分の量を予測して作る。 これが貨幣を伴う市場の交換だ。 全てが「あろうもの」になり、予測になる。予測はいつもうまく行く訳ではない。 不安定さの源である。だから、ものを売り、市場で売ろうとするのは「命がけの跳躍」なのだ。 何がニーズか分からない。先に借金・投資して、見込み生産するリスク。それが売れるかどうか分からない。まさに命がけのジャンプのようだ。 しかし、なんとしても売るためには、必死に他の人の欲しいものを、使用したいものを(ニーズ)、売り手はいつも考えなければならない。ある意味、儲けるという自分勝手な動機のために、他人を思いやる行動をとる。面白い現象だ。だから資本の動きは、人々の物質的生活レベルを上げていく結果になる。 とはいえ、やはり命がけの跳躍であり、先に借金(投資)するのであるから、とにかく稼いでいかなければ、という資本の運動も始まる。すると、必要も無いものを、マスコミなどを使って宣伝してブームを生んで、売らせる。それが「ニーズ」であるかのように思わせる、という傾向も生まれる。 そして、売るものはなるべく安い値段で作りたい、買っておきたい。だから「コスト」を少なくしようとする。極端になると、廃棄のことを捨て去って考えようとする。よって公害などが起きる。 汚染物を自らの金でちゃんと処理するのはコストなので、そのまま垂れ流す−−たとえ、自分たちの行動が多少の社会的害を及ぼそうとも、環境に負荷をあたえたり、長い歴史や文化的価値のある物を壊してしまう可能性があるとしても。あるいは、国家などに押し付ける。 また例えば、自動車会社は道路が無ければ商売が成り立たないのに、道路を自ら作ってはコストなので、国家・地方自治体が道路を整備する、ということまで起きる。 そしてまた、労働者への分配をなるべく抑えようという欲望も生まれる。「労働力」だって、それはつまり人間だけれども、商品のひとつだから安く買いたいと思う。 実は、「売る」のが命がけの跳躍だから、こんな矛盾が出てくる。では、「命がけの跳躍」が無くなれば、つまり、「売る」のが容易になれば、ということは買う側の「リクエスト」に応じて売れば、資本制から来る問題は解決するのではないか。しかし、それを実行するのは簡単でない。リクエストに応じてつくってmade売るsellのは、どうやって出来るか? ひとつは受注生産だ。注文を受けてから生産する。しかし、それは商品が実際に届けられるまで時間がかかるとして、他に前もって商品を提供する企業がいたら負けてしまう。 しかし、資本家や経営者もいつも命がけの跳躍をし続けるのは、危険すぎる。できたら、命がけの跳躍を避けようとする。つまり、確実に「売れる」ようにしたいと考える。 一番考えやすいのは、税金だ。 既に述べたように、税金は国家による第2の交換に根ざしている。それは強奪=再分配という交換だから、第3の交換にあるような「命がけの跳躍」を最小限に出来る。税を、金を出さなければ、最終的には牢屋に引っ張ったり、財産を押さえることも出来るから、ある意味最初から「売れている」。 税金の量が年により多少上下するとはいえ、確実にお金を集められる税金を扱う行政府に何らかの形で取り入れば、確実に納品でき、安心できる。行政府にとっても、税金を使って采配できるのは、自分たちの地位が高く認められることになり、名誉欲を満足させることが出来る。補助金を出したり、財団をつくったり、「天下り」できる。 社会教育福祉事業、道路事業から原発産業、軍事産業まで、これらを「安定的収入」のもととして、資本家は経営者は確実にキープしようとする。 癒着が始まる。利権が始まる。 全く社会的に必要がなくなってきていようとも、社会の必要が変わってこようとも、あるいは、それぞれの行政府の国家の威信を保つためだけの軍事力となってしまおうとも、「命がけ」も「跳躍」も避けたい人々は群がる。 そして、こんな「命がけの跳躍」が少ない場所で貨幣を伴う交換で利益が出るなら、安心だ。別の場所で「命がけの跳躍」を試みるためにも、確実な売れるところを保証として残したいと考える。 消費者=買う立場、の人にとっては、実は「貨幣」が無ければ買うことができない、という問題がある。どんなに大事な、必要なもの、サービスであっても、貨幣を持っていなければ、誰も売ってくれないし、作ってもくれないかもしれない。子供、お年寄り、貧困者などのニーズが市場ではかなえにくい。 有効な需要とは、需要の中でも実際に購買力が伴って「買う」ことができるニーズのことだけである。お金が伴うニーズしか満たそうとしない。 ほかにも問題はある。たとえば、それぞれの会社(個別資本)に有利なことと社会全体にとって望ましいことが違う(合成の誤謬)。例えば、給料を上げることはその上げられた会社以外の他の全会社・資本にとっては好ましい。というのは、それだけ消費者の購買力が増して、たくさん物を買ってくれるようになるからだ。 また、永久に灯る電灯は、電灯会社以外には好ましい。しかし、個別の電灯会社にとっては、それではあらたに電灯を買ってくれなくなってしまうので、好ましくない、だから、資本の論理からのみでは、このような社会的に「良い」現象も起きない。 それぞれの会社が、または個人が自分たちで気軽に発電できて、それを他の会社に売ったりできれば都合がいい。しかし、発電と送電のネットワークを地域独占している大電気会社がいたとすれば、それは電気を売る唯一の立場から、電気を買う立場に変化する訳だから、それは都合が悪い。 「情報の共有」は社会全体にとって好ましいが、それぞれの資本制企業にとっては知的財産として利益の源泉なので、企業内に秘匿しようとする。こんなのも、個々の利益と社会の利益が矛盾する現象だ。(合成の誤謬) (つづく) 2011年 11月 25日
日曜日、2011年12月4日に下北沢のピュアロード商店街で、フリーマーケットがあります。 これは、もう20年以上も行われている下北沢老舗の(?)フリーマーケットです。 下北沢ピュアロード新栄商店会 下北学芸会の主催で、最初は路上で、舞踏会みたいなことしたいよね、 という話で始まったそうです。 トランジション茶沢会も参加しますよ。自然エネルギーカフェ、やります。 10月の雑居祭りで大きな注目を浴びた手づくり太陽光パネル、また実演します。 太陽の光りの当たり具合がいいといいんだけど・・・ こんどはどんなものを動かせるかな? ![]() そして、おともだちの飲食店Motherとコラボでジンジャーエールなども提供したいと計画してます。 その他にもたくさんのブースが並び、街がとっても温かい交流の場となります。 とっておきの掘り出し物があるかも?おいしい飲み物や食べ物、ライブなんかもありますよ。 ぜひ来てみてください〜。 また、常連Save the 下北沢もここだけしか買えない、シモキタみやげにバッチシ、な、 Tシャツ販売します。 2011年12月4日(日) 12:00〜18:00 (※雨天の場合、12月11日(日)に延期いたします) お問い合わせ : ONE LOVE BOOKS 03−3411−8302 場所:下北沢ピュアロード http://www.simokitade.com/ 地図 http://www.simokitade.com/access.html ![]() 2011年 11月 24日
原発の是非に関する都民投票 いままで、原発の立地予定地のみでしか住民投票はおこなわれてきませんでした。 でも、一番の電気消費地である東京でも原発の是非を多くのみんなの議論で考えていきたいですね。 都議会に条例制定を求める署名を始めます。 すでに、大阪、京都などでも動き始めています。 東京都でも実施したいと思います。 12月1日から開始して、署名期間は2か月です。 法律上、署名を集める資格があるひとを受任者と呼びます。 受任者になると、正式の署名用紙をいただけますので、受任者が多くなると、署名の数も増やすことができます。 細かい内容など、説明会を何回か行います。 世田谷区で行われる説明会を下記に記しました。 ぜひ、お越し下さい。 ★下北沢説明会、新たに決定です! 11月27日(日)18:00~ 北沢タウンホール11階 研修室1 で行います。 日時:11/27(日) 18:00~20:30 場所:北沢タウンホール11階 研修室1 (世田谷区北沢2-8-18) 主催:直接請求を成功させる会・世田谷 連絡先: 世田谷区豪徳寺1‐20‐7‐101 電話 03-3420-1469 FAX 03-3706-1744 詳細はこちらへ ↓ http://kokumintohyo.com http://kokumintohyo.com/branch/?p=91 【東京】活動予定 ●世田谷区での受任者説明会 日時:11/19(土) 10:00~11:30 場所:三茶キャロットタワー5F セミナールームB (世田谷区太子堂4-1-1) 主催:直接請求を成功させる会・世田谷 連絡先: 世田谷区豪徳寺1‐20‐7‐101 電話 3420-1469 FAX 3706-1744 ●世田谷区での受任者説明会 日時:11/26(土) 10:00~11:30 場所:烏山区民センター 第3会議室 (世田谷区南烏山6-2-19) 主催:直接請求を成功させる会・世田谷 連絡先: 世田谷区豪徳寺1‐20‐7‐101 電話 3420-1469 FAX 3706-1744 【参考記事】 「原発、自分で決めよう」=東京・大阪で住民投票求める―市民団体 2011年11月12日20時6分 原子力発電所の賛否を問う住民投票を電力の大消費地である東京都と大阪市で実現させようと、市民団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」(事務局長・今井一さん)は12日、12月1日から署名集めを始めると発表した。会見した俳優の山本太郎さんは「命に関わることは、自分たちで決めよう」と呼び掛けた。 同団体によると、住民投票の実施に向け、まず東京都と大阪市で有権者の50分の1以上の署名を集める必要がある。東京で約22万人、大阪市で約4万2000人分だ。署名が集まれば、投票のための条例制定を都知事と市長に請求し、議会で条例案が可決されると、住民投票が行われることになる。 東京では山本さんのほか、福島市で育った元アイドル千葉麗子さんや政治学者、主婦らが条例制定の請求代表者となり、渋谷や新宿の駅前などで署名を呼び掛ける。大阪市の代表者は今井さんらが務める。 [時事通信社] http://www.asahi.com/national/jiji/JJT201111120091.html 「原発、自分で決めよう」=市民団体 原子力発電所の賛否を問う住民投票を東京都と大阪市で実現させようと、市民団体「みんなで決めよう『原発』国民投票」は12日、12月1日から署名集めを始めると発表した。左手前は今井一事務局長。 【時事通信社】 http://www.jiji.com/jc/p?id=20111112203915-1753526&n=1 山本太郎、同居の母も共に戦う!千葉麗子も12歳の息子と戦う!リスクは覚悟の上!原発国民投票、条例制定活動開始! 2011年11月12日 22時26分 「原発」都民・市民投票実施に必要な条例制定を首長に求める直接請求代表者となることを宣言した山本太郎 [シネマトゥデイ映画ニュース] 市民グループ「みんなで決めよう『原発』国民投票」が12月1日から東京都と大阪市で開始する「原発」都民・市民投票実施に必要な条例制定を首長に求める直接請求署名活動を前に、12日、東京・水道橋YMCAアジア青少年センターで決起集会を行った。会場には東京の請求代表者を務める俳優・山本太郎や小林聖太郎監督、元タレントでヨガ・インストラクターの千葉麗子ら約300人が集結した。 同グループは福島第一原発事故以降の脱原発・反原発の運動が高まる中、原発の未来をどうするか? という判断を、電気の大量消費者である国民自らが決定権を持つべきだとして、ジャーナリストの今井一を事務局長に今年6月に発足。インターネットなどを通して賛同者を募り、着々と準備を進めてきた。 そんな中この日は、住民投票実施の第一歩である条例案と請求の趣旨、請求代表者が確定したことを報告。ただし請求代表者は自宅の住所を書類に明記して選挙管理委員会に提出しなければならないことから、著名人である山本太郎はサポーターとして活動の顔役になってもらうことを考えていたようだ。 しかしこの日、山本自ら「ちょっと待った! 確かに先日その話を聞いて、マンションの部屋番号まで表示しなければならない事にビックリしましたよ。僕は今、一人で暮らしているのではなく、母もいますからね。そこにややこしい人が来る可能性もあるじゃないですか。でも、母に告げたら『そりゃ、やるしかないやろ』と言われました」とリスクを覚悟の上で請求代表者となることを宣言。同じく、請求代表者となる千葉も「私は何も隠すことがないから、12歳の息子と戦います。全然OK!」と元気に決意を表明をした。 今後の流れとして、署名を集める受任者やサポーターを募る一方で、必要書類を選挙管理委員会に提出。12月1日から街頭などで署名活動を行い、約2週間で有権者数の50万の1以上の署名(東京で約22万人以上、大阪で約4万5,000人以上)を集めることになる。その後も、選挙管理委員会の審査や、都議会・市議会での審議など、住民投票実施までには難関が待ち受けている。中でも、同グループが提出予定の「国民投票の実施手続市民案」では投票権のB案として「年齢十六年以上の日本国民および永住外国人は、国民投票の投票権を有する」と記していることから、この日行われた記者会見では「都議会で条例案が審議される場合、原発の問題以外のこの部分で、議員側と摩擦を起こすのではないか?」との指摘もあった。しかし今井は「私たちが理想とする条例案を書き込んだだけであって、最初から妥協するような条例案を作るつもりはなかった。実際、永住外国人に投票権を与えているところはあるし、長野県平岩村では15歳以上を認めた例もある。もし、これがダメで(国民投票を)否決して、都民が決めるのがダメだというのなら、誰が(原発問題を)決めればいいのかハッキリ言って欲しい」とヒートアップ。その白熱する議論をなだめるかのように小林監督は「この(住民投票が)可決されるか否かを見守るのも意義があるが、その前に、署名をする・しないで話し合うことにも意義がある。それが民主主義だと思う」と参加者に語りかけた。 また会には、2000年に徳島・吉野川第十堰可動化計画の賛否を問う住民投票が行われた際、住民投票の会の代表世話人を務めた住友達也や、佐賀・玄海原発プルサーマル計画導入を巡って同じく住民投票に持ち込んだ「NO!プルサーマル佐賀ん会」共同代表の満岡聡ら“先輩“たちが応援に駆けつけた。さらにこの日の最年少参加者である15歳の青年がマイクを握り「原発を巡っては、たくさんのお母さんが『子供が大変だ』と訴えているけど、当の子供たちが声をあげてない。そこで僕は、子供が声をあげるべきだと思い、ここに来ました。僕達を(運動に)使って下さい。一緒に日本を変えましょう!」と大人顔負けのスピーチで盛り上げる一幕もあった。 (取材・文:中山治美) http://www.cinematoday.jp/page/N0036931 2011年 11月 23日
エネシフト塾 「依存するエネルギー社会からシフトする!ローカルでいこう!」 ◆2011年12月6日(火) 19時開始 ◆場所:三軒茶屋ふろむあ~すカフェ・オハナ http://www.cafe-ohana.com/access.html ◆参加費:500円+ワンオーダー 東北大震災被災地自然エネルギー支援プロジェクト「つながり・ぬくもりプロジェクト」への寄付金の呼びかけもさせて頂きます。 ![]() 「エネルギーシフト」は、電源種が変わるという事だけでなく、エネルギーを消費するしくみや社会の在り方、わたしたち自身の在り方までがシフトすることを伴います。どんなイメージで、どんなプロセスでシフトしていきますか?スピーカーのお二人から「自然エネルギーにシフトした地域」、「原発のある社会から変わろうとする地域」の現場のお話を。そして未来の地域とエネルギー社会のイメージをシェアしてみませんか。 ◆タイムスケジュール 19時開始 19:00~19:45(45分間) 古屋将太さん 「世田谷からはじめる自然エネルギー」地域の自然エネルギー利用の事例紹介など。 19:50~20:35(45分間) 冨田貴史さん 「エネルギー消費者を卒業する」御前崎、若狭、福島、上関、大間、串間の原発立地あるいは立地候補地域の声。 20:40~20:50(10分間) グループシェアリング 20:50~21:30くらい(40分間程度) クロストーク 進行:冨田さん。古屋さん、参加者様と。 ◆ご予約 ふろむあ~すカフェ・オハナ 電話 03-5433-8787(木曜定休) http://milk.candybox.to/from-earth/postmail/postmail.php ◆スピーカープロフィール <古屋将太さん>環境エネルギー政策研究所(ISEP)研究員 1982年生。国内外の自然エネルギー推進に関わる取り組みを研究、また、ISEPの活動を通じて国内での実践に取り組む。同研究所には大学院修士課程在籍時からインターンとして活動に参加。デンマーク・オールボー大学大学院のPhDプログラムに所属。専門は、地域の自然エネルギーを軸とした環境エネルギー社会論。アカデミックジャーナル・シドノス(http://synodos.livedoor.biz/archives/cat_62833.html)で「環境エネルギー社会への想像力と実践」連載中。 <冨田貴史さん> 1976年千葉県出身。京都府在住。鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー映画『六ヶ所村ラプソディー』を携えて少人数で語り合う上映会を全国120か所で開催。エネルギー、お金、暦の未来について語り合うワークショップのファシリテーター。現在、全国で公開中の映画『ミツバチの羽音と地球の回転』の広報・宣伝も務める。原子力、核による放射能汚染、被ばく、それらが持ち込まれることによって起こるあらゆるトラブルの解決を願うブログ【RadioActive】で情報発信中。著書に『わたしにつながるいのちのために』。「エネルギーシフトを考えるデータバンク」発案人。 ◆提供は エネルギーシフトを考えるデータバンク トランジション世田谷 茶沢会 ふろむあ~すカフェ・オハナ 【ご案内】署名集約中!2012年1月末まで 「エネルギー基本計画を変えよう!」呼びかけ:WWF JAPAN http://www.wwf.or.jp/activities/2011/05/986120.html#120 2011年 11月 21日
トランス・コミック論文 (22?)「生の地域」—内発的な地域と外部からの開発 の続き ちょっと思うところあり、また飛んで、ほとんど最終章に近い、都市と農村論を上げます。 この辺は自分の恩師である中村剛治郎先生の影響が大変強いです。 全体構成は、こちらへ → 「トランス・コミック」完全版 目次(予定) 都市と農村 さて、「生の地域」を考えるときに、地域には大きく分けて三つあるということを考えたい。一つは「野生」の地域だ。これは名の通り、海や山奥や原野など人の手がまったく、あるいはほとんど入ってない地域だ。次に「農村」が考えられる。これは農業、漁業、林業、放牧地、原料発掘地など、おもに1)2)の交換物をつくるところである。さらに「都市」がある。 「野生」の地を開拓して「農村」にし、さらにそこでの生産力の上昇が「都市」の発展につながる、それこそが近代化であり、成長である、と間違った考え方が続いてきた。 実際は歴史的に見ても、この3カ所は並列的に出てきているともいえるし(野生の地も、人間社会がなければ見出されないし、実際は人間が入って開墾されて廃れた結果、現在「野生」となっている地域もある)、今後の課題としても、この三つがきちんとした関係に立って、それぞれの独自性が生かされていかなければいけない。 「農村」と「都市」は共存関係にある。農村から都市に、食糧や原材料、そして労働力も与えられるだろう、それは都市にすむ人たちに取っての余暇の地であり、自然とふれあう人間性回復の場でもあり、都市が壊しやすい自然という環境を保ち、自然と社会を再生可能にしてくれる場所でもある。 逆に、都市から農村に、肥料や農機具や、各種の工業製品から教育や都市的な娯楽を与えられるだろう。様々な利便や農村にはない職業の場を提供したり、金融や法務などの専門的なサービスも提供する。農村にはない「自由」を与えるかもしれないし、農村は都市に薄れがちな「つながり」を与えるかもしれない。 このためには、都市と農村はお互いに近くにあるべきだし、簡単に行き来できる範囲で、活きのいい都市と農村がある方がいい。大都市と郊外にドンドン広がっていく住宅地の開発によって、遠くの安い農産物を買うだけの市場と化す都市、そしてそこに農産物などの商品を提供するだけの農村、都市の過密化と農村の過疎化、という近代の成長の仕方は、そのような中小都市と農村の近接性を壊してきた。 たとえば、集中した国家の構造があるような場所だと、農業生産物などの消費地が一カ所に集まってしまうことになる。そこから遠くはなれた地域も、あまり消費量がない近くの中小都市より、その中心の巨大都市への輸出を考える。そうすると、まず、他の農村との競争になるから、その農村はひとつの産物に集中して消費価値を上げようとする。ひとつのものだけをつくることをモノカルチャーという。無駄な長距離輸送が無駄なエネルギーや水資源をつかうようになる。 農地が減少し、生産力を急激に強めようして使う化学肥料や薬品や遺伝子組み換え植物によって、土壌の力は弱まってきた。水資源も不足しだす。農薬などに利益を見出した世界的な企業の圧力も出てくる。3)の工業生産とは大きく違う、本来地域的である農産物にまで、自由貿易の圧力と企業化の流れが襲いだす。これが帰結するところは、自然と人間の物質的交換のバランスが崩れた、持続再生不可能な世界だろう。 多品種でそれぞれの地域に根ざした在来種は、様々な病害や危機を生き抜いてきた種であるし、地域の他の植物や土壌や虫や蜂や鳥などとの多様で有機的な関係をつくり続けていて、地域全体の自然の維持に役立つ。しかし、効率優先で多収穫のみを求めた品種改良を行った単品の栽培が進むと、病害や気候の変化がその単品種に悪い場合、一気に不作になるだろう。多品種であれば、ある危機にも多くの他の種が残ることができる。 そのような中で、若者や定年後の人たちの間で、自然や様々ないのちと一体化して、例えば有機/自然農法を行いたい、それも単に農産物を納品するのではなくて、インターネットやマーケティングやデザインなど、つまり都市で学んだ色んな技術や感覚やつながりも活用して、農業を複合的に経営したいという人が増えてきている。このようなことを希望する人たちにどうやって農業に従事できるような機会を、制度を与えることが出来るか。これが農村と都市の関係での新しい動きであり、課題である。 これは農業を企業化したり、逆にアンチ都市で安易なエコロジスト的な農本主義で行えることではないだろう。制度的な面も含めた実際的で、農村の維持や持続可能性を色々な技術の考慮も含めながら、どうやって新たな「都市と農村の関係」をつくれるか、という視点が必要だ。つまり「都市」的だけであってもダメで「農村」的だけであってもダメだ。都市と農村の「関係」こそが大事な視点。 そのために、例えば、上に述べたような近接した中小都市とその周りの農村の関係がまず見直されなければならない。例えば、農村にいながらも都市の職場に通って、その日に帰られるようならば、あるいは、都市に住みながら、週末や終業後にふらっと寄れる農村/農地があったらどうだろうか。農村と都市がそれぞれの独自性を生かしながら、しかし、日々お互いの弱点も補え合えるようなそんな助け合い、強め合う関係だ。 そして、山林も重要だ。それは材木を用意するというだけでなくて、その維持は水源の水をきれいに保つし、洪水対策にもなる。間伐材などをきちんと集めることが出来れば、バイオマスなどの再生可能エネルギーをつくり出すことにもつながる。 実は、農村だけでなくて、都市のなかに農村を呼び込むのも大きな意義がある。例えば、公園、ちょっとした広場、屋上、壁面、そんなところにちょっとした畑や果樹園をつくったり、ミツバチを飼ったりということが盛んに進められている。ベランダ菜園も盛んだ。小さな規模なら有機農業を行うのも、そこまで困難ではなく、その新鮮で栄誉度の高いうまさを味わうことも可能だ。 都市の消費地、それは家庭だけでなくて、学校や会社の昼食など含め、そんな場所が近くにあれば、有機農業の新鮮さも保たれる。余計な輸送エネルギーをつかうこともない。 都市に農業地が多くなることで、ヒートアイランド現象も是正され、省エネルギーにその面でもつながるだろう。農園を軸にして、新しいコミュニティが生まれ、そこで新たな人的、文化的、経済的交流が起こることもあろう。そこでは、贈り物の交換に根ざした、基本的生存権の確保と、心の満足が得られるかもしれない。 都市の農村化はだから、いろいろな可能性を秘めている。 2011年 11月 01日
「トランスコミック論文(4) 2.商品交換(貨幣を伴う交換)」 の続き 資本の動き、止まらない貨幣の自動運動 しかし、貨幣以外の他の普通の商品を売る立場にあるひとにも、ひとつの強みがある。それは自分が提供する「商品」の内容を、情報を持っているということだ。 それがどんな価値があるか、どんな風に作られているか、そして、どうやってたくさん価値があるかのように見せかけるか、そんな情報を他の商品を売る立場の人は持っている。だから、うまくたくさんの貨幣と交換できたら、実はそれを手に入れたコストよりたくさんの貨幣商品を手に入れられることになる。 それが「もうけ」だ。 そしてその「もうけ」をどんどん追求しようとする動き、それば資本の動きなのだ。 資本はお金のこと。投資できるお金のこと・・・。いや、単なるお金とは違う。それは動き続け、貨幣、他の商品、貨幣、他の商品、と形を変えていくお金の運動。そのなかで、どんどん貨幣価値を増やしていく。図に表してみるとこうなる。 ① ものをつくる -(売る)→ 金になる=その金を使って人のつくったものを買う -(消費)→ (ふたたび)つくる ところが、この流れではいつまでたっても、同じ状態にとどまっただけ。つまり、成長がない。成長させるためには、買ったものをそれより高い値段で売る必要がある。 つまり、こうなる・・・ ② 金 -(買う:投資)→ もの -(売る:販売)→ 最初よりたくさんの金 買った値段より高い値段で売る。その金でさらに投資する。 でもどうやって、買った値段より高く売れるのだろう? 秘密は、まず、分業 にある。 物々交換では、交換するどちらの人たちも同時に売って買っている。というか、そもそも「売る」「買う」というコンセプトがなくて、二人が同時に贈り物を交換する。 貨幣を伴う交換では、売る(人)と買う(人)が分かれる。つまり、作る人と使う人が分かれる。作る人は、得意な商品に集中して、それ以外のものは交換して得た貨幣で、他の人から買えばよくなる。そんなことが貨幣を伴う交換では可能になる。 つまり、分業だ。 ある人がある商品を買いたいと考える。その商品が自分のそばの市場に無いとする。遠くの市場まで行くのは面倒なので、他の人が運んできてくれた商品を買う。その便宜を図ったということで、値段を上乗せにして売ってみることができる。 あるいは、欲しいものを自分では作れないので、特別な技術を用いて作られた商品を買うということもある。その技術を持っている人、新しく発明した人、などはその分値段を上乗せにして売ってみることができる。 あるいは、さらに、同じ商品を普通の人が作るより安いコストで作れば、同じ値段で売っても、その分、儲けることができる。 もう一つ。商品の中には、「サービス」がある。そして「労働力」がある。人間の労働力が「商品」になるのだ。 そこで、事業を始めようとする商人/支配人は、そんな「労働力商品」を売ろうとする人、労働者を雇って、いろいろな作業をしてもらう。そんな「商品」に支払う対価を、つまり賃金を、作業をしてもらう前に契約して決めておく。 その作業の結果、できた商品がうまく売れて、うまく儲かったとしよう。しかし、雇い主の商人/支配人にとっては、以前に対価として定めた賃金しか支払う義務がない。儲かった分を、それに合わせて労働者に分配する必要は無い。つまり支払うべきすべての賃金と、実際に儲かった金との差額は、雇い主にとってのもうけとなる。 ただし、儲かった金が少なくなれば、赤字となる。雇い主はこういうリスクを負う。リスクはあるが、もしうまく行けばたくさんお金を得られるだろうとおもい、商人は果敢に挑戦していく。市場での命がけの跳躍を。 そして実際に成功する商人がたくさん出て、失敗した商人や雇われる労働者などの間で、どんどん貧富の差が広がってくるだろう。この貧富の差を多くのひとが嫌悪するので、古来、商人は国家や農村の長たちにやみ嫌われた。だから、長い間、商人たちが社会を支配する「資本主義」の世の中は起きてこなかったのだ。 さて、雇われた労働者は商人の商売が赤字だと、激しく働かされることになる。運が悪ければ、まっさきに解雇されてしまう。こういうリスクが労働者にはある。 だから、労働者が「労働力」を売るのも、やはり「命がけの跳躍」だ。それは売る立場=弱い立場だから。商人/支配人が労働力商品に興味が無くなれば、買い続ける必要は無い。あらたに、就職活動を開始しても「売る立場」だから、それは厳しく、哀しいものだ。 そのリスクを冒す対価として労働者は、普段は安定した収入を得ることができる。商人が市場での不安定な儲けにかけざるを得ないのに対して。 しかし、雇い主の商人がどんなに儲かっても、労働者が賃金以上のお金を得られる可能性は少ない。いろいろな賞与がつく場合もあるが、それはまたあとで考えよう。 さて、交換がうまく行ってお金が儲かったとしても、そのお金を全部消費してしまったら、手元にはお金が残らないことになる。そうすると新たに投資することができない。 お金を内部で残しておくために(内部留保)、儲けたお金をため込む。しかし、もう一度② の式を見ると、貯め込む前に最初に、お金から始まっていることが分かる。 ② 金 -(投資)→ もの -(販売)→ 最初よりたくさんの金 最初に金が必要になる。投資資金として。要するに「先立つもの」がないと・・・ でも、最初にお金が必要ということは、最初にそれだけ借金をしている、ということになる。 その借金分を返すために、さらにたくさん稼ごうという動きが止まらなくなる。 止まらなくなっていく、このお金の動き、資本の動き「止まらない運動」。どこかに貯まっているのではなく、動いているもの。 資本は単純にお金のことではない。増やさないことにはすべてを失うゲーム。誰かがリタイアしたって、ほかの人がそれを受け継いで、資本のゲームは続く。 お金稼ぎをしたい、という自らの意思でやっていたはずの人間が、逆にお金に振り回されるようになる。 こうやって、販売する時には、たくさん売って、それも安いコストで作って、利益を出し、その増えた利益分でさらにたくさん作って売る、あるいは改造して質を良くしていく・・・という資本の動きが始まる。 大量販売。その為に大量生産、・・・大量投資が必要になる。 その裏側にあるのが、大量消費と大量廃棄、そして大量エネルギー消費だ。 人間の暮らしや遊びや憩いに役立っていたものも、お金に振り回され、破壊され、改造され、組み替えられていく。川は汚され、森は倒される・・・ しかし、何事も社会全体の生産を「効率化」させるためだ! 確かに資本の動きはたくさんの悲惨な現象を起こしたけど、資本の運動にも役割があった。資本の運動は、確かに、社会全体を効率化させ、組み替え、そして成長させてきた。 この成長は、それぞれの人間の「思い」だけではおきなかったことだ。「資本」という得体の知れない自動運動機械が、人間たちを振り回すことによって起こしたことだ。 そう、もし資本がなかったら、われわれは未だに、暴力で得た地位を振りかざす侍たち(封建領主)に支配されたり、村八分で取り締まる古臭い農村共同体に縛られていただろう。 贈り物の交換は親密さを作りながら、因習の縛り付けも伴う。 暴力による収奪と再分け合いは、社会の協同的事業を進めるが、支配を伴う。 市場における貨幣を伴う交換は、「資本」の動きを伴い、人間や自然を振り回すが、同時にそれは人間たちを自由にしてきた基本でもあった。 少なくとも、法律の上では、われわれは自由に契約することができるようになった。自由契約のもとで、われわれは自分の私的な財産を持つことができる。この私的財産は、我々を自由にする第一歩だ。私的財産をたくさん持っている人は、それだけ力を持ち、それを消費していけば、全てのことを他人に従わなくても、生きていける。選択の幅が広がるので、それは自由への道の第一歩である。 しかし、社会全体としては、「資本の動き」に支配されている。自由になっていく人間たちがどうやって、この資本の勝手な動きを調整できるようになっていくのか、これが我々の課題だ。 トランスコミック論文(6) 命がけの交換 & 命がけを避ける方法(国家と資本の癒着など)へ 2011年 10月 29日
トランスコミック論文(3) 強奪と再分配 国家の続き いよいよ、貨幣論に入りましょう。 2.商品交換(貨幣を伴う交換) 市場 そして、三つ目の第三の交換が、貨幣を伴う交換だ。 信頼感が深い人同士の間の贈り物の交換と比べると、ほんの少しの信頼しかない人同士で交換しようとするのは、とても難しい。 まったく信頼がなければ、とても相手を信じれず交換できないか、力づくで奪おうとするだろう。追いはぎのようだ。これはもちろん、暴力による収奪。 しかし、少しの信頼を持てたらどうだろう。 たとえば、ある場所では、知らない人たちがお互いが持ち合うものを信頼して交換しよう思う。 そんな場所を「市場」と呼ぶ。それはたとえば、神のようなものが司る場所で、そこでは人々はまがい物や腐ったものなどを提供しないように心がける。 そんな場所で、人と交換したいものを、人が交換してくれるようなものを持ち寄る。それは自分本人に取って使用する価値があるのではなくて、他人に取って価値を持つであろうものだから、そのようなものを特に「商品」と呼ぶ。 市場での交換はどうだっただろう。きっとそれは最初は、商品と商品の交換だったに違いない。物々交換だ。 しかし、ある人が欲しい商品を持っている人をみつけ、また、その相手の人が欲しがっている商品を偶然にも自分がぴったり持っている、そんな出会いがあるのは、とっても例外的なことに違いない。 例えば・・・ 10個のリンゴ をもっている。 〜>5個ぐらいの肉片と変えて欲しいなあ。 ある人を見つけた。5個ぐらいの肉片はあるが、リンゴはまったく要らない。 NG ある人を見つけた。10個のリンゴを欲しいが、1個の宝石しかない。 NG ある人を見つけた。5個ぐらいの肉片を持っているが、10個のリンゴは足りない。20個のリンゴだったら考える。 NG ある人を見つけた。10個のリンゴを欲しいが、3個の肉片しかない。 NG NGカットが多すぎて、いつになっても交換は成立しない・・・ 物々交換は、贈り物の交換なのだが、これが、どんどん知らない相手や、いままでにない慣習を持った人と交換をしようとすると、難しくなっていく。 だから、必ずどんな商品とも交換できるような、そんな商品があればいいな、と人々は考える。 それが貨幣だ。 貨幣は、例えば、肉片でもいい。どんな商品でも、肉片の数で換算できるとするのだ。 10個のリンゴ = 5個の肉片 1個の宝石 = 5個の肉片 3時間の井戸掘り労働 = 5個の肉片 ・ ・・・・ これは、逆も同じになる。 5個の肉片 = 10個のリンゴ = 1個の宝石 = 3時間の井戸掘り労働 ・ ・・・ つまり5個の肉片があれば、必ずどんな商品とも数は違うが、交換できるようになる。 それに対して、10個のリンゴ商品があっても、それに5個の肉片貨幣を渡す人がいなければ、10個のリンゴは交換できない。つまり「商品」にさえもならない。自分で無理矢理食べるか(消費するか)、捨ててしまうしか無い。交換できない「商品」には価値がない。 これが「貨幣」があらゆる商品の中での「王」となる理由だ。 もちろん、広い社会の間で、いろんな市場で「貨幣」の立場を持つことができるような商品は、それに適したような性質を持っていることが多いだろう。 それは、数えやすく、腐りにくく(商品としての価値を失ったりしにくい)、そして加工しやすいものの方がいいに違いない。さらに、多くの人が思わず魅了されてしまうような、そんな魔力のあるもの、商品、それは何だろう。 多くの市場では、それは宝石類であって、特に、鉱物の金や銀、銅が選ばれる。 貨幣を持っている人は、ほぼ確実に容易にあらゆる「商品」と交換できる。 でも、それ以外の商品を持っている人は、他人に価値を認めてもらえないと、貨幣と交換できず、つまり、売ることができず、市場に出てきてもそのものは「商品」にさえもなれず、社会的な価値はない。 だから、貨幣を伴う交換は、交換する同士で、平等ではない。 圧倒的に貨幣を持つ立場が強く(買う立場)、他の商品を持ってこようとする立場(売る立場)は、いつも「命がけ」で貨幣との交換に望まなければならない。売る立場のひとがいつも買う側の人にぺこぺことしなければならないのは、こんな不平等性があるからだ。 給料をもらう労働者(「労働力商品」を売る立場)も、給料を払う商人/支配人(「労働力商品」を買う立場)にぺこぺこしてしまう。もしチャンスを逃せば、買う立場の人は平気でほかの売る立場の人に移動してしまう。それを避けようとして売る立場の人は、買おうとしている人に一生懸命ぺこぺこする。 貨幣の立場(買う立場) > 他の商品の立場(売る立場) 次章に続く 2011年 10月 18日
【参考資料】 Chapter 4: “From Cooperative Commonwealth to Cooperative Democracy: The American Cooperative Ideal, 1880-1940,” by Kathleen Donohue, 115-134: Furlough, Ellen and Carl Strikwerda eds., Consumers against Capitalism? / Consumer Cooperation in Europe, North America, and Japan 1840-1990, New York: Rowman & Littlefield Publishers, INC, 1990. ビアトリス・ポッター『英国の協同組合運動』1891 118ページより。 「それ以前のイギリスの協同組合思想家と同じ様に、ポッターは社会の生産者たちの存在を高めるものとして協同組合を考えた。しかし、彼女は伝統的な考え方と違っていた。生産者協同組合を否定したからだ。彼女は言う、近代の産業社会では、そのような協同組合にはあまり勝ち目がない。うまく行ったとして、それらはアナクロニスティックで、近代以前のような小さな職人工場のようなレベルに戻るだけである。まずければ、生産者協同組合は、資本主義の競争者たちとほとんど変わらないように労働者と消費者を悪用するだけである。彼女はこう言う「つまり次のことが明らかである。すべての生産者の集合体は、資本家が労働を雇う形であろうと、労働者が資本を買う形態だろうと、あるいは、その二つの形の合わさったようなものであろうと、われわれの共同体の利益とまったく反するものになるだろう。残念ながら生産者として製品を販売する立場である限り、利益追求者にならざるをえない。生産コストと販売価格の間に大きな差額を維持しようとするだろう。」結局、生産者協同組合は、競争力のある資本主義システムの害悪を取り除くのにまったく無力であるということを証明してしまった。(156、167―8ページ) 生産者協同組合の難点を主張したポッターは、アメリカの協同組合思想の主流であった考え方に大きな疑問を投げつけることになった。つまり、消費者協同組合は単なる生産者協同組合の道具のような位置付けでいいのか。もし、生産者協同組合が最終的な到達点でなくなったとしたら、消費者協同組合とはいかなるものであるのか。更に細かく言えば、消費者協同組合がそれ自体価値があるものとして存在できるとすれば、生産者協同組合が持っていたような影響を、それはどう労働者のイデオロギーの中に生み出すことができるのか。Elyのような19世紀初頭の協同組合思想家は、それは無理だと考えていたのであった。しかし、ポッターにとっては、消費協同組合が労働者にとって持ち得る可能性は大である、という判断だったのである。 彼女は次のように記している。「個人個人の生産者がだれも同じ様に、自分の労働のための道具・機械とその生産物を所有できるような社会が、どんなに望まれても達成不可能」なので、労働者は個人個人が失ったものを「協同して取り戻さねばならない。」労働者はすでに労働組合を組織して、集団抗議をするという最初のステップを踏んだ。しかし、労働組合は、生産過程において起きた資本家の不正行為を指摘することしかできないだろう。 それに対して流通過程で起こる資本の不正行為は、彼らの能力を超えている。しかし、産業経済においては、商品市場において起こる搾取は、職場において起こるものと同じくらいひどいのだ。 ポッターは言う、労働者階級が、同時に消費者として、また生産者として組織されてこそ、それが成功するときにのみ、われわれは現在ある利益追求を基にした資本主義システムを変換させ、経済民主主義、一国の商業と製造業のなかに代表自治を創り上げることができるのだ。 流通過程において、労働者階級のメンバーは彼らの消費協同組合をとおして「独占価格を突き崩し、詐欺的な悪品質の商品を暴き出し、そして利益(それは、購買行為と販売行為の間に出てくる剰余である)これを直接、間接的に全体の社会に分配させるような形を作れるのだ」(168―9、218ページ) このような複数の局面に作られる協同組織はまた、賃金の上昇による所得の損失を販売値段を上げることによって賄おうという資本主義のたくらみを、妨害することができる。労働組合を通して今度は、協同商店の為し得た生活費減少によるデフレを理由にして賃金を下げられるようなことを、防ぐことができる。(ポッターの労働組合と消費者協同組合の合併という案は、ラッサールの賃金鉄則、つまり消費者協同組合による消費物値下げは、賃金下降につながり、結局、意味を持たない、というような意見を完全に塞ぐことになった) ポッターによれば、消費者協同組合の持ち得る変換力は流通過程のみに限られない。それは生産過程を変革する役割をも務め得る。消費者協同組合は自らが保有する工場に良好な職場条件を作るようにして、それが社会的な影響を持つようにすることができる。また、スウェットショップの様な劣悪な環境で作られた製品を協同商店に置くのを拒否したり、望まれる労働条件を維持しない会社の製品をボイコットすることによって、その影響をイギリス全体に及ぼすことができる。 だから、ポッターはこう結論づける。消費者協同組合は、「政界と同じ様に、産業界において主権を維持するための」車の両輪の一つなのだ。他の一つはもちろん労働組合である。この二つの局面・前線において、消費者として「そして同時に」生産者として、組織することによって、労働者は産業革命によってもたらされた経済的不平等を改善する希望を持つことができる。(193―203) ポッターの協同組織に対する考えはそれ以前のElyのものを逆転させたといえる。Elyは、生産者協同組合の根本的可能性を強調し、消費者協同組合を軽視した。しかし、ポッターによれば、生産者協同組合は競争と利益追求に依存せねばならず、結局資本主義システムに固く縛られざるをえない。 消費者協同組合こそが資本主義経済への本当のオルタナティブを提出することができる。 それは競争ではなく、民主主義的コントロールに頼って、価格を下げ、質を上げることができる。またそれは私的利潤に頼ったシステムを「それぞれの男女が、自分だけの生活維持や儲けのためではなく、全体的な共同体のために働く」社会を作ることができる。短くいえば、生産者ではなく消費者協同組合こそが、「現在の産業戦争の中から、協同組合原則である『全員はそれぞれのために、それぞれは全員のために』にしっかりと根差した『産業の共和国』を創り上げる」根幹を成すことができる。(204-6、221) 究極的には、ポッターとElyは、なるべき、また可能である社会的政治的秩序に対する考えが違っていたために、協同組合に対するこのような意見の違いが現れてきたのだと思われる。両者とも、産業資本主義の最大の被害者を労働者と判断し、また、それへの対処策を協同組合に求めた。Elyにとっては、この解決策は階級闘争をなくすことによって最上になされると思われた。彼にとっては、生産者協同組合はその中において、生産者自身が資本家に成る事によって、そのような階級差を無くしてしまう。しかし、ポッターは階級闘争は近代産業秩序において、消すことができないような内在的なものであった。消費者協同組合のポッターにとっての魅力は、それがこの階級闘争において労働者が勝利することができる方向を示していることであった。」 |
アバウト
カテゴリ
ブログパーツ
以前の記事
2012年 01月
2011年 12月 2011年 11月 2011年 10月 2011年 07月 2011年 05月 2010年 10月 2009年 08月 2009年 06月 2009年 05月 2009年 04月 2009年 03月 2009年 02月 2009年 01月 2008年 12月 2008年 08月 2008年 05月 2008年 02月 2008年 01月 2007年 02月 2006年 12月 2006年 10月 2006年 09月 2006年 08月 2006年 07月 2006年 06月 2006年 05月 2006年 04月 2006年 03月 2006年 02月 2006年 01月 2005年 12月 2005年 11月 2005年 10月 2005年 09月 2005年 08月 2005年 07月 2005年 06月 2005年 05月 2005年 04月 2005年 03月 最新のコメント
おすすめキーワード(PR)
ファン
| ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||