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2011年 07月 03日

自然と人間の交換 トランスコミック序論

 1.セカイノカラクリ
 交換 

 人間の社会とは何だろう?

 自然から生まれた生物の一つ、人間。

 二足歩行ができ、そして叫び声、鳴き声、歌が言葉にまで至り、その間の「コミュニケーション」、つまり、様々な交換が、他の動物と比べ、とても複雑になった生物。会話も「言葉」を通した「考え、気持ち」の交換だ。

 様々な交換は人間同士だけではない。まずは、周りの自然と人間たちが、いろいろな交換を行ってきた。

 人間同士の交換は、様々な「社会」のかたちを作る。

 自然と人間の間の交換、人間同士の/社会の中でのいろんな交換  この二つの交換を探れば、「セカイノカラクリ」が分かる。

自然と人間の交換——人間と人間の交換

 いまの社会を生きる私たちには、「交換」と言えば、貨幣を通した交換を第一に考えやすい。「もの」と「もの」の交換は金を通して、「もの」と「サービス」の交換も金を通して、それを行うのが社会… 本当にそれだけだろうか?

 実は、交換には大きく分けて、三つの交換がある。

 ひとつは、贈り物の交換。
 ひとつは、暴力による収奪とそれを再び分け与える交換。
 ひとつは、市場での交換、おおくは貨幣を伴う交換

  だ。

 これは、人間と人間の間の交換、自然と人間との間の交換、両方で起きる。

 自然と人間の交換でいえば、本来自然の恵みをありがたく受け取ってきたのが人間だ。そして、また、自然は時に大きな災害を、病原菌を人間に与えてきた。それを避けるために、人間は自然からの大いなる贈り物に感謝し、宗教的な儀式などで、自然をなだめ、感謝を告げようとしてきた。

 さらにまた、自然の水の流れに手を入れたり、雑木林を残して山の保水力を高めようとしたりして、自然のゆったりとした再生産を助けて災害が少なくなるように工夫した。自然界にあるいろいろな物質を混ぜ合わせたりして薬物として使ったりもした。荒れ狂う自然の暴力を少しでもなだめ、少しずつ安定して恵みを得ようとしたのだ。

 そしてやがて人間はさらに自然をコントロールしようとし、自然に手を加え、暴力的に開発し始めた。

 また、自然の恵み、自然による人間社会への損害も、やがて市場における交換の価値で測ろうとしだす。自然の損害、人命の損害さえも、結局「貨幣の損害」としか考えられなくなる。

 しかし、そんな「交換」は大きな交換の中の一つにしか過ぎない。

 「自然と人間との交換」さえも「貨幣を伴う交換」と考えるというのは、そもそもおかしくないだろうか。「自然」の承諾を得ていない、人間のおこがましい考え方。

 「自然」は再生産を前提として、いまあるものを回復していく。木や草は朽ち、それを栄養にする生物がいて、その生物を食べる生物がいて、その排泄物が栄養になり、あらたな木が生える。水は海水から蒸気になり雨となり降り注ぎ、地下水から川を通り、多くの生物の体内を通り、海に戻る。太陽光や地熱はそのエネルギーを樹木・植物により変換され、光合成によって空気に酸素が加えられ、地球を生物が住める球体に維持してきた。その球体は宇宙との間で熱の代謝をし、マグマによる熱を放熱・調整し、地表の温度を岩石を大気を安定させてきた。

 これが「死」と「再生」を通した自然の流れであり、循環であり、再生産である。

 自然というものをよくみると、実はそこには「交換」という原理は存在していないように見える。つまり、あるものを渡して、その代わりに「等価」のものを受け取る、というのが「交換」の定義だが、自然はそのような交換をせず、絶え間ない贈与と絶え間ない略奪を続けながら、いつのまにか全体が釣り合っていく「循環」を行っている。太陽からエネルギーを与えられた(贈与)地球が代わりに何か太陽に返しているだろうか?交換しているだろうか?海が津波で陸を略奪したからといって、仕返しをしたり、略奪したものを意識的に再分配するだろうか?自然には、見返りも仕返しも無い絶え間ない贈与と略奪だけがあり、しかしながら全体が循環するという代謝がある。

 しかし、人間は「等価」という観念をもつ。本来違うものを「等価」である、と意識できる。違うものを「等価」であると意識する能力は人間の想像力による「喩」の能力からうまれていると思われる。

 「等価」という観念が無い限り、「交換」は成立しない。贈与されたときに、何か違ったものを返して、贈与返しをして「互酬」を成立させることはできない。贈与されたときに返却したい時はまったく同じものをそのまま返すしかできないだろう。「等価」と想像できず、「同物」は「同物」である、としか考えられないのが自然界である。つまり、贈与にせよ略奪にせよ、ものを渡されて消尽してしまえば、それで終わりである。返すことのできる別のものが「等価」であるとは考えられないのだから。しかしだからこそ、自然界は贈与・略奪の一方的な流れを続けながら、全体として循環を成り立たせられる。

 人間は「等価」への想像力の能力を持つが故に、贈与・略奪に対して「等価」交換を行わない限り、耐えられない。「愛」からうまれる純粋贈与のような形でさえ、その相手からも愛されたい、という見返りを求めざるを得ないのだ。自然からの容赦のない災害(略奪)でさえ、なんとか意味を求め、ふたたび恩恵を下さるように祈ったりせざるを得ないのだ。

 そしてさらに人間界で「貨幣を用いる市場交換」が発達するにしたがって、人間と自然との交換も貨幣価値で行えないかと考えるようにまでなる。

 繰り返しになるが、自然は絶え間ない一方的な贈与と略奪を行いながらも全体としては「循環」が起きるような代謝を行っている。

 この自然の流れを途絶えさせて、「自然」の被った損害を、人間の市場で交換できる「貨幣の価値」で測るとは、そもそも自然との貨幣を伴う交換ではない。自然は損害を貨幣で人間界に要求したりなどしない。自然から大きな恵みを得ながら、廃棄物を自然に垂れ流しているのは、平等な交換ではない。自然に暴力をつかって収奪する行為だ。

 人間が「交換」を求めざるを得ない生物であるから、自然と人間との関係も、人間は交換を求めざるを得ない。しかし、自然は「交換」より循環を尊ぶ世界であるから、その両方を成立するような自然と人間の関係を樹立せざるを得ない。

 それは自然を破壊し続ける開発ではなくて、自然のゆったりとした持続する再生産の流れに人間の社会を入れこんで包まれるようにしなければならない、ということ。どう行うのか、自然と人間の間の「交換」をどう行うか、人間側から知恵を絞り、自ら律するしか方法は無いだろう。
 
 自然と人間の間の交換を3つの交換で分けてみるとこうなる。

1.贈り物交換:「死」と「再生」を通した自然の永劫的持続から様々な恵み、栄養を送られ、それに感謝する儀式を、自然の猛威をなだめようとする儀式を、行う人間たち。

2.収奪と再分配交換:自然も人間も時に暴力的にお互いを傷つけ奪い合う。自然災害は自然の人間に対する収奪だし、確実に生命を奪う「死」も自然による収奪かもしれない。そのかわり、自然は生命を維持していく大きな恵みを与えるし、あらたな「生命」子どもたちを産む力を人間に与えてきた。そんな自然に対して人間は奪ったものをどう再分配できるのだろうか。ある地域の地形を変えて人間の益にする代わりに、他の部分の自然をより持続可能なものに変えるのだろうか?

3.市場を通した交換:自然は貨幣を用いないし、価格交渉もしない。だから、自然と人間との交換で市場交換をどう考えるかは難しい。例えば、地面の値段、地代はどうだろう?地面は自然が生み出したものだから、その自然が再生産できるように、再創造できるようにする費用をその地面を利用した人は支払わなければならない、それが地代だ、という考え方がある。一方で、地面から生まれる貨幣的価値は、人間の労働が入るのと入らないので、大きく違う。だから地代は人間の労働力に対して支払うもので、その土地の私的所有者に支払うべきものだ、という考えもあり、現在はこの後者の考えが主流だろう。しかし、それでいいのだろうか?

 自然と人間の関係に関しては、このあとも折りに入れ触れながら考察していきたい。

次章に続く
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by ganpoe | 2011-07-03 14:38 | Social or Economic


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