地域, 政治, 経済そして音楽・・・浅輪がんぽおのブログ

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2009年 01月 31日

二元対立思考法を抜けて、中間領域へ

2004年11月12日



 大げさなタイトルを立ててしまいましたが、要するに、相反する二つのものを対にして考えてしまうやり方。これが染み付いてしまっているみたいなんで、これを一つ一つ取り除いてしまえ、という主張なわけです。

 たとえば、正−反、たとえば、高−低、たとえば、黒−白。こういう反発、敵対関係はよくない。黒白、といわれたら黄色人種と呼ばれる人たちはどうしたらいいんでしょう。もちろん、ある程度物事を単純化して、抽象化して考えることは必要なこともあるのですが、そのときは、単純化した、ということを意識して、いつでももう一度そういうカッコ入れをはずして、現実の複雑さを見つめる必要があります。
人(個人) 神
国家 無国家主義(アナーキズム)
資本主義 社会主義
自由 平等
個人の権利 市民の義務

 と考えているから、どっちつかずになってしまう。無国家主義ではだめだ。無秩序が支配するだけだ。あるいは、社会主義ではだめだ。自由がなくなる。人々の創意がなくなる。やっぱり国家と資本主義を進めるしかない、とか。なぜって、資本主義は貨幣と市場によって人々の自由、なんらかの必要への欲求を達成させてくれるし、国家はそういう資本主義を保障する。やはり抜かせない。いやいや、しかし、資本と国家があると世界的な問題、戦争から貧困・環境問題、これが深刻になっていく。どうすればいいんだ!・・・と、いつまでも回答が出ない。

 あるいは、ほかにもこんな二元論。「貨幣を使わないと信用できず交換できない」←→「貨幣なしでお互いに信頼して贈り物をするようにしよう」。
 あるいは、「権力がないと世界はまとまらない」←→「権力はしかし腐敗する」とかね。

 ミドルグラウンド。中間領域というものがあるでしょう。何か「言葉」で考えるたびに、突然自分の活動圏(現実)を離れて飛んでしまう。たとえば、「世界」と考えれば、もう世界中いけてしまう。「国家」と考えたら、それを変えなければ、と思う。でも、現実ではとても自分の手には届かないことを知って、失望する。

 何かを行動する、といってもいきなり世界全体を変革するような行動をそれぞれが取れ、といっても無理ですね。もちろん、世界的、そして歴史的な視点はちゃんと頭に入れておかなくちゃ。でも行動は、ある地域で深く長く、いろんなネットワークを作りながら、という風でしかできません。Think Globally, Act Locally! ってスローガンがありましたね。人が実際に行動するには、ある枠組み、容器、みたいなものがあります。少なくとも、そういう空間的な枠が。頭で考えるときには枠をはずして、抽象的に物を捕らえてしまいますが、実際の行動に移るときは、そのような容器に戻らなくてはいけない。いや、世界の動きを分析するときも、たとえ大企業でもそういう空間的な枠組みの中で動くのだから、考えるときもこの視点が必要です。

 世界的に民主主義を成り立たせる、共和的にする、もいいですが、それぞれの地域で自治ができるようにならなかったら、そもそも始まりません。ここで「地域」といってるのは、「国」と違いますよ。これも「市民」とか「市民社会」とか言いますが、それだと空間的な面がまた見えなくなってしまう。市民と国家、とか、市民と企業、とかの二元論になってしまう。

 地域で政治、民主主義を考えるというのはよくありますが、実は、では地域での「自治的」経済、というのをなぜきちんと考えようとしないのでしょう。そのような地域自治を可能にできるような経済構造、ネットワークがない限り、政治的な自治は長続きしないものです。だからそこには市民や企業、あるいは地方自治体、国家の出先機関、などが入ってきます。もちろん、外の地域、企業などとの関係も入ってきます。
 
 たとえば日本語で「世間」という。世界、個人、あるいは家庭、ではなくてある意味中間領域としてのおかしな「世間」。で、世間ってのは大体自分が見聞き、活動し、会えるくらいの範囲をいう。もちろん、会う人がほかのところから来ている可能性は大有りだから、その範囲は伸縮できる。実は僕はこの「世間」ってのが嫌いなのだが、「世間体を気にして」ね(笑)。でもそれはおいといて、こういう活動領域、という範囲で考えることはできないのかな。と思う。そうすると全体と個人、とかの二元的思考で矛盾に陥ってしまうようなことから逃れることもできるのではないか、と思う。

 といっても、特に現代はメディアが発展しているから、この「世間」ってのもしょっちゅう「世界」から影響を受けるということは重要です。それから、やはり僕みたいに世間を嫌がる、自由を求める、というのは人間の欲求としてある。だから、そういう世間の中には「自由な個人」がある、としなければならない。

 こうすると普通に日本語で言う「世間」というのでは合わないから、何かほかの言葉がいいんですけどね。トックヴィルは民主主義を支える重要なものとして、「自由な個人の共同体」としての地域自治、ということを言いました。こういう言葉っていいね。いつか前に「全人的な没入」としての共同体とアソシエーションの違いを書きましたが、「自由な個人の共同体」というのは、そういう農村共同体みたいなのを超えて行く(トランスして行く)感じがある。

 自由な個人、と、共同体、というのは矛盾してるみたいに聞こえるけどね。この二つが一緒になってるのがいいんだ。自由主義、というのは個人主義、個人の権利について考えるんだけど、共和主義というのは政治アソシエーションの一員、市民であること、Citizenshipということの義務みたいなのを考えてるといいます。「自由」と「義務」なんていうとまた二元論みたいになっちゃうけどね。

 「自由な個人の共同体」としての地域自治。
 
 こういう中間領域を考えながら、世界(グローバル)、あるいは国家(マクロ)と、個人・企業・家計(ミクロ)との関係を計りながら、今度は「経済」というものを見ていったらどうなるだろう。ここに資本主義の、国家の矛盾、しかしそれらが持つ役割を捨て去らないで、改変して行くヒントが見えてくるんじゃないかな。


【参考文献】
パットナム『哲学する民主主義——伝統と改革の市民的構造』河田潤一訳、NTT出版
トックヴィル『アメリカの民主主義』
加茂利男『都市の政治学』自治体研究社
柄谷行人『トランスクリティーク』岩波書店
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by ganpoe | 2009-01-31 12:30 | Social or Economic


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