地域, 政治, 経済そして音楽・・・浅輪がんぽおのブログ

ganpoe.exblog.jp
ブログトップ
2009年 01月 31日

共同体と個人主義と協同体

2005年3月3日



 「コミュニティカフェの今日的可能性」という文でちょっと足りなかったと思うことを細く述べてみたいと思います。まず、少し古い文(1992年)ですが、『環境と公害』という雑誌にこういう発言がありました。

 「戦後の日本では、地域というと共同体と結びつく古い要素をかかえる克服すべきものといった近代化論に立つ考え方が主流でした。資本主義の発展とは、地域のもつ共同体的な制約からの個人と企業の解放であると考えられてきました。

 しかし、歴史はなんとも皮肉です。確かに、西欧近代化が生んだ個人の自立と市場経済における企業の自由こそは、工業化の原動力であったのですが、ポスト工業化段階を迎える今日においては、共同体的な関係を組み込んだ日本の企業がフレキシブルな生産システムを構築して強い国際競争力を築いたと注目されています。

 西欧社会は個人主義的な資本主義社会といわれますが、企業内や企業間の関係ではそうでも、マイスター制度という形で都市のギルド制を残したり、教会組織を大事にし、都市のどこからでも教会の尖塔が見えるという都市景観を近代以降も侵さず、建築の自由を制限したり、都市の宗教性を維持しているというのは、逆に、西欧社会は、共同体的な中間組織を重視し、都市を共同体として組織していることを示しています。そこに、西欧の都市の魅力の源泉がある。近代化工業化のもとで、個人や企業、国民経済の発展がめざされても、人間としての再生をはかる共同的な生活の場としての地域を基礎にしてのことであるということが示されている、といってよいでしょう。

 共同体意識の強い日本といわれますが、それは、戦前は天皇制国家、戦後は会社についてであって、戦後の日本の都市や地域については、共同体的な意識は希薄化し、個人主義的に、あるいは、企業の自由に委ねられて、自由に破壊と建築が行われています。むしろ、この状態を都市の活力として経済主義的に歓迎しさえしてきたのです。戦後日本の国土計画は、地域の発展ではなく、企業の発展を経済の発展と混同し企業システムを国家によって支え、企業システムが国土全体に展開し、国土を効率的に利用していくことを近代化や発展と考えてきたのではないでしょうか。その結果が地域や環境の破壊です。

 共同体的な関係を切り捨てる近代化ではなく、近代化の中に共同体的な関係が生きているという時に、いい結果がうまれているようです。そして、普通の教科書では、資本主義は、ミクロな経済主体としての自由な個人と企業、マクロな経済主体としての国民国家を基本単位とすると書かれているのですが、実は、その中間に、地域あるいは都市や農村を独自の単位としてどう位置づけるか、共同体的な中間組織としてどう組織するかが、経済社会のあり方や環境の質に決定的な影響を与えるのです。

 戦後日本の国土計画が環境と開発をどう考えどう処理してきたか、その検討を通じて環境と開発の原則をあらためて考えるというとき、環境と開発を直接無媒介的にとりあげるだけでなく、国土計画は経済発展の単位をどのレベルで考えてきたか、地域を独自の単位として育てようとしてきたのか、それゆえ、多様な地域の集合体として国土の発展を構想してきたのか、それとも、国土を単位として国民経済の成長をめざし、地域はさまざまな機能の展開する現場として効率的に利用する対象としてしか位置づけてこなかったのか、という問題を媒介して考えることが重要だと思うのです。」(中村剛治郎発言、雑誌『環境と公害』Dec.1992 Vol-22 No.2、37ページ)

 長くなりましたが、私はこれを非常に鋭い考えだと思います。普通、経済学・経営学を専門にしている人は、どうやって企業を効率にするか、その全体としての国民経済・世界経済を成長にもっていくか、ということを問題にし、社会問題などを研究する人たちは、企業構造・経済構造を現実的に考察・研究しない。その壁を越えていくような考えです。

 さて、重要な論点を覆すようですが、会社共同体と地域共同体、都市共同体とは信頼感によって結ばれた人間の(自然・歴史との)つながり、という点では確かに似ているのですが、厳密には少しずれるところもあると思います。要するに日本では共同体を会社の周りに作りやすいのに対して(といってもリストラの最近ではどうか知りませんが)、なぜ地域・都市共同体が生まれてこなかったのか、というのが知りたいのです。

 「個人主義」という言葉の定義にもよりますが、ここで中村さんは、「私的利益」中心主義、という意味で使ってられると私は考えます。「私的利益」と「個人的」とは違う、としたほうが論点がもっと明確になるのではないでしょうか。

 「私的利益」というのは、貨幣をたくさん持つためにたくさん金を稼ぐ、あるいは、短期的な金銭価値に結びつかないと思われるものを「無駄」としてどんどん省いていく、ということですね。その意味では「個人」の価値観に根ざしているというよりも、市場交換の中で「私」の得られるパイをなるべく大きくしよう、という欲求に根ざしている。言い換えれば、「個人」でなく「市場」あるいは市場の交換の中で増殖する貨幣価値=資本への欲求に「依存」している。
 抽象的に言うと分かりにくいと思いますので、具体的に言えば、個人主義がなくても、お金は稼がなければなりませんから、「自然に」会社の周りにたむろして依存します。会社には勤めなければいけない。それは仕方ありません。しかし「なんとなく」、つまり「個人」の意思で選択をしないでいれば、会社にただたむろするようになります。だからこれが「共同体主義」です。例えば、その地域に生まれてしまったので、選択もせずにそこの地域共同体にはまり込む、というのに似ています。

 それに対して、「個人的」に行動する、とはどういうことでしょうか。金銭的には、私的利益を追っていれば地域市民活動などする必要がないので——少なくとも短期的視点で見れば——それらは「あえて」しなければならない。この「あえて」というのが個人主義につながるのでないでしょうか。その個人性を発揮して、よりよく社会を発展させるために、他の人と「協同」する必要がでてくる。お互いがお互いのエゴや安住のために足を引っ張り合うような共同体ではなくて、都市、地域として発展できるようにそれぞれの創意性を出し合って作っていく協同体になるのではないでしょうか。

 したら実際のところ私的利益としては損になるのかもしれないけれど、何か倫理的・不変的な価値——理性や美にのっとった——のために「あえて」それをする。あるいは維持可能な発展のために「あえて」する。そういうことをする個人・合理・行動主義がなければ市民活動は始めませんし、それを可能にするために他の個人と「協同」しなければ地域・都市「協同体」はつくられないでしょう。創造的になるために、他の人との協同から生まれてくる信頼をてこに、地域をより良くつくりかえて行くのです。

 トックヴィルは「自由な市民のコミュニティー」といいました。このような「あえて」行動することによってしかできないコミュニティー、アソシエーションを、「なんとなく」集まった伝統的・既存の会社共同体と区別するために、漢字で「協同体」と私は表現しています。

 ところで、会社も「あえて」個人主義で作りかえることが出来ると思います。会社は「私的利益」を追うのは二義的、あるいは結果であって、本質は社会が必要なものをより質が高く効率よく提供する「機能」である、とする。企業からの視点でなく、消費者・生活者を主語とするとそうなります。

 瑣末問題を論じたようでした。ともあれ、上の中村さんの議論は、閉鎖的な共同体のコミューンみたいなことをいっているのではありません。自給自足を基礎とする、というような非現実的な議論ではありません。開放的であり、地域間分業の一つを担いながらも、自立性を保てるような形を模索しているのです。最後にまた引用しておきましょう。

 「地域は開かれた存在であり、地域間の交流と連帯を不可欠とするということである。地域はそれぞれ地理的・歴史的条件を異にする多様性を特徴とする。他の地域の個性や独自性にふれてこそ、人間はより豊かになれるし、地域は新しい発展に向けた刺激を得る。しかし、地域間の交流や交換は、相互補完的なものだけでなく、地域間の不平等を拡大したり、地域間の支配従属関係を生むこともある。地域が独自な存在としての主体性を持たずに他の地域との交流や交換を行う場合に起こりがちである。」(p.62:中村剛治郎『地域政治経済学』有斐閣、2004年。)

 「いずれにせよ、従来の地域経済の定義には再生産圏、いいかえれば自給圏の発想が強い。地域経済学は地域経済の自律を考えるが、自律や自立といえば再生産圏=自給圏を想定するという非現実的な発想にとらわれているように思われる。それだけに、どのスケールで「相当な部分の素材と人間との再生産循環」を考えるのか、具体的に示しえない結果になっている。」(p.66:同書)

「経済が広域化し、国民経済や世界経済のスケールで経済循環が行われるにもかかわらず、一定の限られた範囲で経済を捉え、経済活動の基本的単位として地域経済を捉えるべき根拠は、まずは、人間の共同的生活圏=自律・連帯・環境の自治共同体(行政単位の地方公共団体ではない)としての地域にあると考えるからである。」(p.70:同書)

 「資本主義のもとでの地域は他の地域との交換や交流、相互依存関係の上に成立する。しかし、地域が独自の統合空間として形成されないまま、地域間の交流や相互依存関係の中におかれるとしたら、地域は地域でなくなり(自律性を失い)、他の支配的な地域の影響下にくみこまれることになろう。それゆえ、地域は、経済社会の発展の単位として、社会的再生産を担う経済的活動であれ、政治的・文化的活動であれ、何らかの部門あるいは特定の分野の全国的・国際的な活動の独自の中心地として自らを形成し、全国的・国際的活動の情報交換と知識創造の一つの中心地(たとえば、特定産業首都)としての機能を軸に地域内統合を図る。地域は独自の結節地域として統合的に形成され、同時に、他の地域との必要な交流・交換を行うことが可能になる。この結果、軸となる機能を支えるためのさまざまの経済活動と経済循環(再投資を含む)が、地域内に生まれ、あるいは、他の地域との間に生じる。食糧供給や福祉サービスなど自給性をもつ経済分野とともに、専門化経済分野による独自の中心地としての地域の発展が、独自の地域内地域間の経済循環を生み、半専門・半自給としての地域経済の形成をもたらすのである。」(p.71:同書)

 

【参考文献】
『環境と公害』Dec.1992 Vol-22。
トックヴィル、アレクシス・ドゥ 『旧体制と大革命』。
中村剛治郎『地域政治経済学』有斐閣、2004年。
[PR]

by ganpoe | 2009-01-31 12:33 | Social or Economic


<< 対立から発展的統合へ(フォレット)      コミュニティカフェの今日的可能性 >>