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2009年 01月 31日

対立から発展的統合へ(フォレット)

2005年5月1日


対立を超えて、発展へ (メアリー・P・フォレット)

 前に、二律対抗というようなことを言ってそれを超えよう、というようなことを私は言いました。しかし、対立するってのは(コンフリクト)よくあることだと思います。で、それは決して悪いことでもない。対立する点があるって分かることは。そこに問題がある、というのが分かるということだから。だから異質な者たちがたくさんいて、たくさん衝突してたくさん対立が生まれたらいい。いろんな問題を発見できて、そして解決できれば発展できるから。

 戦前に活躍した経営コンサルタント、メアリー・P・フォレットはこう言っています。

「相違性への恐怖は日常生活そのものへの恐怖になる。必然的に相対立するものたちが持つ不経済な争いなどではなくて、社会的に価値ある諸相異点が全員の豊かさを自ずから示している、通常の過程として、コンフリクトを考えることが出来るのである」

「われわれに合わせて欲しいのではない。われわれは、コンフリクトが持つプラスの価値が欲しいのである」

「われわれは相異を止めるのではなくて、ごちゃ混ぜになることを止めたいのである。」

(『創造的経験』。『M・P・フォレット/管理の予言者』24ページより)

 フォレットは主に1920年代に活躍した女性ですが、アメリカの経営学の最良の部分を代表しています。たとえばフレデリック・テーラーなどに影響された「効率至上主義」の経営学(いまだにMBAなどをとった人の多くがこれが経営学の粋だと誤解する)と違い、「効率」のみでなく、すべての人間の創造性、彼らのモラリティー、モチベーションをも重要視する経営学、さらにローカルな現場から出てくる知識、問題発見能力、解決能力、それらを他の人々と相互主義的に、協同的につなげていくという方法、このようなことを唱えたのです。それが実は「長期的」には最も効率的である、とも。

 しかし、タテ型のハイアラキー、官僚型、軍隊型の集団組織を好んだ多くのアメリカ企業の経営者に彼女はすぐに忘れ去られてしまいました。上司のみが問題を解決でき、命令できる、そして労働者はまるでロボットのように完全に操作されたほうがいい、そういう考えが広がったのです。もちろん、テイラーは同時に労働者の意見も聞く——彼らに実行権は与えずに——さらに彼らにたくさん給料を払うことで、彼らの福祉も図る、とも言っていました。それがまた、たくさん消費する労働者、大衆消費市場を土台にする20世紀アメリカ型経済システムの確立に役立ったのです。

 このようなシステムが、現在行き詰ってきた、といわれています。その理由はたとえば、これでは労働者のもつ創造性が発揮さらずに製造業において生産性が低くなっていったこと(日本などの労働者自身による改善を勧めるシステムと比べて)、そして、大量消費に伴う大量廃棄、エネルギー浪費による環境問題、中東における石油争奪に伴う紛争、などです。

 そんな中で、フォレットが再び見直されている、という背景があります。たとえば、有名な経営学者ピーター・ドラッカーなども、彼女を最大の師の一人として仰いでいます。

 経営学、というのはこのように、単に経済効率第一主義のみのものではないのです。このことを重視する必要があります。「左」の方でも「右」の方でも、また環境運動などをやっている人たちに「経営学」というのを敵視する人たちがいますが、経営学にもいろいろある、ということを知っておく必要があります。「経済的」である、ということは無駄を少なくする、ということでもあるし、人々の創造力を有効に発揮できる環境づくりをする、ということでもあるのです。

 私に言わせれば、壮大な世界改造計画、などを出してきた旧来のマルクス主義者たちや、逆に、本当にあったかどうかも知れない伝統、歴史を捻じ曲げてでも正当化しようとする、国家主義、国民主義者などよりも、フォレットにずっと学ぶべきものがあります。それはつまり組織論です。

 とはいえ、対立というものがない、ということはそもそも問題を発見することも出来ない、ということです。個人はそれぞれ違う人間関係を通ってきてるのだから相違があって当たり前。だから、実際は、対抗運動も、正統主流派も、ごまかしたりせず、きちんと立場を明らかにする必要があります。歴史や現状把握をいいかげんに捻じ曲げてはいけない。その上で極端に走るのではなく、世界に多く出てくる問題を解決するためにも、お互いが「仲良く」情報を出し合って、何が根本問題で、そして、そんな問題は実は問題ではなく、解決できるのではないか、ということを想像=創造していったらどうでしょうか。

 ある一人の天才が、あるいは数人のエリート集団こそが全体的な問題をうまく解決できる、ということはないのです。そもそも「全体的な問題」とは何でしょうか?「Think Globally! Act Locally!」といわれているように、地球環境問題なども、結局、それぞれのローカルで解決していけるような形にならない限り、解決は無理ではないか?ローカルな問題、そこで次から次へと出てくる対立を一つ一つ、現場の人たちが解決していく、そのような形でしか、結局「グローバル」に出てきている問題も解決できないのではないでしょうか?

 参考として、いくつかフォレットの著作から抜書きしておきたいと思います。

 「対立を処理するには主要な三つの方法がある。それらは、抑圧(domination)、妥協 (compromise)、統合(integration)の三つである。抑圧は、明らかに一方の側が相手側を制圧することである。対立を処理するには、これは最も容易な方法である。だが、長期的にみると成功しないのが普通である。このことは第一次大戦以来のいろいろの出来事から理解できる。
 
 建設的対立の問題を処理する第二の方法、すなわち、妥協についてはわれわれはよく理解している。というのは、われわれの間での論争の大部分はこの方法で解決されているからである。和解を得るために、あるいはもっと正確にいうと、対立によって中断されていた活動が継続して行なわれるようにするために、相対する両当事者がそれぞれ相手方に僅かばかり譲歩するのである。」(『組織行動の原理:動態的管理』(新装版):43ページ)

 「今日、少なくとも承認されはじめている、また、ときには使用されている方法に統合というものがある。まず非常に簡単な例を取り上げることにしよう。ある大学の図書館の小さな一室である日、ある人が窓を開けたいと思い、私はこれを閉めたままにしておきたいと思った。そこでわれわれは、だれも席に就いていない隣の部屋の窓を開けたのである。そこには妥協はなかった。なぜなら、われわれはともに、自分たちが真に欲するものを得たからである。つまり、私は閉め切ったままの部屋がよかったのではなく、ただ単に北風が直接自分に吹きつけるのが嫌だったのである。また、私とともにその部屋にいた人は、特定の窓を開けたいと、思ったのではなくて、単にその部屋にもっと空気を入れたいと思っていたのである。統合とは、Aの欲するものもBの欲するものも含むような第3の方法、つまり、どちらの側もいかなる犠牲をも払わないですむ方法を発見することを意味するのである。

 もう1つの例を取り上げてみよう。ある酪農協同組合連合会(Dairymen's Co-operative League)が、ある乳製品倉庫(creamery platform)における罐の荷卸しに関する優先権の問題をめぐって、ほとんど崩壊するところまでにいたったことがある。その乳製品倉庫は丘の中腹にあった。丘を降りてくる人々は、自分たちが下り坂の中途で待機するように要請されるいわれはない、だから自分たちが最初に荷卸しすべきであると考え、また丘を登ってくる人々も、同じように自分たちが最初に荷卸しすべきであると考えたのである。彼らはこのことについて激しい口論になった。それがあまりにも激しかったので、その連合会は崩壊寸前になったのである。皆さんも推測できるように、双方はともに、まさに2つの可能性について考えていたのである。即ち、登坂者と降坂者とのどちらが最初に荷卸しすべきかということについてである。しかしそのとき、ある第三者が、乳製品倉庫の位置を登坂者も降坂者も同時に荷卸しができるように変更すべきであると提案した。この提案は双方の側に受け入れられた。両者は満足であった。しかし双方の満足は、自分の主張する方法が採用されたことによって得られたものではなかった。彼らは第3の方法を発見したのである。統合は、発明、即ち第3の方法を発見することを含むものである。賢明なことは、このことを認識し、人々の思考を相互に排他的である2つの代替案の境界内に閉じ込めないようにすることなのである。換言すれば、皆さんはけっして二者択一的な状況(a neither-or situation)に苦しめられてはならない。皆さんは、あれかこれかのいずれかに同意しなければならない、とはけっして考えてはならない。第3の方法を発見するのである。

 しかも、これについてきわめて興味深いことは、第3の方法が進歩を意味しているということである。支配にあっては、皆さんは現状にとどまっている。妥協にあっては、皆さんは同様になんら新しい価値を取り上げることはない。しかし統合にあっては新しいあるもの、つまり、どちらか一方という考えを超えた第3の方法が生まれるのである。(M・P・フォレット『管理の予言者』:223-224ページ)

 「・・・もし自分たちが Aの観点をとりBの観点を拒否するとするならば、Bの観点のうちにあるかもしれないあらゆる利点を失うであろう、ということを自ら知っているからである。賢明な管理者はAの観点からもBの観点からも、ともにその利点を得たいと思っている。そこで彼は、彼らの異なる経験と異なる知識とを協働的に調和させるような、それらの間の相互作用を確保しようと努力するのである。

 もし最高管理者が、自分の企業において異なった方針を統合しえないならば、即ち、ある方針の下に管理者たちを心から結合させえないならば、抑圧がこっそりと作用して、彼の企業の成功をはばむ非常に強力な要因となるであろう。というのは、抑圧は不満を意味し、しかもそういった不満は心に作用して増大し続け、さらに、われわれがもっとも見たくないと願っているところで、つまり、これを最初に処理してしまったときより、もっと多くの争いをわれわれにもたらすようなところで、ときを選ばずに不意に起こるかもしれないからである。

 同じようなことは、諸国民間の紛争の場合にも見ることができる。ある調停された事件において、自国に不利な決定をされた国民は、自国の望むことが得られる将来の機会を待ち望むだけであり、しかもその間、失望と不公平な扱いを受けたという意識とによって憤慨をおぼえるので、争いは大きくなるのである。」(M・P・フォレット『管理の予言者』:226ページ)

 「・・・私が特に強く勧めているのはこのことである。つまり、相違を解決する方法について実験を試みることを勧めているである。しかも、それらの相違は取締役会での意見の違い、同僚の経営幹部あるいは他の部課長との意見の違い、被用者との間の意見の対立、あるいはその他の種類の関係における意見の相違等である。われわれがこのようなことをやってみれば、対立に対してこれまでと違った態度を取るようになり得るであろう。

 今日の心理学の最も重要な言葉は、欲求(desire)である。もしわれわれが現代の心理学の言葉で対立について語りたいならば、それはいろいろの欲求の相互作用過程の一契機であるということができるであろう。だから、これによって善悪の暗示的な響きを争いという言葉から取り除いてしまう。このようにすると、もはやわれわれは対立自体を恐れないで、そのような時機を処理するには、破壊的な方法もあれば建設的な方法もあることを認めるようになる。相違が表面に現われ、それに対して焦点が絞られたものとしての対立は、健康的な状況の徴候であり、進歩の予告となり得る。酪農協同組合が、荷降ろし場での優先権の問題について争わなかったならば、荷降ろし方法の改善案に気がつかなかったであろう。この場合、争いが建設的になったわけである。しかも、建設的になり得たのは、妥協に終らないで、統合の方法を求めたからである。妥協は何も創造しない。要するに、妥協ではすでに存在している物ごとを取り扱うにすぎないからである。ところが、統合は何か新しいものを生み出す、この場合では、これまでとは異なった新しい荷降ろし方法である。さらにこれによって、紛争が解決されたのみならず、その解決方法は実際に前よりもすぐれた技法であり、酪農業者にとっても酪農品加工所にとっても時間の節約となった。私はこのことを次のようにいう。摩擦を働かせて、摩擦に何かを行なわせる。

 だから、対立が統合されないまま継続する相違であれば、その対立自体は病的であるが、相違自体は病的ではないことが分かる。・・・

 統合が妥協よりも優れている点について、私がまだ言及していない点が一つある。もし妥協だけで終わると、その対立が形を変えて将来次々とあらわれてくるであろう。なぜなら、妥協ではわれわれは欲望の一部分を放棄しているからである。したがって、われわれは将来とも、その妥協のままで満たされていないであろうから、いつか以前からの欲望の全部を獲得しようとするであろう。労使間の紛争を見、国際間の紛争を眺めて如何に繰り返しこのようなことが起こっているかを見れば、このことがよく分かるはずである。統合によってのみ本当の安定が得られる。だが、ここで安定といっても決して何か静止的なものを意味しているわけではない。何ごともおかれたままの状態をいつまでも続けるものではない。ここで私が意味していることは、ただある特定の対立が解決されると、次の対立がもっと高い水準で発生するものである、ということである。」(『組織行動の原理:動態的管理』(新装版):48−9ページ)

 「双方の見方の長所を取り入れることである。妥協では常にも何かが失われてしまう。さらに、われわれはすべて各人自分のやり方を欲し、それぞれが正しいと思われるやり方を欲するものである。たとえば、私が私の意志を他の者に押しつけることによって、あるいは、私の意志と他の者の意志とを結合して、私の好きなやり方を得ることができる。自己の意志を他の者に押しつけることは非常に残酷な響きを与えるので、そのようなことをしたいと思っていると告白する者は殆んどいない。しかし、私が他の者を喜んで抑圧し、しかもそのことを認めたと仮定しよう。それでも、このようなやり方は、長い自で見て成功する可能性が大きいであろうか。私にはそう思えない。というのは、もし私が私の意志を同僚の幹部に押しつけたとすると、次の時には、彼が私に彼の意志を押しつけようとするからである。私は、統合の原理は、長い間に発展してきた深速な哲学であって、長期的に見て、われわれの利益になることもはっきりとしている、と思う。

 なお、この夏、イギリスで私に面白い出来ごとがあり、私はそれについてたいへん興味があると思うので、それをここでつけ加えておきたい。二人の人がそれぞれ異なった時に、私に次のようなことを言った。「アメリカでは面白い表現があって、イギリス人たるわれわれには非常に興味がある——つまり、“長期的に (in the long run)”という表現である。」これには私も非常に驚いた。というのは、これまで私は、すべての国がそのような表現、あるいはそれと同等の表現をもっている、と考えていたからである。もちろん、イギリス人もわれわれと同じように、前向きである。しかし、このアメリカの表現である「長期的に (in the long run)」が、イギリス人の注意を引いたことはかなり興味があるように私には思える。もしアメリカの企業理念が「長期的」の認識によって知られるべきであるとすれば、確かに、統合もその理念の一部分とすべきである。というのは、前の論文で得た表現を用いると、創出的価値 ( emergent value) は統合から生れるからである。リプリー教授は、人生において、ほんとうのことだけに、つまり、われわれの前に横たわるもののみに注意を集中すべきである、と教えている。統合は将来を保証することである。

 統合の哲学を認めることは、これまで長い間多くの人びとの考えてきたような犠牲の概念を多少変更することである。私は、ここに、同一の誤ちに基づいているものとして、抑圧と犠牲とを一緒にする。たとえば私が君を抑圧すれば、私は私のほしいものを得ることができる。また、私が君に対して私自身を犠牲にするならば、君は君の欲しているものを得ることができる。私には、いずれも同じではないかと思う。私も君も両方とも、欲しているものが得られてはじめて、得るところがあったわけである。[Win-Winの関係。]前の論文で私が強調したように、統合は三つのことを意味する。すなわち、君も私も共にそれぞれ欲しているものが得られる、全体的状況が前進する、その過程がしばしば共同体的価値をもつ、ということである。だから、私は、いかなる社会的過程においても、それに私自身参加することは自己を犠牲にすることである、とは思わない。それは、自己を貢献させることである、と思う。」(『組織行動の原理:動態的管理』(新装版):296−7ページ)


(参考文献)
メアリ・P・フォレット『組織行動の原理:動態的管理』(新装版)米田清貴、三戸公訳、未来社、1997年(初版1972年)
M・P・フォレット『管理の予言者』序説P・F・ドラッカー、まえがきR・M・カンター、編集P・グラハム、監訳 三戸公、坂井正廣、文眞堂、1999年。
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by ganpoe | 2009-01-31 12:34 | Social or Economic


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