地域, 政治, 経済そして音楽・・・浅輪剛博のブログ
2023-02-24T20:02:44+09:00
ganpoe
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Excite Blog
SDGsという第2の大転換?
http://ganpoe.exblog.jp/30256041/
2023-02-24T20:02:00+09:00
2023-02-24T20:02:44+09:00
2023-02-24T20:02:44+09:00
ganpoe
Social or Economic
あちらこちらでプレゼンをする際のパワポから取ってくるのですが、これをフルで講演すると、一昼夜かかるので、全編を公開したことはないのです。こちらで少しずつご紹介できればと思います。
SDGsとは、維持可能な 発展の 目標たち、 という意味です。維持可能?持続可能? 発展、まだ必要なの? 17の目標たちがあるようだけど、なんで17なの?なぜこれが含まれてるの?矛盾してない? というSDGs自体に対する疑問や支持や色んな声がありますが、ここで私が紹介したいのは、そういう話題ではありません。
理想であろうが、偽善であろうが、欺瞞であろうが、なんでもいいですが、SDGsというのを唱えるしかなくなった今の世の中を、ポランニーの「大転換」という名著に準えて、新たな「大転換」では、と訴えてみたいのです。
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気候変動対策と街づくりや交通手段の転換
http://ganpoe.exblog.jp/30013621/
2022-07-01T23:38:49+09:00
2022-07-01T23:44:11+09:00
2022-07-01T23:44:11+09:00
ganpoe
Social or Economic
どうやって、まちなかから車の通行を減らしていくか、各都市で知恵を絞っている。
なぜそんなことをするかというと、
1)温暖化対策は重要
2)自家用車を増やすのは、地元から利益が外に出て行くことが多い。地元のお店から郊外の地域外チェーン店にお客が逃げやすい。
3)地域内の事業者サービスとの付き合いが減ってきて、地域外の事業者サービスやネットサービスへの依存度が高まる。
など、温暖化対策と、地域経済対策の両面から行われているようだ。
もちろん、地域の人の幸福度をあげる、という大前提もある。
相互扶助に基づく自治体にとって良いことと、国際的大資本と国家にとって良いことが、矛盾する面も多々ある。どういうバランスが一番良いのか、双方から歩み寄って、調整していく手腕が問われているようだ。
「スペインのバルセロナでは、「スーパーブロック」と呼ばれている、歩行者と自転車を優先した街区が整備されている。2016年に持続可能なモビリティ社会をコンセプトに設計されたとのことだ。自動車道はほとんどなく、あったとしてもせいぜい時速10~20kmしか許されていない。導入当初、経済界や自動車ユーザーから猛反発を受けたが、住人からは支持されたそうだ。なお、スーパーブロック化により、小売店舗が30%も増加したとの報告がある。これは徒歩で気軽に立ち寄れるようになったためと思われる。」
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エコロジーと女性
http://ganpoe.exblog.jp/30013629/
2022-06-29T23:47:42+09:00
2022-07-02T00:06:39+09:00
2022-07-01T23:57:07+09:00
ganpoe
Social or Economic
「「人々が健康で幸福な生活を送る条件を考える科学」をエコロジーと命名したのは、米国初の女性化学者エレン・スワローだった。現代の環境保護運動につながる思想だが、当時の社会ではいわば「わきまえない女」だと黙殺された。翌年、男性科学者たちが「自然の探求や開発に基礎を置く科学」と定義し直した。」
人々が健康で幸福な生活を送る条件、さてこれはなんだろうか?
宮本憲一さんの社会的共同生活条件という言葉とも親和性がある。
これがエコロジーだと。
当然に思える。
ところがなぜ、それに反対したのか。
「自然の探求や開発に基礎を置く科学」
まず、自然を研究しろ、という反対意見になる。
ここは大きく間違ってないのかもしれないし、ただ、ほぼ同じことの表裏の気もする。
それなら、否定ではなく追加で良かったはずだ。
「人々が健康で幸福な生活を送る条件を考えるために自然の探求をする科学」
こうだ。立派だ。
ではさらに付け足した「開発」とはなにか?
「人々が健康で幸福な生活を送る条件を(作る)ために自然を開発する」、これが目的になる。
これはエレン・スワロウの定義と何がどう違うのか?
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公的セクターで、雇用の3割を維持
http://ganpoe.exblog.jp/29948643/
2022-05-15T20:32:00+09:00
2022-05-15T21:07:23+09:00
2022-05-15T20:32:19+09:00
ganpoe
Social or Economic
そうなんでしょうか。スウェーデンでは、公的セクターで雇用の3割だそうです。特に女性や多様な階層の人を雇っています。
ボストン市庁舎でもそうですが公的部門でスタッフが充実することで、公共サービスも充実して、特に教育や福祉や医療、環境や地域文化などに良い影響があると思う。さらに不動産の価値を維持・向上するためにまちなか活性化、(と言うのは、自治体独自財源を保つために固定資産税収入を維持したいので)、そしてその財源で農山村を豊かで魅力あるものに取り戻していく、、、なんて方向性がいい気がするんだけど。。
維新のように公共部門をカットして、民間部門の活力を導入というのは、所得格差を進め、アメリカやフランスのように、社会の二極化・分断が生じてしまうと思う。その茨の道を行くのだろうか。。。
公共部門と民間部門との良い循環を作り直しことが、工夫すべきことのように思う。無駄な公共土木が現在は多すぎる。
「スウェーデンの医療や福祉の仕事は公的雇用です。雇用者の約3割を占める公務セクターが女性を雇い、失業率を下げ、医療や福祉を提供している。スウェーデンの公務セクターは働く人も管理職も約7割が女性ですが、民間セクターは働く人も管理職も約7割が男性です。日本では抵抗感のある形かもしれません。」
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地域自治体新電力のすすめの抜けているところ
http://ganpoe.exblog.jp/29843861/
2022-02-18T19:14:00+09:00
2022-02-18T19:14:04+09:00
2022-02-18T19:14:04+09:00
ganpoe
エネルギーシフト
いわゆるドイツのシュタットベルケを日本で行うものとして注目されているが、実は大きく違う。主に2点。
1)日本では「配電事業(身近な電線網)」を地域で行うことは許されていないが、ドイツでは、その配電事業を行うことで安定収入を得られるのであって、日本でいう地域電力が行なっている電気小売事業はリスクの多いところ。配電事業ができなければ、地域自治体が行う意義がどれほどあるのか、不明。ドイツでも小売のみやっているところでは、燃料などが高騰する今、潰れているところも多いそう。
ちなみに、日本では戦前は今のドイツと同じく、というか、日本以外のほぼ全ての先進国と同じく、配電事業は各地域で行っていた。大阪市などは、税収よりも配電事業収入の方が多かった。私の祖父もそんな小さな配電事業者の会社に就職したそうだ。ついこないだのこと。
2)直訳が「都市の会社」であるように、小売電力だけでなく、非常に多くの公的事業サービスを行なっている。主に黒字の配電事業の収益から、教育福祉や公共交通のなかなか黒字が出にくい事業に回して、地域の生活の質を上げるのが目的の会社である。総合性。
この2点をあまり強調せずに、地域新電力やりませんか、と言ってくる人たちは、コンサル費用を稼ぎたいだけのための怪しい連中では?と思ってます。
なお、発電所をそれなりに確保していれば、これもどちらかといえば安定収入の元なので、実行しやすいかも??
とはいえ、1)の配電事業、本来メリットがあるのですが、日本は多くの先進国と違い、居住地や開発地が全くバラバラで無計画なので、無闇に電線が延々と伸びるわりに、消費者の密度が少なく、距離当たり収支が非常に悪くなってきている。
戦後、散々、配電事業の分離の運動を抑え込んできた大手電力が、此の期に及んで、配電網を地域に戻そうという意見を出し始めてきているが、これも、無計画に土地開発を許してきた地域自治体の因果応報かもしれない。。。
地域新電力の更なる発展に向けて2021年6月25日 資源エネルギー庁
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日本の問題、というものがだんだん分かってきた。
http://ganpoe.exblog.jp/29842264/
2022-02-17T00:05:12+09:00
2022-02-17T00:37:43+09:00
2022-02-17T00:24:12+09:00
ganpoe
Social or Economic
場所や本数の変更で違うそうですが、3割減ったり、場所によっては、3割に減ったり。
なぜだろう。
鉄道の方が早い。
鉄道の方が時間が正確。
鉄道の方が多くの人を運べる。
鉄道の方が目立つ。
鉄道の方が地域のアイデンティティとなる。
鉄道の方が地図で目立って一般の人が分かりやすい。
バスでも専用線があれば、定時制や速度維持もしやすくて、通行経路も地図などに載って分かりやすかったり、そんなに変化はないのだろうか。
他の先進国では、鉄道回帰の流れだそうですが、なぜか、日本はあちらもこちらも逆行。
「まちづくり」の観点が社会全体として入っていないのが、さまざまな面で課題を生んでいるようです。
すぐブームのように、BRTとか、オンデマンド交通とか、MaaSとか、横文字を並べた政策に飛びついたりしますが、着実にしっかりと分析しながら、地域も地球も持続可能な街づくりをしっかりと選び取らないといけないと思います。
ーーー
空き家問題は、一戸建てだけでなくて、マンションも深刻。
「分譲マンションの中古物件数(ストック戸数)は1968年には約5・3万戸だったのが、2020年には約675万戸と増え続けている。」
それぞれの地域の人口動態や、人口密度の維持、という基本的な都市計画なしに、どんどん新築を作り続けている日本。
自由という価値はもう色褪せてるんではないだろうか。
ケアとコモンズ、公共のあり方をどう対話から生み出していく、そして必要な社会的合意をもとに必要な規制、計画を行っていく、それこそがこれからの価値観ではないだろうか。「これからの」というか、前からですけど。。。
そんな「公共」について語り合える、ということこそが本当の「自由」なのかもしれない。
「新規供給が増えつづけると、古いマンションを利用する必然性がないため空室が増え、将来的に管理不全につながる恐れも出てくるという。
米山教授は「持続可能な都市にするためには、自治体が新築できるエリアを限定したり、高さ制限を設けたりといった都市計画などで、新築の総量規制を促していくような住宅政策の転換が必要だ」と話す。」
しかし、日本ではそれが通らない。
短期的な利益を求める地元の人たち、それを掬い上げる「口利き」が主な商売の政治家たち。そこに文句を入れにくいお役人さんたち。
政官財の馴れ合い経済が確固としてあるからだ。
これをどう改革すれば良いのか?
早く「世界的問題」に取り掛かるために、こんな「日本の問題」はすぐにクリアしたいのだが… レベルの低い問題に時間をとられ、疲弊する。
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SDGsの表象ではなく、本質は?
http://ganpoe.exblog.jp/29643574/
2021-08-29T09:53:52+09:00
2021-08-29T09:55:56+09:00
2021-08-29T09:55:56+09:00
ganpoe
Social or Economic
脱炭素社会へ 「くじ引き市民」の熟議、政策決定の礎に:朝日新聞デジタル■コラム「多事奏論」 国分高史(編集委員) あなたは脱炭素社会の将来像をどう描き、そこにいたる変革の道のりをどのように進むdigital.asahi.com
仕事の内容的には、地域に自然にある財産を活かす。・リノベーションまちづくりで不動産で食べる。・持続可能な森林業で食べる。・有機農業で食べる。・自然エネルギーで食べる。これらは利益が上がること=SDGsである。地域に昔から、自然に、あるものを活用するだけだから。そして、その活動を誘導できるような地域計画があれば、なおいい。温暖化対策は、環境/エネルギー部局だけでなくて、ハードの部分、交通や建築や都市計画、農林などがしっかりしないと達成できない。古民家暮らし、いいけど、ものすごく広いんだよな。数家族一緒に住んで、車もシェアリングとかすると、人口密度下げなくていいのだけど。古民家は大きいので、2〜4家族ぐらい住める形に改修して集合住宅とできないだろうか。昔ヨーロッパで尋ねた古い農家でそんなことをしてた。 街中でもそうで、古い劇場とかデパートとかは、建物の一部を改築して、集合住宅を組み入れて分譲賃貸を混合させながら、そこで安定家賃収入を得つつ、残りで、劇場や小商いをいくつか行うとか。というわけで、リノベーションまちづくり、始まってます。]]>
安普請の家は生まれる必要があるのか?
http://ganpoe.exblog.jp/29643572/
2021-08-29T09:51:29+09:00
2021-08-29T09:53:05+09:00
2021-08-29T09:53:05+09:00
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Social or Economic
建築家として「今後どう」生きる?
http://ganpoe.exblog.jp/29556714/
2021-06-12T20:38:00+09:00
2021-06-12T21:41:37+09:00
2021-06-12T20:38:52+09:00
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Books
なるほど。
建築家は身近な存在なんですが、その職業が日本でどう成り立っているのか、社会的な経済的な背景がわかってきた。
ゼネコンなどの企業に従属するか。
独立を目指して、やりがい搾取に堪えるか。
名前を売るために、とりあえず住む快適性よりデザインの奇抜さに走りたくなる背景。
しかし、少子高齢化の中、そうは将来像は描けない。
「禁じ手とされてきた施工もこなし、「まち医者的建築家」をめざす柔軟な若手が増えている。そこに可能性を見つつも、著者は決して楽観していない。人口減少で増える空き家や、テレワークによるオフィス需要の陰りなど、建築をめぐる課題に誰もが直面する時代になった。権威を脱ぎ捨てた先に、どんな建築の専門家が生まれるかは、私たちの未来に関わる重大事だ。」
地域に根ざして、地域の人たちと協働して、暮らしやすい魅力ある、生きる意味を見つけられるエリアを作っていこう、
ということに主眼を置いてこなかった、日本をはじめとする各国で、
いろんな分野のいろんな職業が大量生産・工業社会の矛盾に追い込まれて来ているんだと思う。
これをこのまま続けるのか?そのうちダメになるよね。でも、変えられないね。って。
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新築の建築はすぐにもパッシブレベルぐらいにすべきと思う。
http://ganpoe.exblog.jp/29555848/
2021-06-12T02:12:12+09:00
2021-06-12T02:13:31+09:00
2021-06-12T02:13:31+09:00
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エネルギーシフト
新築の建築はすぐにもパッシブレベルぐらいにすべきと思う。
中途半端な断熱だと、今までの部分暖房、冷房だったのが、つい全館暖房になってかえって光熱費が上がるという研究もある。だから。
ついでにどんなパッシブハウスでも、そこに住む人がどんな移動手段を取るか?まで考えないと、とてもエコハウスと言えないんじゃないかな。
とにかく、個別の家にたくさんものを買わせるゼロカーボン戦略ばかり日本は特に考えたがるけど、大事なのはシェアできるインフラ整備。
つまり集落の真ん中に集まって楽しく過ごせること。
長い水道管も必要なく、余った熱や電気をすぐシェアできる。集落協同コンポストとかもいいね。そして、地元の商店が存続できること。
まちづくり、村おこしとしても、それが重要。
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『多様性 〜人と森のサスティナブルな関係』書評
http://ganpoe.exblog.jp/29514049/
2021-05-07T18:25:00+09:00
2021-05-07T18:58:44+09:00
2021-05-07T18:25:30+09:00
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Books
これは、森林に関わる全てのひとにとって必読の書です。そして、森林とは直接関係はなくとも、持続可能ということに関心がある人にも強く薦めたいです。書名が「多様性」であるように、この本は、持続可能な森林業のノウハウが盛りだくさんであるだけではなく、なぜそのような制度ができたのか、その根本まで探る本だからです。つまり、根幹には「均一化ではなく、多様性」を尊ぶ生きかた、そして考えかたがあった、ということです。日本では、欧州の先端的な林業の技術のそれぞれを切り出して輸入しようという動きが多いそうですが、著者の池田憲昭氏は、大事なのは、一つ一つの技術や制度ではなくて、その全体の多様な関係性だと論じています。その関係性を見つけ繋げ合う視点や考え方の転換がないといけないといいます。そう思って本書を読み返すといちいち腑に落ちると言うか、持続可能な森林との関わりかたのどれもが、そりゃそうだよね、当たり前だよね、と感じるのです。今まで、大型先進機械で自動化し樹種も単一化すれば効率的になって役立つ、そりゃそうだと思っていたのが嘘のようになります。それは多様性の大事さに気づく価値観の転換が起きるからだと思います。本書の最終章で脳神経学からこのマインドセットの違いの謎を著者は解き明かそうとしています。非常に得心が行く章です。ここでは経済学の課題からもその重要性に触れてみます。物の価値には大きく二種類あります。一つはそれを使う価値。もう一つはそれを他のものと交換してどのくらいになるかという価値です。前者を使用価値、後者を交換価値といいます。ここで、使用価値は使用する人にとってその価値が非常に分かりやすいものです。しかし、社会一般的には分かりにくい。なぜならある物の使用価値はまさに多様であり多面的だから、ある人の使い方と他の人の使い方は違うことが多いからです。まさに森林、樹木のようです。森の価値は材木でもあり、観光でもあり、災害対策でもあり、幼稚園でもあります。それに対して、交換価値は逆に個人にとっては非常に分かりにくい。他人に交換してもらわない限り、どのくらいの価値があるのか自分ひとりでは分からないからです。そこで社会は全ての交換価値を一つの貨幣で表す制度を生み出しました。これが貨幣形態です。一般的等価形態ともいいます。社会にとっては値段と売れ行きさえ見れば一瞬で価値が分かる、非常に分かりやすいものなのです。現代社会で様々なものを均一化させようとする大きな力は、この貨幣形態から起き、また、貨幣と商品を交換し続けることによって利潤、つまり資本を増大させようとする力から起きているのです。多面的機能を持つ多様な森林も、貨幣効率・資本最大利潤を最優先させるこの力によって、モノポリーな単一種栽培の畑のようにした方が良い、と人々は思い込んでしまうのです。(著者は前者を森林業、後者を林業と区別します。)最小限の貨幣で最大の貨幣を得る、その一面に集中して、資源の多様な可能性ーー使用価値を探ろうとしない。これが、自然と調和しない持続不可能な林業を産んでいるのではと考えます。これはもちろん森林だけに関わらず、土壌を衰退させるような農業や、自動車交通を優先させてスプロール化する都市や、遠方の化石資源を燃料とし地域分散型エネルギーに着目しないエネルギー産業、そして健康で文化的な生活条件を整えるよりも、どれだけ財政負担を減らして生産効率を上げるかだけに専念する政治経済システムなどにも及ぶ、大きな現代の問題につながっています。森林から始めて、多様性まで解き明かすこの本は、こんな広がりを持っています。多面的な機能、多様性の持つ豊かさ、それを活かす「持続可能な森林業」は、交換価値よりも軽視されてきた、環境がもつ多様な使用価値を探り出す取り組みでもあり、著者の示す多様な森林業の織りなす房は、まさにそのような価値観があったからこそ工夫され出来てきたものだと思います。私は信州で自然エネルギーを活用する仕事をしています。これも単に個別の技術を切り出して拡大するというのではなく、地域に色々ある資源やエネルギーの多様性、様々なより良い可能性を見つけ、今まで気づかなかった地域の生活にとっての使用価値を発見していくーー省エネやシェアやマテリアルとしての活用も含めーーそのような全体的な視野も伴う必要がある仕事だと感じ入った次第です。制度や義務だけでは人は本当に動きはしません。共感、感動、信念、そしてディグニティ(尊厳)が行動の根幹にあるのです。本書でそれを痛感させられました。論語に言うように、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。
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三種の交換から自然と人間との物質代謝を再考
http://ganpoe.exblog.jp/29329177/
2020-12-14T00:35:00+09:00
2021-01-22T22:44:33+09:00
2020-12-14T00:44:44+09:00
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セカイノカラクリ セカイノシュウリ
自然壮大な無駄と不条理
人間的視点からすると
壮大な無駄と不条理を行いつつ、ただ略奪と贈与を繰り返すのが自然界である。それでありながら、循環する。
同等物の交換、等価交換をしているように見える場合も、意識的に行なっているわけではない。
突然変異と自然淘汰でそのような関係に「なってしまった」種が残っているというだけである。
例えばサメとコバンザメ
突然変異のそういう種が生き残ったというだけで、意思によって等価交換としたのではない。
意思によって同等物、等価を判断するのは、人間だけである。
一番人間に近いとされるチンパンジーやオランウータンに、例えば、いま持っている木の実と交換に、大好物のバナナをあげようといくら教えても理解しないという。
木の実とバナナは異質のものであり、その二つがそれぞれ独自の必要性=使用価値があり、全く違うものだ。その二つが「妥当な同等物」「等価」であると判断するのは、実はとてもおかしな、違うものを一緒のものと思い込めるという人間の妄想力、喩が必要なのだろう。
だから自然界のものたちは交換はしない。
(「等価」という言葉は貨幣による「価格」の存在が前提されているので、互酬や再分配では価格がなくても妥当で同等なお返しの行為として、「同等交換」とする。)
「哲学の夕べ-生きた貨幣-」レポート(前半):中沢新一「増殖的理性批判序説」
自然界は無償の贈与と、破壊するだけの略奪をただただ行なっているのだが、
人間には全く違うもの、まったく使用価値が違うものたちを同等のものがある、同等物である、と妄想する「知性」が与えられた。
この知性からすると、贈与と略奪だけして同等・等価の交換を行わない自然が不条理なものにしか見えない。
そこで自然との関係も同等の交換にしようとする。
自然から無償の贈与を受け取り続けるのに対し、自然に供物や生贄のお返しを返さないとと思い、与え続ける。そうやって、人間と自然の間の同等交換、つまり、互酬を目指す。
自然から災害や人の死という形で略奪を受けると、自然界の猛獣を殺したり岩石を採掘して飾り物にしたり同等の略奪をし返す。略奪に対しての再分配を自然から受けるべきなのが当たり前かのように。
自然界の太陽も風も植物も動物もこのような同等の交換を望みはしない。ただただ贈与し、ただ恩恵に与し、あるいは、ただただ略奪され、ただ獲物となり、そのようにして時は過ぎる。
同等物の交換ではないが、贈与と略奪で全体としてそれぞれの必要性が満たされつつ、循環するのだ。
人間は自らの知性によってそれに耐えられない。そこで自然に対しても同等交換を迫る。
しかし、逆説的にこの「人間的」な行為が人間と自然との持続可能な関係を生んでいたのではないか。
自然の贈与に対しては「同等な分」だけの供物を。自然の略奪には「同等な分」だけの略奪返しという再分配を行う。
だから必要以上に自然からただ受け取り続けはしないし、ただ略奪し続けることはできない。
これが前近代の人間の持続可能性を支えていたのだ。つまり人間と自然との間にも同等交換を成り立たせようという人間的な行為が。
ところがなぜかどこかで、ある人間社会は自然との間の同等交換を忘却する。なきものとする。人間的でなくなる。
ただ恩恵を受け、略奪をしていい相手として自然をとらえる。非人間的となる。知性がなくなる。
いや逆に貨幣の誕生が人間と自然の同等交換を終わらせるのかもしれない。
貨幣と商品の交換の中には自然界は参加しようとしないからだ。
自然は貨幣を人間に渡しはしないし受け取りもしない。
貨幣を貢がれたとしても等価の価値を認めはせず、ただ、その貨幣の物質としての素材的側面ー金属、紙、穀物ーのみを認める。物としての自然の腐敗に任せる。等価交換の貨幣ではなく、それを自然の略奪に任せる。
自然は貨幣を理解しない。貨幣の価値は「使用価値でなく等価」を示すというまさに人間だけの価値に根ざしているからだ。
貨幣の等価交換に応じない自然に対して人間は、もはや同等物の交換を止める。
こうして「人間的」でない、ただ恩恵を受け、略奪をしていい相手として自然をとらえる。
この自然との同等物交換の終了が、繰り返される人間の文明による環境破壊の始まりかもしれない。
人間と自然の間の等価交換の不可能性。
知性によって「不自然」な、つまり「人間的」な同等な交換行為を自然に対してすること自体が、自然と人間の共生を逆説的に生み出すのだ。
(つまり、自然との「人間しかしない」交換を復活させる行為。贈り物に対し自然にお返しをする。自然からの収奪に対し再分配する。)
自然だけでなく人間の共同生活条件も切り崩される。
貨幣と商品の交換が拡大するにつれ、人間と自然の交換だけではなく、人間と人間の関係性も、等価交換を極限まで推し進めた貨幣交換まで行き着くのだ。
商品と貨幣の交換の中でしか、人間は互いに関係を持てなくなってくる。
貨幣所有の寡多により、所得格差が動態的に生まれてきて社会不安が生まれる。
労働力や土地やも私有財産となり、貨幣による市場交換が可能なものとされ、人間社会の公共性も貨幣による資本の運動に取り込まれてしまうのだ。
自然との貨幣=商品交換の代理人としての地主
人間が勝手に行っていることではあるが、自然は人間との互酬や略奪再分配には見た目応じる。自然への捧げ物の贈与や災害への仕返しによって。
そして、貨幣と商品交換には自然は価格をつけないので応じないとしても、実は自然の代理人として、貨幣を理解する人間を介在させれば成り立つ可能性がある。つまり地主だ。
地主は自分が作ったわけでもない自然の土地に対して私有権を主張し保有する。しかし、自然は地主とは別物であるし、土地は人間や多くの生物にとっての共同生存条件だ。
だから、人類社会は長い間、土地への私有権は認めなかったし、認める資本社会でも強い利用・開発規制をかけるのが普通だ。完全自由市場の新古典派経済学の創始者である経済学者ワルラスも土地だけは共同管理、つまり、国有でなければならないと主張していた。
つまり、地主は土地を自由に使ってはいけない、ある程度の規制は必ず必要であり、利益として得られる地代の多くは、自然からの無償の利潤獲得であって、その利益の多くは自然への等価の交換として、つまり地主は自然の代理人として投資して自然の土地を維持可能に留めなければならない。地代は自然の維持への代金なのだ。
(全体構成は、こちらへ → 「トランスコミック完全版」目次)
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ポランニーの三つの交換を反対にしてみる。
http://ganpoe.exblog.jp/29256677/
2020-11-11T12:45:00+09:00
2021-09-08T23:48:18+09:00
2020-11-11T12:45:28+09:00
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セカイノカラクリ セカイノシュウリ
世界において、より多くの貨幣とより多くの権力とより多くのプライドを目指した争い、問題が頻発し、そして、止まらない。なぜか?
単純に言って人間の知性と倫理性が低いからといえるが、実は、低くならざるを得ない、社会の構造がある。それは人間の世界での物質消費・廃棄・再生のために行われる「交換」に深く根ざした構造の問題のためである。
この小論文では「交換」の形態を深く分析した上で、そこから現在の国民国家・資本主義が生まれ、その体制が「交換」に根ざしているから容易に変えられないことを示しつつ、「交換形態」の方向性を逆方向にすることで、がんじがらめの現在の体制を変革していけるのではないか、ということを提案する。説明しよう。
経済人類学者のカール・ポランニーは「制度化された過程としての経済」という論文で、交換には3種類あると指摘している。
人類は交換するときに、このうちの一つの形を取らないとどこか不満が残る本能があるようだ。それは根本的に他人からいただいたものに「同等物」「等価」を返さないと気が済まないという本能だ。
もらいっぱなし、奪いっぱなしでいることは、個人の心情的に、あるいは、社会の統治上、許されないのだ。「妥当な呼応行為」「同等物の返還」「等価交換」が求められる。
この交換は次の3つだ。
(1)贈り物をしたら返す、という交換。互酬制
(2)力づくで収奪もできる、ただ、収奪をし続けるのは困難なので、再分配も行う。中心への拠出=再分配。
(3)貨幣による市場交換。商品→貨幣
(1)のもらったら返す、互酬制というのが一番の基本な交換形態になる。
次に(2)「奪う」という力による収奪が起こるが、(1)の互酬制を元に、奪うだけでなくて、贈り物を返せ、と言い出す民が出てくる。それが、収奪→再分配→再度収奪→再分配、という不思議な交換が生まれる元になる。原型が共同体の長だ。この交換は本当に「同等物の返還」か危ういので、収奪する側は「同等」だと命がけで説得するのである。
最後に共同体と共同体の間の交換が広がっていくと、複数の共同体間での交換を一元化して、そして慣習的に同じ交換を繰り返すのではなくて、その度に「同等」交換にしたいという「商人」が生まれる。この共同体間の交換を等価にする働きを持っているのが「貨幣」だ。「一般的等価交換物」の地位を占める。
重要なことは、この貨幣を用いた市場交換は「地位」に基づかない格差を生み、社会不安を起こすことから、人類の長い歴史では強く抑制されてきたことだ。よってこの交換が全面に出るまで、人類は18世紀辺りからの西欧を待つしかなかった。そこでは伝統的な貴族封建領主の地位が崩れた。一方でプロテスタンティズムが個人の善を意識させ伝統の欺瞞さを批判した。一方ではイギリスやフランス絶対王政の統率が、伝統的な貴族封建領主を叩き力を弱くさせた。その権力の転換のなか、商人が土地を「商品」とすることを許した。
人々と人々の互酬的な交換が、貨幣を通した市場においての交換に変化した。つまり、「商品」を通した関係のみを通して、人と人が関係し合うことが強く意識されるようになった。必要なものは「商品」として得ることが中心となった。日々の生活に使うもの、そして、土地や労働力、さらには貨幣までが金融資本による「商品」と化した。人類の歴史上、これは、ほとんど社会的に許されなかった事件だ。許されなかったのは、人と人の共同体、地位に基づく社会階層、そして人間と自然の間の代謝を根本的にぶっ壊し、社会不安、生活環境の完全な破壊につながる恐れがあったからだ。
(3)の貨幣による市場交換においては、貨幣と商品と永遠に交換し続けていくことができる。これを価値転換という。
さらに、まず貨幣を用意して、生産財や原料などと交換して、それを商品として市場で販売して、また貨幣を得ることもできる。
うまくいけば、最初に用意する貨幣より、最後に得る貨幣の方が多くなることがあり、これを単独の商人の視点から見ると「利潤」といい、社会全体で見るときは「剰余価値」という。(マルクス「資本論」)
より多くの貨幣を求めようという資本の動き。
資本の動きとは、便利な「貨幣」を介した交換を市場で行うときに、必然的に起こる「二つの交換」のために起きる。ひとつは「買う交換」である。もう一つは「売る交換」である。交換の一方は「貨幣」なのだから、これは必然だ。ここで、貨幣を「M(money)」とし、代わりに交換されるもの・サービスなどをまとめて商品「C(Commodity)」とすると、この二つの交換はこう表される。
「買う交換」 M→C (貨幣で商品を買う)
「売る交換」 C→M (商品を売って貨幣を得る)
あとで詳しく触れるが、資本の動きというのは、この二つの交換の間で価値転換が起き、買った時より高価で売れるのではないか、という現象を追求したものといえる。
つなげるとこういう交換になる。
「買う交換—(価値転換)—売る交換」 M-C-M’(M<M’)
そう、資本の動きとはこの「M-C-M’」なのだ。そこではいつも二回の交換が対になっている。
「この儲け主義」と批判する前に、じつは貨幣を用いるとこの交換をせざるを得なくなるという現実をよくみよう。資本の制度と言うのは、「資本主義」というように選べるような「主義主張」では無くて、貨幣を用いる交換を続けるために出現してこざるを得ない「必然の制度」なのである。「資本主義め!」という倫理的であるかのような批判をする前に、その「必然」をよく見つめてみよう。それは「共産主義」とか「社会主義」とか選べるものとは違う。
人間は生きていくために、様々なものやサービスが必要だ。ものやサービスをどう得るか?もし人間同士で交換しないとしたら、すべてを自給自足することになる。しかし、人間は自給自足をやめ、交換を通した市場の発展の道を進む「システム」を正しい道と思い込んでしまった。
もちろん、交換をしても「市場」で価格競争をしないで行うこともできる。公的な「正当な交換量」に応じて慣習的に物やサービスを交換するのだ。これが互酬制に主に根差した交換である。社会的地位に応じて得るものが違う場合も多いが、災害などに応じて再分配もされた。市場における交換で格差が広がるのを、本来人類は「非道徳的」と強く非難していた歴史が長かった。先に述べたように、市場での貨幣交換を進めさせたのは、貴族階級、つまり大地主の「地位」を疑問に思わせる宗教運動があったからとも言われている。
もっとも交換しやすい方法として交換できると納得する「等価」を分かりやすく明示できるものとして「貨幣」というものを生み出した。
この「貨幣」がある限り、先に表した「買う」と「売る」の二種類の交換が起きる。そして人間は買い続けることだけを行うことはできない(貨幣が無くなる)し、また売り続けることだけもできない(売る商品が無くなる)。様々な商品を流通させるために、M-C-Mという交換をせざるを得ないのだ。
ところが、この交換(M-C-M)をよくみると、不思議なことが二つ分かる。
ひとつは交換の最初に出てくるM(貨幣)がどこから出てくるのか、分からないことだ。これはその前の交換から得たのでない限り、借金をして得た貨幣ということになる。
もうひとつ不思議なことは、これは二つの交換が対になっているのだけれど、その二つの交換で後の交換(C-M)は違う場所でより遅い時間で行わざるを得ないことだ。実は一回めの交換(M-C)のときには、二回めの交換(C-M)が最初に思った通りに成立するかどうか分からないのだ。だから一回めの交換をあくまでリスクを読みながら、借金をするという命がけで行って、その後、なんとか売れるように必死で頑張るしかないのだ。つまり、資本の問題とは時間の問題なのだ。
これは事業を行う時のことを考えれば分かる。何かの事業をしようと思う。そのための資金を借りる/借金する。その負担を負いながら、いざ事業を開始してみたら、ちっとも売れないかもしれない。こんなリスクを負うのだから、命がけで必死にたくさん売って、より価値転換して高付加価値にして、「儲けよう」と思わざるを得ないだろう。
つまりM-C-Mが市場交換の必然なら、最後に儲けようというM-C-M’の資本の動きを目指さざるを得ないのだ。それは主観的に「なに主義」を取ろうとも必然的に起きてしまう資本の制度なのであって、そこから逃れることは困難だ。
だからM'を求める資本の欲動は止まらない。
似たようなことは国家という制度や「互酬」という制度にもいえる。それは「交換」という人間の現実に根ざしているからこそ、簡単に取り除くことはできない。
ーーーー
現在では、(3)の「貨幣を伴う市場交換」が全面的に出て「資本主義」となった。(2)の収奪=再分配は、(1)互酬制と結びついて国民の互酬制(共助)に根差した、独占的国家=国民国家が生まれた。
資本主義と国民国家はこのような人間の根源的な交換形態に根差しているので、容易に取り除いたり、革命程度で変えることもできない。
では、どうするか?
この3つの交換から離れずに考えると、この交換の形を変えられないか?という考察に至る。
そう、この交換を全く、逆にできないか?と。
(3)資本: M-C-M’ (貨幣ー商品ーもっと貨幣:Money-Commodity-Money'、ドイツ語ではG-W-G') 一度目の交換の時(貨幣で原料など購入:投資)には、二度目の交換(市場で消費者に販売)が成り立つのか分からないので、資本の投資は命がけの跳躍。 命がけなので絶対に成功して剰余価値を成立させねばならない。資本の利潤最大化への欲動。(販売量、コスト削減双方で。さらに独占利潤を目指す) ついでに既得権益ができたら、決して離したくない欲動。(2)国家:収奪ー再分配 収奪したら、それで他の収奪国家と覇権抗争が続けられる。しかし、国内を統治できないと軍事力も蓄えられない。 よって、仕方なく、最低限の再分配。 資本は命がけの跳躍を避けるために、国家の再分配と結託できる。 国家が収奪した税金を元手に補助事業、公共事業を受け続ければ、確実に販売できると安心できる。 資本と国家がタッグを組む。
かくして、資本主義・国民国家はどうやっても変えられない社会の仕組みとなる。 では、どうするか?
どっちも反対から考えたらどうだろう。
もし、最初の「買う交換」を行うときに、その後に何がどのくらい売れるか、つまり、「売る交換」が大体予見できていたら、それほどリスクも無く、無理して無駄なものまで作って売りつける、ということを行わなくてもすむのではないか?一回目の交換(M-C)のときに二回目の交換(C-M')が見えていることだ。ならばM'を求め無駄な生産、販売を行う必要も無い。 ・投資の前に、ニーズが分かっている。 ・収奪の前に、再分配から考える。
はじめにニーズが分かれば、安心して投資もできるし、そのニーズに応えた社会的なインフラ投資やサービスを計画できれば、そのために個々人の財を一度中央に拠出するのも嫌悪感を持たないのではないだろうか。聞くところによると、北欧諸国では、個人主義が強いながら税金は社会の未来への投資と考えていて一般的に拒否感がないという。
結局、「ニーズとそれを成立される再分配」をどう探り当て、実行に動かせるかにかかっているのではないか。「ニーズ」とは政治経済学の言葉で言えば「使用価値」だ。そして特に、地域社会で共同して「シェア」する使用価値があるものを「社会的共同生活条件」と呼ぶ。(宮本憲一) その視点から繋がってくるものとして、この論文を通して変革のヒントとしたい言葉は、例えば、「社会的共同生活条件」「コモンズ-イズム」「SDGs→SS(維持可能な社会)」「一般意志2.0」「デンマークのオープンデータイノベーションはすごいのか?」「よいくらし」といったものだ。 もう一方では、しかし、そんなの誰ができるの?誰がやるの?行動する主体はどう生まれてくるの?過去の社会主義とどう違うの?という疑問も生まれる。 そこから例えば、「エチカ」「ケイパビリティ」「中動態から能動態へ」「エミール教育」「成績をつけない、その代わり社会課題発見力と協調力と解決への実行力を尊ぶデンマークの教育はすごいのか?」「しっかりしよう」という言葉が意味を持ってくる。 ただ、実際にこのような「よいくらし」「しっかりしよう」を目指す人々の働きかけは、それこそ紆余曲折の永続的な活動であろう。ただ、3つの交換を反対にする、という視点が一本入ると、なにか、将来への目標・希望がつくれるような気がしませんか?
ーーーー
しかし、人は前もって何が将来「必要」になるか、分かるのか?ジャン=ジャック・ルソーのいう「一般意志」は何か?なんて、本当に分かりえるのか?(「社会契約論」)
例えば、最近のデータとAIの活用でどのくらいまで将来ニーズ予測ができるのか。単にマシン頼りでなく、それ以上にどのくらい人間社会が人権や環境などの持続可能性・普遍的な価値観を共有できるかも、将来の必要の予測と計画立てに不可欠である。
普遍的な理想を実現するために(暖かい心)、逆に極めて冷静にデータを収集し分析できるか(冷たい頭)、が重要になってくるだろう。
「必要」なものが「必要」なだけ提供されるなら、それは交換される。
なにが「自然と人間の生」のために「必要」か?
その空間的な場である「地域」の中での市民の討議と取組みが「地域ニーズ」という形となって、産業と結びあっていく過程、その中にこそヒントがあるのではないか?その討議と取り組みで全てのニーズではないにせよ、大きな「社会的」ニーズが明らかになってきたとしたら、より確実な交換が行えるのではないか?
そのとき、「セカイノカラクリ」を変化させていこうという「セカイノシュウリ」が始まるのだ。
そして、ポランニの3種の交換の帰結は「国民=国家=資本制」ではなく、そこから「内発的な地域」を目指し、「地域コミュニティー=各種の地域自治体=協同制の地域経済の内発的発展」のトライアングルに移行していく(トランジション)ことになるだろう。
しかし、人間は実践を通してしか学べない。実践を呼びかけたい。
ーーーー
3つの交換のもう一つ、(1)贈り物の交換=互酬制を残していた。
これは、何か贈られる、そうすると、同等のものを返さなくてはいけない、という義務感が生まれる。
これを贈り物を交互にいつまでもし続ける「互酬制」と主に文化人類学で呼ばれている。
この発展形が「国民主義」であり、資本・国家 と結びつくことによって、国民国家・資本主義の、3つの交換に基づいた現代世界の構造に行き着く、というのが柄谷行人の議論である。「世界史の構造」が詳しい。
では、この互酬制を反対にすると、、、
「贈り物ー贈り物」
の反対は、
「贈り物ー贈り物」。。。
同じじゃん?
となる。あら。
ただ、よく考えると、過去に贈り物を受けて、将来に贈り物をするという時間の関係になっている。
この時間軸を逆にできないだろうか。
つまり、過去に受けた贈り物を返す、という順番でなく、 未来の人からすでに贈り物を受けていて、現代の(過去の)人は、未来の人に贈り物を返さなければいけない立場にある、という交換である。
このような互酬制は人間の交換の本能を満足させるであろうか?
実は、このような考え方はすでに人類史にあるのだ。
「地球は、未来の子孫から借りているもの」
ネイティブアメリカンのこの文化が、互酬制の転換による持続可能な社会を示していると思う。
(続く 一周目の人はこちらへ→「交換ー自然の交換と人間と自然の物質代謝」
二周目の人はこちらへ→ 「三種の交換から自然と人間との物質代謝を再考」
(全体構成は、こちらへ → 「トランスコミック完全版」目次)
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自分の地域が住みやすくなるより、エリートが叩かれる方が嬉しい。
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2020-11-04T12:48:00+09:00
2020-11-11T12:49:21+09:00
2020-11-11T12:49:21+09:00
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Social or Economic
↓
公共部門がカットされ、民は格差に苦しみセーフティネットがないことに苦しむ
↓
持続可能な地域に作り替えていく公民連携の事業が滞る。
↓
誰が悪いんだ!と怒る。
↓
既得権益を持つ官僚、ウォール街、エリートが悪いんだ!と新保主主義が叫ぶ。
↓
そうだそうだ!
…自分の地域が住みやすくなるより、エリートが叩かれる方が嬉しい。
というような感じでしょうか?
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2050年カーボンフリー
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2020-10-26T12:49:00+09:00
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エネルギーシフト
再エネもいいけれど、まずはインフラでっせ〜
・職住遊学混在のまちづくり
・断熱建築
・土壌豊かな森林・農地
・電気や交通や熱・再エネガスのシェア供給網
・素材生産を減らすための循環リユース経済
再エネなんて安いし、すぐできる。
インフラは時間も金もかかり、一度できたら直すのが超大変。緊急を有する。
あと、石炭・バイオマス火力発電の早急な停止。
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