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2006年 08月 31日

「当事者主権」

前に触れた中西正司、上野千鶴子共著の『当事者主権』を読み終えました。これはいい本だと思います。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0310/sin_k143.html

女性、障害者、少数民族、そのほか、さまざまな「属性」を持ちながら、つまり複数の特徴と、社会的立場が合わさったものとしての性格を個人は持つのです(個人の社会的性格)。しかし、その社会的に決められる、あるいは偶然に規定されるという存在だけでなく、自らの「個性」を「可能性」をポジティブに達成していく、という自由を持ちます。

そのような考えから、その自由を制約するような、社会的構造、あるいは偏見−−「不自由」にしているもの−−を、運動しながら除去していく−−それが(私の言葉で訳したものだけど)「当事者主権」という考え方です。たとえば、女性問題の専門家、医者、などが、女性・患者という当事者の生き方、生活方法などを決定するのではなくて、当事者自身が決定する、主権を持つ、という考え方です。

当事者主権、という考え方から、それぞれが住む地域社会を組み替える。すべての人が可能性を追求できる、また職を持つ自由を保証される、そういう地域をつくっていくという構想を著者たちは持ち、そして、それぞれの「当事者」としてのフィールドで実践してきました。

障害者の当事者運動としての自立生活センターの運動の軌跡には、勇気を与えられるのではないでしょうか。

私のしたいのは、このようなあちこちの地域の当事者運動の連絡網となるようなメディアをつくることです。

本来、トランス・コミック・エクスプレスも、まえにいたNAM(New Associationist Movement)も、そのような運動を目指すべきだったのだと思います。実際に不登校者のための学校などの運動が生まれつつあったが、しかし、結局当事者中心ではなく、エリートの考えの当事者たちへの押し付けの運動体、となってしまったと思うのです。

また、この『当事者主権』の本の最後に批判されているような、「非営利」「非具体的目標」団体は、その組織自体の存続を目指すようになってしまう、官僚制が育ってしまう、という現象、これがNAMには当てはまっていたと思います。ただ、良かったのが、自主的に組織を最後は消滅させることができた、ということでしょう。

現在、あちこちに散らばったインテリたちが一生懸命、それぞれの地域の当事者たちとつながろうと努力し続けてます。それらの活動をマンガやイラスト、写真などを盛りだくさんに紹介し、また、研究者などが分析する、そのような場を、メディアを作りたい。

話が別のところに行きましたが、ちょっと話の繰り返しが多いような気もしましたが、この『当事者主権』という本は急所を突いた、いい本だと思いました。おすすめ。


p.8 「高齢者に限らず、誰でもニーズを他人に満たしてもらいながら自立生活を送っている。そう考えれば、高齢の要介護者や障害者の「自立生活」は、ちっとも不思議なものではない。〔程度問題に過ぎない〕最後まで自立して生きる。そのために他人の手を借りる。それが恥ではなく権利である社会を作るために、障害者の当事者団体が果たしてきた役割は大きい。」

p.18「代表制の間接民主主義ばかりが民主主義ではない。民主主義には、直接民主主義や参加民主主義、そして多数決によらない合意形成のシステムもある。民主主義が多数決原理によっている限りは、人口の約3%といわれる障害者は決して多数派になれず、「最大多数の最大幸福」のために排除され抑圧される運命にある。また、当事者主権の考え方は、第三者や専門家に自分の利益やニーズを代弁してもらうことを拒絶する。誰かを代弁することも、誰かに代弁されることも拒否し、私のことは私が決める、という立場が当事者主権だから、代表制の民主主義にはなじまない。」

p・35「長い間施設や在宅で保護と管理の下にあった障害者は、失敗から学ぶ経験を奪われ、主体性を持たない子供や患者のように扱われ〔子供や患者にも主体性はあるだろう。健常者で、いつまでもパラサイトして主体性の無いやつもいるだろう〕、次第に家族や職員に依存的になり、前向きにチャレンジして生きていく意欲を失っていく状況に陥っていた。」

p・141「カネに対するこのような反感は、根拠の無いものである。カネを使うからといって、直ちに市場経済に巻き込まれるわけではない。貨幣には、交換、尺度、貯蔵、支払いの四つの機能があるが、このうち支払い機能は、交換や贈与によって生じた債務を、決済する機能のことである。おカネの歴史は、市場経済より古い。カネを生んだ人類の知恵は、捨てるのではなく活かしてよい。
介護保険のサービス価格は、公定価格であり、市場の需給メカニズムによって変動しない。それを貨幣で支払うのは、たった今受けたサービスという贈与をカネで決済することによって、債券・債務関係を今・ここで解消するという仕組みである。貨幣のやり取りによって、サービスの受け手は相手に無用な負い目を感じなくてすむし、・・・」

p・154「人口1000人あたりの精神病床数は、アメリカ0.5床、ドイツとフランス1.2床、イギリス0.9床に対して、日本は2.9床もあり、他の先進諸国と比べてはるかに多い。」

p・206「どんな運動や組織にも、いったん成立すれば、それ自身の存続が自己目的化してしまうという傾向がある。営利を目的とする企業体ならば、市場が必要としなくなれば、淘汰されるという道があるが、とりわけ非営利を旨とする公益事業、例えば国や自治体が作る外郭団体、公団・公社や財団などは、常態化し、肥大化するという傾向がある。
・・・組織を立ち上げるときには、その目的を決め、目的の完了と同時に組織が消滅するという、自己消滅系のシステム、遺伝子のようなものを組み込んでおく必要があるだろう。」
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by ganpoe | 2006-08-31 11:38 | Social or Economic
2006年 08月 28日

当事者主権とエリート批判

家に山のように積んである未読の本ですが、やっと岩波新書の中西正司、上野千鶴子共著の『当事者主権』に手をつけた(まだ読んでる最中です)。で、「当事者」という言葉に触発されて考えたこと・・・

「当事者」という言葉には、専門家や官僚によって決められるさまざまな社会システムに対して、それぞれの地域的な問題、介助を求める人たち、それぞれの「当事者」が決めていく社会、それを尊重するという意味があります。それは正しいし、また「社会的」効率から考えても、ずっといいはずです。

それはともかく、当事者主権から安易に一般的に「エリート批判」というような形につながるとどうかな、という危惧があります。この本に関してではなくて、一般的に良くあるような批判で・・・

エリートの限界とか言いますが、エリートの反対の言葉って何でしょうか?一般大衆?

もしそうなら、その反対語でもいえるのではないでしょうか?一般大衆の限界。当事者の限界。専門家の限界。それぞれの立場、現場のみから考えてしまうことによる「狭まれてしまった視野」から来る限界が?もちろん、個々の立場、現場を見ない、聞かないエリートがいるとしたら、それはぜんぜんだめです。

しかし、当事者やマイノリティや、の人たちが、それぞれの立場が絶対で、それ以外からの声には耳を閉ざす、あるいは、難しい、しかし的外れなことを言うエリート、というように拒否につながるとしたら、問題ではないでしょうか。

また、マイノリティであるほどえらい。マイノリティの言うことは正しい。というように、神格化してしまうような傾向があったら、これもおかしいと思います。よく、権力に批判的な社会正義派をかざしている人に多いのですが、第三世界なら正しい。虐げられている人なら正しい。というような雰囲気があったりします。

ベトナムなら正しい。東ティモールなら正しい、とか。

しかし、昔、ベトナム戦争時、ベトナムの大義のようにしてベトナムを賛美していた人たちは、その後カンボジアに侵攻するなどしたベトナム政府をどう説明するのだろうか。その前にも、社会主義国を資本主義に虐げられたものたちの運動として賛美していた人たちは、その後のソ連や中国などで起きていた大虐殺をどう説明できるのでしょうか。朝鮮の主体思想などといっていた人たちはどうでしょうか。

安易にマイノリティであるから、と賛美する人たちを、ですから私はあまり評価しません。怪しいものだ、と思います。そういうことによって、安易に正義の側についているかのような身振りができるからです。昔、社会主義を賛美していた人が、安易にさらにマイノリティだからといって第三世界の運動を支持し、さらにマイノリティということで、第三世界のうちの少数民族の運動を支持し、そのさらにマイノリティといってゲイの運動を支持する、・・・

私はもちろんそれぞれのマイノリティの当事者としての立場から起こる主張、運動を一般的に評価したいです。というか、当事者としての運動しかないと思います。しかし、マイノリティだからすべて正しいということはないでしょう。

それぞれの当事者が直面する問題と、大きな社会的な動き、まさにメジャーな政治経済の動きとの関係性をきちんと考えない運動、思想は最終的にはだめだと思います。

安易にマイノリティを持ってきて、エリートを批判したりするよりも、それぞれの立場の可能性が最大限に生かせるような、それぞれの可能性がうまくかみ合っていくような社会の可能性を考えるのがいいのではないでしょうか。

エリートの可能性、当事者の可能性、専門家の可能性・・・

私にとっては、それぞれの当事者が、明るく、プラス思考を持つことができる社会、というのが理想だと思います。(もちろん、個人の好みでマイナス思考を持ちたい人は、その好みを進められる。)
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by ganpoe | 2006-08-28 11:29 | Social or Economic
2006年 08月 25日

お奨めDVD (5)ゴッドファーザー・シリーズ

マフィア映画の最高峰。フランシス・フォード・コッポラ監督作品としては、「地獄の黙示録」「カンバセーション」「ワン・フローム・ザ・ハート」あるいは「レインメーカー」などのほうがいいかもしれません。

しかし、この作品の重要性は、文化人類学者ポランニーが言った、人類の3種の基本的な交換形式(贈り物交換、暴力による略奪と再分配、市場における売買、で、それ以外に交換の方法はない)がきっちりと描かれていることです。

つまりファミリー(贈り物交換)、マフィア闘争と手下へのもてなし(暴力と再分配)そして、裏ビジネス(市場による売買)です。この三種の交換形式は、現代では、国民、国家、資本主義となっていて、その三つの結びつきは変えがたいと説いたのが日本の評論家、柄谷行人です。

映画の説明に戻ると、アル・パチーノやロバート・デ・ニーロを一躍有名にさせた作品としても重要ですが、やはり風格を出したのはマーロン・ブランドとロバート・デュヴァル。カリスマありすぎです。

監督のコッポラはPartIIのあと15年もしてから、50億円ほど(推定)の借金をして、1990年に仕方なく「ゴットファーザーPartIII」を作りました。これは後のバチカン市国の腐敗をコッポラが察知していたような内容です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%A9
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by ganpoe | 2006-08-25 11:28 | Movies
2006年 08月 23日

お奨めDVD ④セックス・アンド・ザ・シティ

私はあまり好きではないのですが、「女の本音トーク」として話題になりました。日本でもヒットしました。先の「サインフェルド」とともに、ニューヨークらしさを良く描いていると思います。時代的な差が(サインフェルドは80年代終わりに始まったのに対し、セックス・アンド・ザ・シティはアメリカのバブル経済真っ最中の2000年ごろに始まった。)、サインフェルドの職がなく公的扶助や親に頼る、ようするにニートな主人公とフリーター、なかなか仕事がうまくいかない出版編集の女性(このエレーンという役は社会で働く女性の鏡として、いまだに評価が高いです。)というような役柄、それに対して、セックス・アンド・ザ・シティのキャラはプチブルな女たち、というような違いに現れている感じがします。詳しくは下のアマゾンのページをご覧ください。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000065UOY/250-0535078-0660243?v=glance&n=561958
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by ganpoe | 2006-08-23 11:26 | Movies
2006年 08月 23日

小さな国家の税金

北欧が賃金が最も高いそうだ。

http://www.nikkei.co.jp/news/past/honbun.cfm?i=AT2M11004%2022082006&g=MH&d=20060822

ところが、税や社会保険料を抜くと北米のほうが賃金が高くなるらしい。だから、手取りでは北米のほうが高くなり、当然生活は豊か・・・・か?

税や社会保険が高いのは悪い面もあるが、それだけ「社会的な豊かさ」が高い、ということもあろう。

社会保険が未発達なので民間の保険料を払い、税が低いので、教育・医療・安全のために多大な金を支払わなければならないのが北米とはいえないだろうか。

そして、それを払える人たちには、とても豊かな生活が待っている(貧しい人たちの地域に行くのはいやになるだろうけど)。

しかし、北欧では、社会一般に教育・医療・安全・社会保障が行き届いているとしたら、一体どっちが良い、いや、豊かな社会なのだろう?

ちなみによく北欧では自殺率が高い、それだけ社会が病んでいるんだ、といいますが、自殺は社会的に統計を取るのが難しい現象の一つです。よりオープンな社会では自殺のほとんどがリポートされますが、よりタブーが強い閉鎖的な社会、あるいはキリスト教などの宗教の関係で、自殺を悪と見る社会、では、自殺であっても遺族の手で隠されるケースなどが多く出てしまいます。そうしてみると、日本やアメリカの自殺率のほうが高いのではないでしょうか。

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主な都市の生活費、ロンドンが最高・東京4位
 世界の都市で生活費が最も高いのはロンドン。東京は4位——。スイスの銀行UBSは主要71都市の生活コストと賃金に関する調査をまとめた。122種類のモノやサービスの価格と14の職種の賃金、労働時間などを集計し、指数化した。

 賃金は額面ではコペンハーゲンやオスロなど北欧の都市が1、2位を占め、ニューヨークやロンドンを上回った。ただ北欧は税・社会保険料負担が重いため、これらを除いた可処分額では米国の都市を下回った。

 アジアの都市は時間当たり賃金が欧米よりも低い一方で、働く時間は欧米より長かった。労働時間が最も長かったのはソウルで年間2317時間。最短のパリ(同1480時間)を大幅に上回った。(ロンドン=吉田ありさ) (16:30)
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by ganpoe | 2006-08-23 11:24 | Social or Economic
2006年 08月 21日

鶴見和子追悼

1週間ほど前だったか、社会学者として高名な鶴見和子氏が亡くなったと聞いた。

私は彼女に会ったことは無いが、私の専門としていた地域政治経済学において、「内発発展論」の提唱者としてよく名前を聞いたものだった。

「内発的」というのは、小説家の夏目漱石が言い始めたものだといわれる。「私の近代主義」というような題名の講演で彼は、近代化を「内発的」と「外発的」に分けている。

西欧では、近代がそれ自身の必要性から内発的に出てきたのに対し、それ以外の、特に19世紀における日本では、内部の必要性というよりも、外圧によって強引に「外発的」に近代化された。それが、自らの内発的欲求との摩擦を生み起こし、それが「神経衰弱」として結果する。

鶴見和子はそもそもこの夏目漱石の講演を念頭においていたわけではないそうだが、確か1960年代終わりごろに、それぞれ地域の歴史、伝統、自然を生かした「内発的」な発展ということを提唱する。それにはGNP至上主義に代表されるような、数字の利益のみで「発展」を考えない(そのような数字至上主義は質的なものを含む発展とは言わず、「成長」という)。さまざまな多様な価値観を含んだ発展である(ポリフォニーというたとえを用いて説明する)。

誠にすばらしい考えであって、ごもっともである。か?。

彼女はどちらかというと文学的ロマンティストであって、この内発的発展論も柳田國男やガンジー、南方熊楠、大江健三郎などを用いて、いわば啓蒙学的に理論化した。

この考えを敷衍して、当時急激な近代化がもたらす公害の問題に取り組んでいた経済学者の宮本憲一氏が、内発的発展論をより政治経済学的に理論化する。ちなみにこの宮本さんの元で地域政策論を学んだ中村剛治郎さんのゼミで私は学んだ。

実は、宮本憲一氏にもロマンティシズムがあり、完全内発主義が可能であるかのような空想が残っている。それを払拭するのに、理論家としての、分析家としての力を注いだのが中村剛治郎氏である。この二人を同じような考えの持ち主とくくる荒っぽい評論家が多いが、私の見るところ、宮本氏と中村氏の間には大きな理論的違いがある。

たとえば、そのロマンティシズムのせいで、内発的発展論は多く農村のみにおいて展開される。しかし、実は都市でどのように可能かを問わねばならない。また、農村も都市との関係で発展するのである。また、最初は外発的に始まったとしても、だんだん内発的に変化する可能性もあるのではないか。まったく内発で行うのには限界があるのではないか。現在は相互連携の中で発展を探るべきで、孤立した場所において、自給自足のようなカスミを食べるような地域を考えるのは、非現実的ロマンティシズムでしかない。

さて、鶴見和子の内発的発展論に戻ると、数多くの業績があるのを認めながらも、残念ながら、鶴見さんの理論は元の夏目漱石の理論から後退してしまったといえよう。

漱石は先の講演でこのようなことを述べている。

「結局、現代の近代化というのは「外発的」でしかありえない。日本は特にそうである。しかし、元の西洋も近代化が世界的になっていくうちに、逆に新たな近代化の地域に迫られて、いわば外発的に近代化を進めるようになるだろう。たとえば、アメリカ合衆国や日本、ラテンアメリカの追い上げである。

「よって、現在の近代化における課題は「外発的」を軸にしながらも、そこにどうやって「内発的」の差し木を入れていくか、という発想工夫にある。外発のままでいくと「神経衰弱」の問題が起きる〔たとえば、戦争や精神的ストレス、環境破壊である、と今日なら言えるだろう〕。しかし、まったく内発的にやるには、現代の世の中は相互依存と相互圧力が激しい。」

ちょっと私自身の意見も入れてしまったが、この様なことを漱石は20世紀はじめに既に言ってのけた。

夏目漱石が文学者でありながらも、文学者的ロマンティシズムを逃れえていたのに対し、鶴見和子さん自体は、その訴えが緊急のものであったからこそ、いわゆる農村主義、第三世界主義のような、非現実的な考えに傾倒してしまった。

そこに不満はありながらも、まったく違った発展のあり方というのを提唱した役割は大きい。われわれに残された課題は、現実的な政治的、そして経済的な構造の中で、どのように新たな多次元な、環境や文化とも調和した発展方法を考え出せれるかどうかである。そのために、安易に農村や第三世界に目を向けるようなことだけは避けたいと思う。e0020865_135612.jpg
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by ganpoe | 2006-08-21 01:42 | Social or Economic
2006年 08月 19日

横並び?いや縦並び社会・日本

日本は横並び社会だとよく言われてきました。

どうもそれに私は不満を覚えていました。実は縦並び社会ではないか。特に最近は格差社会というものが大きく取り上げられていることもあります。

が、今回はそのことではなくて、いわゆる「金魚の糞」の前の人についていけばいいや、という自主性の無い日本社会ということです。

その一番の例は、駅で待っている人たちです。

私の見た範囲で駅で縦に並んでいるのは、日本ぐらいです。

ホームをずらっと縦に列が横切って、ホームが列で埋まっています。歩行者には迷惑極まりない。歩行者に迷惑がかかっていると「自主判断」して、列を横に変える、間を空ける、など配慮をする人もいない。自分の力で状況判断をして、周りの習慣と違っていても、きちんと一人で行動できる、そういう人間が育っていない。勇気が無い。

金魚の糞のようについてけば何とかなる、という退屈な社会を日本の会社主義は作り上げてしまった。

もちろん、たて並びだからかえって平等なのだ、という考えもあります。待っていれば、いつか自分の番が来る。

縦に並んでいれば、順番だから、争いを避けることができる。そして、ゆっくりと待っていればいつかはうまくいくだろう、と考える。これは輪を愛する日本の姿、というのかもしれませんが、ホームを占拠して(横に並んでくれれば、真ん中に通り道はできる)歩行者に迷惑をかけていても、気にせず、かたくなに頑固に、ただ前の人についていくだけ。

日々の行動でもそうではないでしょうか。堂々と一人で自分の意見をいう、行動に移す、ということができず、前に並んでいる人(位が上の人)にただただ付いていく、ということしかできません。縦並びの社会。

しかし、正確に言えば、縦に並ぶのは、早く来たのだから、座る権利を持ちたい、という卑しい根性のせいでしかありません。座る権利は身体的弱者に、と言うこともありますが、列車に乗っても座れないような過密社会(裏返しの過疎社会)を作った日本の企業効率優先主義がいけない。

横並び、というのは大変なことです。状況状況によって、それぞれ個人が判断し、その毎回違う状況のたびに、どうやってみんなが安全に、相互利益を保ちながら、一人ひとりが行動すればうまくいくか、そういうことを考えながら、いつも行動していなくてはいけないからです。

でも、そういうことを実行しなければ、それぞれ個人の能力は高まりません。

横並び、ですから、勝った者勝ち、ではありません。どうやってきちんとみんなで並んで、いわばWin-Winの状況になれるか、それを個人個人が判断して、必要なら協同する、ということが私の言う「横並び」という意味です。
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by ganpoe | 2006-08-19 01:41 | Social or Economic
2006年 08月 18日

中国、GTの海外アニメ放映禁止

中国が海外アニメのTV放映を、ゴールデンタイムに限り、禁止した。

国内アニメの育成のため、というが、育成のために海外文化の門戸を閉めてうまくいったためしは無い。たとえば、日本のアニメ業界はディズニー映画の影響を多大に受けたために発展した。

となると、本音は、(海外アニメのほとんど(9割)が日本アニメであることを考えると)日本制裁のためではないであろうか。

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/column/syunzyu/20060817/20060817_001.shtml
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by ganpoe | 2006-08-18 01:40 | Art
2006年 08月 10日

長野県知事選

田中康夫が敗れた。


といっても田中康夫を支持してるわけではないんですが(そもそもどの政治家も支持してません)、公共事業の見直しとか、いいと思っていました。同じことを言ってるような、小泉の公共事業見直しが、環境・福祉・文化・地方を捨てて、外交・国防に専念する、という発想ででているのに対し、ちょうどその反対だったと思う。

ところが、やっぱり経営ってウェットな人間関係が大事なんですねえ。いくら内容が良くても、うまく根回ししたり、人心を掴んだりするのが大事なんですね。

http://www.asahi.com/politics/update/0807/001.html
「レタス生産日本一で知られる川上村の村長で、県町村会長の藤原忠彦さん(67)は、県産品を「信州ブランド」として発信するなどの田中氏の発想力や行動の迅速性は評価する。「ただ、同じ方向を向いていても、手法が悪ければ、反対に回らざるを得ないこともある。賛成と反対は紙一重だ」。田中県政が市町村の頭越しに施策を決める手法に、強い抵抗を感じてきた。 」

不思議な論理ですが、確かに実際に行動するべき現場の当事者がやる気が出るように、人事・経営もうまくやらなくてはいけないでしょう。でも、現場の当事者が求めてるのは、金稼ぎするための独占的な権利、なんですからね。そういう人たちのモチベーションを上げてもねえ(笑)。

そんなわけで、政治や選挙とかそんなものに期待しない方がいい、と変わらすの結論に至るようです。皆さんが選挙に行こう、とか運動するのはどうしてなのかしら?選挙で代わったことって、大体悪いほうに行ったことだけですけどね(小泉とかヒトラーとか)
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by ganpoe | 2006-08-10 01:27 | Social or Economic
2006年 08月 03日

イスラム・イデオロギーには西洋思想が隠れているか?--ダバシ氏の『不満の神学』

これは2001年ごろに書かれたものです。
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9月11日におきた米国同時多発テロは次のような単純な図式のみにおさまるものではありません。

例えば、一方に、米国政府などがいうような「天才的な悪魔」の仕業(NYタイムズの記者、トーマス・フリードマンなどの言)、そして他方に、米国の海外政策の失敗(帝国主義的)。然し、このような評価のみでは、最終的に反アラブ主義、あるいは反米主義に行き着くのではないでしょうか。だとすれば、これらの考え方によって、その両者の報復の悪循環が止む事はありません。

他に第三の道はないか。この問いに答えるために、イスラム革命運動についてもう一度検討するべきではないか。

そのための手がかりとして、イスラム政治学のダバシ氏の本「Theology of Discontent (不満の神学)」は大きな示唆を与えてくれます。彼は、イランにおける共産党を主体としたマルクス主義運動への幻滅が「大衆への回帰」、「イスラムへの回帰」をひきおこし、そしてそれらの「回帰」を革命化させた、という観点を持っています。つまり、イスラム革命運動にはマルクス主義の亡霊が取り憑いているといえるでしょう。(注:この視点に関しては、批評家の柄谷行人さんからご教示がありました。)

(お断り:私がこれから述べる意見は、一般に言われているようなイスラム原理主義に関係するグループがアメリカ合衆国においてテロを行ったという判断に基づいています。ところで言うまでもなく、現在の時点では、犯人は正確には特定されていません。さらには、犯行を陰で許した者もいるかもしれません。したがって、もし真相が違うと分かったら謝罪するしかありません。しかしイスラム革命主義に関するここでの議論はそうした「真相」には大して左右されないと信じます。)

暗殺や反乱と比べて、テロリズムは現代的な現象と思われます。まず、技術的な発展がある。爆発物の発明。大量殺人の可能性。そしてまた、国民的同一性、あるいは民族的同一性、という価値観が誕生し、成立した歴史にも鍵があると思います。つまり、その同一のグループの中でなら、誰を狙っても、結局同じことを意味するわけです。

原理主義というのは、イスラム自身に直接根差しているわけではありません。西洋における革命運動から生まれてきたものです。例えば、キリスト教に根差した原理主義というのがアメリカ合州国にあるし、ヒンドゥーにもある。そして、ことイスラムにかかると、マルクス主義との歴史的なつながりがある。

ダバシ教授の本によると、マルクス主義はイランやその周りのアラブ諸国では既に一世紀以上の間、広がっていたのです。しかし、それらの国内の聖職権力者は(CIAと共に)それを弾劾してきました。とりわけイランでは、ソ連の影響もあって共産党(Tudeh党)の活動がありました。しかし、彼らは宗教心の強い民衆から支持を得ることができなかった。しかも彼らは、党の方針から逸脱するような言論を許さなかった。党員であったジャラル・アレ=アマドは、ソ連の干渉(特に石油利権を狙った)を嫌っていて、1948年に脱党します。彼はその後、いくつかの政治活動を渡り歩いた後、西洋の小説の翻訳を開始しました。(例えば、ジッド、カミュ、サルトル、ドストエフスキーなど。)そこから、流行のいわゆる「実存主義的立場」を身につけ、自ら小説を書きながら、イスラム教原典に向かう事になります。つまりマルクス主義的革命の理想から実存主義を通った後にイスラム教に戻ったわけです。(彼は元々信仰心熱い家に育ちました。しかし再びイスラム教に「戻った」ときには、よりラディカルな反西洋思想を求める事になります。)そして、1962年に「西洋中毒化(ガルブザデギ)」(英語訳はWestoxication)を発表し、多大な影響を与えます。彼は、そこで石油資本の進入によるアラブ圏の「西洋中毒化」を手厳しく糾弾しますが、その裏には彼自身の西洋(思想)中毒化、が隠されていたのです。彼は、イスラムの革命家となることを目指し、「イスラム・イデオロギー」なるものを推奨しますが、この言葉自体が、イスラムによって修飾された西洋思想であったのです。また、そこで彼は、西洋の技術は普遍的だから移入してよい、しかし、思想や文化はだめだ、というような事を言っています。その箇所を読んだ時、私の頭を今回のテロ事件がよぎりました。

彼は69年に心臓発作で死亡しますが、その後に来たのが、アリ・シャリアティです。ダバシ教授によれば、彼こそが最高のイスラム・イデオローグだ、という事です。シャリアティはパリで社会学を修めている間に、サルトルやファノンを知り、また、マルクス主義系運動、特に当時のトロツキストの革命運動やアルジェリア解放運動に深くコミットします。彼は1965年にイランに帰還します。彼はそこでマルクス主義革命を実行しようとしますが、当局に弾劾され、投獄される。また、そのままの思想では民衆の支持を得られそうもなかった。そこで、マルクスの革命思想をコーランの字句を元に読み替えようとします。これはやはり実存主義的立場を媒介にして行われました。革命家になる、という個人の選択の問題であり、その選択の前で個人はアラーの神の前に立つ。自らのうちにアラーが入り込み、そこで自らの生死はアラーとの神的合一となる、というわけです。

ホメイニ師の思想的、政治的なバックボーンであったモルテザ・モタハリは、この二人といくらか違ってはいました。彼は特にシャリアティに激しいライヴァル意識を持っていたのですが、出来上がった思想は同じようなものでした。彼は、西洋から輸入され特に若者に影響を与えていたマルクス主義に対して、イスラム神学を対峙させようとしたのです。しかし、彼自身は、西洋語を読まず、翻訳本に頼っていた。そもそも、マルクス自身を読んだ事はないが、パキスタンのイクバルという思想家がマルクスより優秀な唯物論を完成させたと勝手に宣言して(笑)、その人の本を読んでごまかしていた。それはともかく、革命的なマルクス主義に対抗するためには、イスラム教も革命化させねばならない、とモタハリは考えるに至ります。今までのイスラムは本当のイスラムではない、それは空想的である、イスラム法者による直接支配が、イスラムの原点にいたる現実的な道なのだ、と、エンゲルスの『空想から科学』へを思い起こさせるような議論を展開しました。実際の所、イランでは「政治的」である事は、石油資本やソ連と結びつく事であり、保守的であった。思想や運動を宗教的にを研ぎ澄ましていく事こそが、「革命的」であったのです。現実的な革命は、大衆に訴えるイスラムを通してこそ行われる。彼やホメイニ師に依って示された禁欲主義は、西洋文化(消費主義)のまさに正反対にあるものとして進められたのでした。

アレ=アマド、シャリアティの残したパンフレット、レクチャーの筆記は、ペルシャ語からアラブ語に翻訳され、イランを越えてアラブ圏全体に読者を持つこととなりました。彼らの運動は直接には、例えば、アラブ圏でのサラフィーヤという復興運動とつながります。特に有名なのはサイイッド・クータブというエジプトの思想家ですが、彼ももともと西洋のモダニズムと呼応する文学評論家でした。それが、50年代から60年代にかけて、急速に反西洋主義に走り(オクシデンタリズムといえるような「想像された悪の帝国」)そして、イスラム伝統、特に、13—4世紀のイブン・タイミーヤというモンゴルに対抗するために、アラブ国王と対決した人物を持ち上げるのです。この人物については、ビン・ラーディンも良く触れる事があります。

1950年代的思想から、60年代的な夢想する永久革命者、カストロからゲバラへの流れがここにもあったのかもしれません。つまり、テロにいたったのは、イスラム教自身の問題というよりも、西洋の反システム運動の理論的欠陥であったといってよいでしょう。「聖戦ジハート」という考え方は、既に死に絶えた伝統のもとで個人のうちに向けた問いかけのようなものだといいます。元々は、それほど残虐な思想だったわけではないのです。それに、「コーランか、死か」という考え方も実際の所、税金を払え、払わねば殺す、という意味のものだったといいます。ならば、ローマからモンゴルの各帝国とそれほど違ったものではありません。つまり直接テロリズムにつながる価値観ではなかったのです。

ですから、ビン・ラーディン率いるアルカイダなどが行っているのは、マルクス主義・トロツキスト革命(イスラム教のスパイスを振り掛けた)である、といえるかもしれません。イスラム革命運動はラディカルであり続ける、なぜならそれは永久革命だから。彼らは国境を越えたネットワークを作る、なぜなら世界革命だから。彼らは報復としての暴力を否定しない、なぜならファノン主義だから。彼らは神となった自分が死ぬ事に実存を見出す。もちろん、彼らの思想はトロツキーから、ファノン、サルトルを捻じ曲げたものだ、とはいえます。しかし、疑いようのないつながりがあります。

残念ながら、私はイスラム教学やアラブ研究に関しては全くの素人です。しかし、このダバシ教授の論点は確かに興味深いものだと思います。彼の考える通りだとすれば、現在の問題に対処する方法は、チェイニー米副大統領やラムズフェルド国防長官が行っているように、イスラム革命運動を力で押さえ込む事ではない。しかも、単にグローバライゼーションを批判すればいい、という話だけでもないのかもしれません。資本主義が続くならば、必然的にそれへの対抗運動は生まれて来ます。そしてそのような運動が大衆の支持を得る事に失敗した、とみなされれば、原理主義のような運動が再び起きて来る可能性は大です。なぜなら、それはモダニティ自身に内在する構造だからです。永久革命や世界革命が、宗教や国民的伝統と結びつけられる事によって大衆化が図られる、という構造は非常に危険です。日本の軍国主義、大東亜思想などもここから出てきたし、ムッソリーニも、ヒットラーもそうでした。

以上のことから、マルクス主義がいかに失敗してきたか、という歴史を見直すことが根本的な解決策である、と思います。国民国家と資本主義に対抗し、揚棄する運動は何か。新しい運動を、アラブ圏、そして、先進国で行っていく方法は何か。

Dabashi, Hamid, (1993), Theology of Discontent / The Ideological Foundations of the Islamic Revolution in Iran, New York: New York University Press.
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by ganpoe | 2006-08-03 01:25 | Social or Economic