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2009年 01月 31日

本当の目的はLife?

2005年10月20日

 

本当の目的は剰余価値0か?Life(生活、人生、いのち)か?

前に書いた「 剰余価値と必要の社会・経済」にすでに触れた内容ですが、もう一度角度を変えて考えたいと思います。

 貨幣を投資することによって、その価値が増殖していくという「資本」に貨幣を変える、これが資本主義というものです。この仕組みは多くの社会的不公正を生むということで、この価値の増殖(増殖された部分の価値を剰余価値といいます)を止めることが社会的運動の核心であると考える人が多かったのです。

 しかし考えてみれば、資本主義以前の社会——そこでは剰余価値は無かった、あるいは最小限であった——においては社会的不公正はなかったのか、というと、もちろんあったのです。たぶん現代とは質が違っていたかもしれませんが、かなり激しく。

 となると剰余価値を0にしていく、というのが中心目標として据えられていていいのか、という疑問が生まれます。もちろん、この先、剰余価値が0になった社会というのが、どういうものになるのか想像もつかないのではっきりとは言えませんが、剰余価値が0であっても社会的不公正は多く、人々の間の格差は激しく、一般的に言って幸せでない、という可能性もありえるのではないでしょうか?

 逆に、剰余価値があっても、それがうまく循環していれば世界中の皆が自由で「幸せ」でいられる可能性だってありえないでしょうか?

 この二つの疑問は難しすぎて私には想像できません。そういう社会、状態は実際には今現在ないからです。しかし、このことだけはいえるのではないでしょうか。

 社会改革の主要目標はあくまで「世界中の皆が自由で「幸せ」でいられる」ということです。もちろん「幸せ」というのもいろんな意味があって一概には言えませんが(不幸の方が幸せ、という方もいるでしょう?何が幸せかは人それぞれ、まあ自由に幸福を追求できる、ってことでしょうか?)とりあえず一般的に言って「幸福」ということです。そして例えば「剰余価値をなくす」というのは、この「目的」のための「手段」の一つにすぎない、という認識です。

 つまり、いつの間にか目的と手段が入れ替わって、「剰余価値をなくす」が目的となって、人々の自由と幸福が忘れられてしまったのではないか、ということです。旧ソ連などの社会主義国がそのいい例だったでしょう。また、労働組合なども資本家が取っている剰余利潤を出来る限り分捕り返す——給料を上げる——のが目的と化し、本当の目的、人生の幸福——たとえば企業が公害を出さないようにする——を逆に無視してしまったことがあるのではないでしょうか。

 改めて言いますが、私が地域政治経済学に注目するのは、この中心目標「世界中の皆が自由で「幸せ」でいられる」をまず第一に持ってきていることです。当たり前のことですが、重要なことです。そして、その目的を達成するためにまず何が手段として考えられるか、こう議論を進めています。この進め方は正しいです。この手段は色々考えられるとは思います。人々の関心によっても違うでしょう。環境保全かもしれませんし、女性の自由自立でもあろうし、何より平和でもあるでしょう。

 しかし、そのような色々な関心をまとめるものとして、やはり人々の自由と幸福を一番規定するのは、それぞれの人生、生活、いのちの中心となるそれぞれの地域(都市と農漁村がありえますが)のありようなのだ、ということが地域政治経済学の考え方だと思います。だから、理論の定義づけにまず地域とは何か、ということから始めているのでしょう。

 もちろん、地域政治経済学のみが答えではないかもしれないし、現在の研究水準では足りないものがあるかもしれませんが、私には大きな魅力を感じさせます。

 それはともかく、この目的と手段をきちんと把握した上で、マルクス経済学も見直すと違った観点が出てくるのではないでしょうか、と考えます。
(つづく)
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by ganpoe | 2009-01-31 12:36 | Social or Economic
2009年 01月 31日

中翼=仲良く??

2005年5月1日


対立を超えて、創造性へ。

 前に、二律対抗というようなことを言ってそれを超えよう、というようなことを私は言いました。しかし、対立するってのはよくあることだと思います。で、それは決して悪いことでもない。対立する点があるって分かることは。そこに問題がある、というのが分かるということだから。だから異質な者たちがたくさんいて、たくさん衝突してたくさん対立が生まれたらいい。いろんな問題を発見できて、解決できれば発展できるから。

 たとえば、「正統派」というのがあって、それへの「対抗」が起きるとします。

 「対抗」→「正統」

 これはいろんなところで起きますね。経営でも、政治でも、家庭でも、いや、自然界の中でも。。。

 政治的なところに限定して言うと、このうち、「対抗」(してるとされたもの)に極端に集中してしまうのが「左翼」?・・・で、「正統」(とされてるもの)に極端に傾いちゃったのが、「右翼」でしょう?
 
 「対抗」−「正統」
 「左」 −「右」

 とにかく、国家、大企業、これらはとことん悪いやつらだ!信用できん、ってことで一生懸命、ただ対抗だけしてしまう。その勇気、えらさには感服しますが、最初の倫理的動機はいいのですが、いつまでも対抗してるつもりでは、どうも発展がないです。あんまり創造的ではないだろう。

 しかも、何しろ大きいものへの対抗だから、人的被害も大きかったりする。それだけ犠牲が出ると、対抗運動も硬化してきて、閉鎖的な組織を作ったりして、その組織の中で「正統」「対抗」とか対立が出てしまったりする。

 永久革命、ではないが、正統派というのはどうしても出て来て権力として存在し続けるから、対抗派も永久に対抗し続けなければならない、という説もある。資本主義=ネーション=国家というのは一種の調整機構を持っているので、はじめそこに対抗していたような論理も取り込んで発展していく。たとえば、社会主義等などの批判を取り込んで福祉国家が発展したり、アナーキストを取り込んで、アナーキーな資金移動を行うマネー資本主義や国家の規制から外れていこうとするグローバル企業化が進んだりする。

 反対に「正統」派ですが、この複雑な社会の中で「正統」として残ってきたものだから、残っているそれなりの理由があるのだろう。しかしだからといって、それを変更しないでおくわけには行きません。そもそも現在「正統」といっている人は過去の「伝統」というのを勝手に捏造し「発明」した可能性がある(ホプスバーム他『創られた伝統』)。また、「正統」に入れてもらえなかった人たちが、いつまでも不幸でいる可能性があります。

 ついでに言うと、「正統」にいたと思っていたのに気づいたら「正統」からはずされてた、というケースがあります。

 たとえば知識労働化して行く経済の中で、ふと気づいたらパート労働などに回されていた人たちがアメリカには大勢いました。経済格差の広がりです。その時、さらに純粋化された「正統」と思ったもの、つまり、キリスト教の道徳、ここに回帰したのが、今回のブッシュ大統領再選に貢献した票の元だ、といわれています。

 これも極端で、あんまり発展性がないですね。創造的でない。そしてブッシュ大統領が象徴するように好戦的で、これも被害が大きい。

 つまり、「対抗」でも「正統」でも、「左」でも「右」でも、どっちかに傾斜し続けているのは危険です。あんまり理想が高すぎておおらかさ、包容力がなくなっていきます。暴力的なものが出てくることが多い。

 沖縄のミュージシャン、喜納昌吉がいいことをいいました。

 「私は左翼でも右翼でもなくて『中翼=仲良く』というのが一番いい」

 うまい!座布団一枚!

 しかし、ここで勘違いしてはいけない。「仲良く」というのはよく言うような「仲良しグループ」であってはいけない。皆同じになるべきだ、ということではないということです。みんな同じ考えを持ち、おんなじアイドルを追っかけ、同意するだけ、人と違った意見を言うことは控える。これは問題があるのを回避して、妥協して通り過ぎようとするだけだからです。こういう問題は将来明るみに出て、より無残な結果になることが多い。少しも建設的でないし、発展的でない。逆に破壊に進む可能性がある。

 だから最初に言ったように「異質な者たちがたくさんいて、たくさん衝突してたくさん対立が生まれたらいい。いろんな問題を発見できて、解決できれば発展できるから。」しかし対立のための対立ではいけない。対立をどう組み替えてより発展した形態にもっていけるか、これを対立相手同士が「仲良く」考え実験していく、ということが重要なのだから。よく言われる言葉で言えば、対立関係から Win-Winの関係に持っていく。
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by ganpoe | 2009-01-31 12:35 | Social or Economic
2009年 01月 31日

対立から発展的統合へ(フォレット)

2005年5月1日


対立を超えて、発展へ (メアリー・P・フォレット)

 前に、二律対抗というようなことを言ってそれを超えよう、というようなことを私は言いました。しかし、対立するってのは(コンフリクト)よくあることだと思います。で、それは決して悪いことでもない。対立する点があるって分かることは。そこに問題がある、というのが分かるということだから。だから異質な者たちがたくさんいて、たくさん衝突してたくさん対立が生まれたらいい。いろんな問題を発見できて、そして解決できれば発展できるから。

 戦前に活躍した経営コンサルタント、メアリー・P・フォレットはこう言っています。

「相違性への恐怖は日常生活そのものへの恐怖になる。必然的に相対立するものたちが持つ不経済な争いなどではなくて、社会的に価値ある諸相異点が全員の豊かさを自ずから示している、通常の過程として、コンフリクトを考えることが出来るのである」

「われわれに合わせて欲しいのではない。われわれは、コンフリクトが持つプラスの価値が欲しいのである」

「われわれは相異を止めるのではなくて、ごちゃ混ぜになることを止めたいのである。」

(『創造的経験』。『M・P・フォレット/管理の予言者』24ページより)

 フォレットは主に1920年代に活躍した女性ですが、アメリカの経営学の最良の部分を代表しています。たとえばフレデリック・テーラーなどに影響された「効率至上主義」の経営学(いまだにMBAなどをとった人の多くがこれが経営学の粋だと誤解する)と違い、「効率」のみでなく、すべての人間の創造性、彼らのモラリティー、モチベーションをも重要視する経営学、さらにローカルな現場から出てくる知識、問題発見能力、解決能力、それらを他の人々と相互主義的に、協同的につなげていくという方法、このようなことを唱えたのです。それが実は「長期的」には最も効率的である、とも。

 しかし、タテ型のハイアラキー、官僚型、軍隊型の集団組織を好んだ多くのアメリカ企業の経営者に彼女はすぐに忘れ去られてしまいました。上司のみが問題を解決でき、命令できる、そして労働者はまるでロボットのように完全に操作されたほうがいい、そういう考えが広がったのです。もちろん、テイラーは同時に労働者の意見も聞く——彼らに実行権は与えずに——さらに彼らにたくさん給料を払うことで、彼らの福祉も図る、とも言っていました。それがまた、たくさん消費する労働者、大衆消費市場を土台にする20世紀アメリカ型経済システムの確立に役立ったのです。

 このようなシステムが、現在行き詰ってきた、といわれています。その理由はたとえば、これでは労働者のもつ創造性が発揮さらずに製造業において生産性が低くなっていったこと(日本などの労働者自身による改善を勧めるシステムと比べて)、そして、大量消費に伴う大量廃棄、エネルギー浪費による環境問題、中東における石油争奪に伴う紛争、などです。

 そんな中で、フォレットが再び見直されている、という背景があります。たとえば、有名な経営学者ピーター・ドラッカーなども、彼女を最大の師の一人として仰いでいます。

 経営学、というのはこのように、単に経済効率第一主義のみのものではないのです。このことを重視する必要があります。「左」の方でも「右」の方でも、また環境運動などをやっている人たちに「経営学」というのを敵視する人たちがいますが、経営学にもいろいろある、ということを知っておく必要があります。「経済的」である、ということは無駄を少なくする、ということでもあるし、人々の創造力を有効に発揮できる環境づくりをする、ということでもあるのです。

 私に言わせれば、壮大な世界改造計画、などを出してきた旧来のマルクス主義者たちや、逆に、本当にあったかどうかも知れない伝統、歴史を捻じ曲げてでも正当化しようとする、国家主義、国民主義者などよりも、フォレットにずっと学ぶべきものがあります。それはつまり組織論です。

 とはいえ、対立というものがない、ということはそもそも問題を発見することも出来ない、ということです。個人はそれぞれ違う人間関係を通ってきてるのだから相違があって当たり前。だから、実際は、対抗運動も、正統主流派も、ごまかしたりせず、きちんと立場を明らかにする必要があります。歴史や現状把握をいいかげんに捻じ曲げてはいけない。その上で極端に走るのではなく、世界に多く出てくる問題を解決するためにも、お互いが「仲良く」情報を出し合って、何が根本問題で、そして、そんな問題は実は問題ではなく、解決できるのではないか、ということを想像=創造していったらどうでしょうか。

 ある一人の天才が、あるいは数人のエリート集団こそが全体的な問題をうまく解決できる、ということはないのです。そもそも「全体的な問題」とは何でしょうか?「Think Globally! Act Locally!」といわれているように、地球環境問題なども、結局、それぞれのローカルで解決していけるような形にならない限り、解決は無理ではないか?ローカルな問題、そこで次から次へと出てくる対立を一つ一つ、現場の人たちが解決していく、そのような形でしか、結局「グローバル」に出てきている問題も解決できないのではないでしょうか?

 参考として、いくつかフォレットの著作から抜書きしておきたいと思います。

 「対立を処理するには主要な三つの方法がある。それらは、抑圧(domination)、妥協 (compromise)、統合(integration)の三つである。抑圧は、明らかに一方の側が相手側を制圧することである。対立を処理するには、これは最も容易な方法である。だが、長期的にみると成功しないのが普通である。このことは第一次大戦以来のいろいろの出来事から理解できる。
 
 建設的対立の問題を処理する第二の方法、すなわち、妥協についてはわれわれはよく理解している。というのは、われわれの間での論争の大部分はこの方法で解決されているからである。和解を得るために、あるいはもっと正確にいうと、対立によって中断されていた活動が継続して行なわれるようにするために、相対する両当事者がそれぞれ相手方に僅かばかり譲歩するのである。」(『組織行動の原理:動態的管理』(新装版):43ページ)

 「今日、少なくとも承認されはじめている、また、ときには使用されている方法に統合というものがある。まず非常に簡単な例を取り上げることにしよう。ある大学の図書館の小さな一室である日、ある人が窓を開けたいと思い、私はこれを閉めたままにしておきたいと思った。そこでわれわれは、だれも席に就いていない隣の部屋の窓を開けたのである。そこには妥協はなかった。なぜなら、われわれはともに、自分たちが真に欲するものを得たからである。つまり、私は閉め切ったままの部屋がよかったのではなく、ただ単に北風が直接自分に吹きつけるのが嫌だったのである。また、私とともにその部屋にいた人は、特定の窓を開けたいと、思ったのではなくて、単にその部屋にもっと空気を入れたいと思っていたのである。統合とは、Aの欲するものもBの欲するものも含むような第3の方法、つまり、どちらの側もいかなる犠牲をも払わないですむ方法を発見することを意味するのである。

 もう1つの例を取り上げてみよう。ある酪農協同組合連合会(Dairymen's Co-operative League)が、ある乳製品倉庫(creamery platform)における罐の荷卸しに関する優先権の問題をめぐって、ほとんど崩壊するところまでにいたったことがある。その乳製品倉庫は丘の中腹にあった。丘を降りてくる人々は、自分たちが下り坂の中途で待機するように要請されるいわれはない、だから自分たちが最初に荷卸しすべきであると考え、また丘を登ってくる人々も、同じように自分たちが最初に荷卸しすべきであると考えたのである。彼らはこのことについて激しい口論になった。それがあまりにも激しかったので、その連合会は崩壊寸前になったのである。皆さんも推測できるように、双方はともに、まさに2つの可能性について考えていたのである。即ち、登坂者と降坂者とのどちらが最初に荷卸しすべきかということについてである。しかしそのとき、ある第三者が、乳製品倉庫の位置を登坂者も降坂者も同時に荷卸しができるように変更すべきであると提案した。この提案は双方の側に受け入れられた。両者は満足であった。しかし双方の満足は、自分の主張する方法が採用されたことによって得られたものではなかった。彼らは第3の方法を発見したのである。統合は、発明、即ち第3の方法を発見することを含むものである。賢明なことは、このことを認識し、人々の思考を相互に排他的である2つの代替案の境界内に閉じ込めないようにすることなのである。換言すれば、皆さんはけっして二者択一的な状況(a neither-or situation)に苦しめられてはならない。皆さんは、あれかこれかのいずれかに同意しなければならない、とはけっして考えてはならない。第3の方法を発見するのである。

 しかも、これについてきわめて興味深いことは、第3の方法が進歩を意味しているということである。支配にあっては、皆さんは現状にとどまっている。妥協にあっては、皆さんは同様になんら新しい価値を取り上げることはない。しかし統合にあっては新しいあるもの、つまり、どちらか一方という考えを超えた第3の方法が生まれるのである。(M・P・フォレット『管理の予言者』:223-224ページ)

 「・・・もし自分たちが Aの観点をとりBの観点を拒否するとするならば、Bの観点のうちにあるかもしれないあらゆる利点を失うであろう、ということを自ら知っているからである。賢明な管理者はAの観点からもBの観点からも、ともにその利点を得たいと思っている。そこで彼は、彼らの異なる経験と異なる知識とを協働的に調和させるような、それらの間の相互作用を確保しようと努力するのである。

 もし最高管理者が、自分の企業において異なった方針を統合しえないならば、即ち、ある方針の下に管理者たちを心から結合させえないならば、抑圧がこっそりと作用して、彼の企業の成功をはばむ非常に強力な要因となるであろう。というのは、抑圧は不満を意味し、しかもそういった不満は心に作用して増大し続け、さらに、われわれがもっとも見たくないと願っているところで、つまり、これを最初に処理してしまったときより、もっと多くの争いをわれわれにもたらすようなところで、ときを選ばずに不意に起こるかもしれないからである。

 同じようなことは、諸国民間の紛争の場合にも見ることができる。ある調停された事件において、自国に不利な決定をされた国民は、自国の望むことが得られる将来の機会を待ち望むだけであり、しかもその間、失望と不公平な扱いを受けたという意識とによって憤慨をおぼえるので、争いは大きくなるのである。」(M・P・フォレット『管理の予言者』:226ページ)

 「・・・私が特に強く勧めているのはこのことである。つまり、相違を解決する方法について実験を試みることを勧めているである。しかも、それらの相違は取締役会での意見の違い、同僚の経営幹部あるいは他の部課長との意見の違い、被用者との間の意見の対立、あるいはその他の種類の関係における意見の相違等である。われわれがこのようなことをやってみれば、対立に対してこれまでと違った態度を取るようになり得るであろう。

 今日の心理学の最も重要な言葉は、欲求(desire)である。もしわれわれが現代の心理学の言葉で対立について語りたいならば、それはいろいろの欲求の相互作用過程の一契機であるということができるであろう。だから、これによって善悪の暗示的な響きを争いという言葉から取り除いてしまう。このようにすると、もはやわれわれは対立自体を恐れないで、そのような時機を処理するには、破壊的な方法もあれば建設的な方法もあることを認めるようになる。相違が表面に現われ、それに対して焦点が絞られたものとしての対立は、健康的な状況の徴候であり、進歩の予告となり得る。酪農協同組合が、荷降ろし場での優先権の問題について争わなかったならば、荷降ろし方法の改善案に気がつかなかったであろう。この場合、争いが建設的になったわけである。しかも、建設的になり得たのは、妥協に終らないで、統合の方法を求めたからである。妥協は何も創造しない。要するに、妥協ではすでに存在している物ごとを取り扱うにすぎないからである。ところが、統合は何か新しいものを生み出す、この場合では、これまでとは異なった新しい荷降ろし方法である。さらにこれによって、紛争が解決されたのみならず、その解決方法は実際に前よりもすぐれた技法であり、酪農業者にとっても酪農品加工所にとっても時間の節約となった。私はこのことを次のようにいう。摩擦を働かせて、摩擦に何かを行なわせる。

 だから、対立が統合されないまま継続する相違であれば、その対立自体は病的であるが、相違自体は病的ではないことが分かる。・・・

 統合が妥協よりも優れている点について、私がまだ言及していない点が一つある。もし妥協だけで終わると、その対立が形を変えて将来次々とあらわれてくるであろう。なぜなら、妥協ではわれわれは欲望の一部分を放棄しているからである。したがって、われわれは将来とも、その妥協のままで満たされていないであろうから、いつか以前からの欲望の全部を獲得しようとするであろう。労使間の紛争を見、国際間の紛争を眺めて如何に繰り返しこのようなことが起こっているかを見れば、このことがよく分かるはずである。統合によってのみ本当の安定が得られる。だが、ここで安定といっても決して何か静止的なものを意味しているわけではない。何ごともおかれたままの状態をいつまでも続けるものではない。ここで私が意味していることは、ただある特定の対立が解決されると、次の対立がもっと高い水準で発生するものである、ということである。」(『組織行動の原理:動態的管理』(新装版):48−9ページ)

 「双方の見方の長所を取り入れることである。妥協では常にも何かが失われてしまう。さらに、われわれはすべて各人自分のやり方を欲し、それぞれが正しいと思われるやり方を欲するものである。たとえば、私が私の意志を他の者に押しつけることによって、あるいは、私の意志と他の者の意志とを結合して、私の好きなやり方を得ることができる。自己の意志を他の者に押しつけることは非常に残酷な響きを与えるので、そのようなことをしたいと思っていると告白する者は殆んどいない。しかし、私が他の者を喜んで抑圧し、しかもそのことを認めたと仮定しよう。それでも、このようなやり方は、長い自で見て成功する可能性が大きいであろうか。私にはそう思えない。というのは、もし私が私の意志を同僚の幹部に押しつけたとすると、次の時には、彼が私に彼の意志を押しつけようとするからである。私は、統合の原理は、長い間に発展してきた深速な哲学であって、長期的に見て、われわれの利益になることもはっきりとしている、と思う。

 なお、この夏、イギリスで私に面白い出来ごとがあり、私はそれについてたいへん興味があると思うので、それをここでつけ加えておきたい。二人の人がそれぞれ異なった時に、私に次のようなことを言った。「アメリカでは面白い表現があって、イギリス人たるわれわれには非常に興味がある——つまり、“長期的に (in the long run)”という表現である。」これには私も非常に驚いた。というのは、これまで私は、すべての国がそのような表現、あるいはそれと同等の表現をもっている、と考えていたからである。もちろん、イギリス人もわれわれと同じように、前向きである。しかし、このアメリカの表現である「長期的に (in the long run)」が、イギリス人の注意を引いたことはかなり興味があるように私には思える。もしアメリカの企業理念が「長期的」の認識によって知られるべきであるとすれば、確かに、統合もその理念の一部分とすべきである。というのは、前の論文で得た表現を用いると、創出的価値 ( emergent value) は統合から生れるからである。リプリー教授は、人生において、ほんとうのことだけに、つまり、われわれの前に横たわるもののみに注意を集中すべきである、と教えている。統合は将来を保証することである。

 統合の哲学を認めることは、これまで長い間多くの人びとの考えてきたような犠牲の概念を多少変更することである。私は、ここに、同一の誤ちに基づいているものとして、抑圧と犠牲とを一緒にする。たとえば私が君を抑圧すれば、私は私のほしいものを得ることができる。また、私が君に対して私自身を犠牲にするならば、君は君の欲しているものを得ることができる。私には、いずれも同じではないかと思う。私も君も両方とも、欲しているものが得られてはじめて、得るところがあったわけである。[Win-Winの関係。]前の論文で私が強調したように、統合は三つのことを意味する。すなわち、君も私も共にそれぞれ欲しているものが得られる、全体的状況が前進する、その過程がしばしば共同体的価値をもつ、ということである。だから、私は、いかなる社会的過程においても、それに私自身参加することは自己を犠牲にすることである、とは思わない。それは、自己を貢献させることである、と思う。」(『組織行動の原理:動態的管理』(新装版):296−7ページ)


(参考文献)
メアリ・P・フォレット『組織行動の原理:動態的管理』(新装版)米田清貴、三戸公訳、未来社、1997年(初版1972年)
M・P・フォレット『管理の予言者』序説P・F・ドラッカー、まえがきR・M・カンター、編集P・グラハム、監訳 三戸公、坂井正廣、文眞堂、1999年。
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by ganpoe | 2009-01-31 12:34 | Social or Economic
2009年 01月 31日

共同体と個人主義と協同体

2005年3月3日



 「コミュニティカフェの今日的可能性」という文でちょっと足りなかったと思うことを細く述べてみたいと思います。まず、少し古い文(1992年)ですが、『環境と公害』という雑誌にこういう発言がありました。

 「戦後の日本では、地域というと共同体と結びつく古い要素をかかえる克服すべきものといった近代化論に立つ考え方が主流でした。資本主義の発展とは、地域のもつ共同体的な制約からの個人と企業の解放であると考えられてきました。

 しかし、歴史はなんとも皮肉です。確かに、西欧近代化が生んだ個人の自立と市場経済における企業の自由こそは、工業化の原動力であったのですが、ポスト工業化段階を迎える今日においては、共同体的な関係を組み込んだ日本の企業がフレキシブルな生産システムを構築して強い国際競争力を築いたと注目されています。

 西欧社会は個人主義的な資本主義社会といわれますが、企業内や企業間の関係ではそうでも、マイスター制度という形で都市のギルド制を残したり、教会組織を大事にし、都市のどこからでも教会の尖塔が見えるという都市景観を近代以降も侵さず、建築の自由を制限したり、都市の宗教性を維持しているというのは、逆に、西欧社会は、共同体的な中間組織を重視し、都市を共同体として組織していることを示しています。そこに、西欧の都市の魅力の源泉がある。近代化工業化のもとで、個人や企業、国民経済の発展がめざされても、人間としての再生をはかる共同的な生活の場としての地域を基礎にしてのことであるということが示されている、といってよいでしょう。

 共同体意識の強い日本といわれますが、それは、戦前は天皇制国家、戦後は会社についてであって、戦後の日本の都市や地域については、共同体的な意識は希薄化し、個人主義的に、あるいは、企業の自由に委ねられて、自由に破壊と建築が行われています。むしろ、この状態を都市の活力として経済主義的に歓迎しさえしてきたのです。戦後日本の国土計画は、地域の発展ではなく、企業の発展を経済の発展と混同し企業システムを国家によって支え、企業システムが国土全体に展開し、国土を効率的に利用していくことを近代化や発展と考えてきたのではないでしょうか。その結果が地域や環境の破壊です。

 共同体的な関係を切り捨てる近代化ではなく、近代化の中に共同体的な関係が生きているという時に、いい結果がうまれているようです。そして、普通の教科書では、資本主義は、ミクロな経済主体としての自由な個人と企業、マクロな経済主体としての国民国家を基本単位とすると書かれているのですが、実は、その中間に、地域あるいは都市や農村を独自の単位としてどう位置づけるか、共同体的な中間組織としてどう組織するかが、経済社会のあり方や環境の質に決定的な影響を与えるのです。

 戦後日本の国土計画が環境と開発をどう考えどう処理してきたか、その検討を通じて環境と開発の原則をあらためて考えるというとき、環境と開発を直接無媒介的にとりあげるだけでなく、国土計画は経済発展の単位をどのレベルで考えてきたか、地域を独自の単位として育てようとしてきたのか、それゆえ、多様な地域の集合体として国土の発展を構想してきたのか、それとも、国土を単位として国民経済の成長をめざし、地域はさまざまな機能の展開する現場として効率的に利用する対象としてしか位置づけてこなかったのか、という問題を媒介して考えることが重要だと思うのです。」(中村剛治郎発言、雑誌『環境と公害』Dec.1992 Vol-22 No.2、37ページ)

 長くなりましたが、私はこれを非常に鋭い考えだと思います。普通、経済学・経営学を専門にしている人は、どうやって企業を効率にするか、その全体としての国民経済・世界経済を成長にもっていくか、ということを問題にし、社会問題などを研究する人たちは、企業構造・経済構造を現実的に考察・研究しない。その壁を越えていくような考えです。

 さて、重要な論点を覆すようですが、会社共同体と地域共同体、都市共同体とは信頼感によって結ばれた人間の(自然・歴史との)つながり、という点では確かに似ているのですが、厳密には少しずれるところもあると思います。要するに日本では共同体を会社の周りに作りやすいのに対して(といってもリストラの最近ではどうか知りませんが)、なぜ地域・都市共同体が生まれてこなかったのか、というのが知りたいのです。

 「個人主義」という言葉の定義にもよりますが、ここで中村さんは、「私的利益」中心主義、という意味で使ってられると私は考えます。「私的利益」と「個人的」とは違う、としたほうが論点がもっと明確になるのではないでしょうか。

 「私的利益」というのは、貨幣をたくさん持つためにたくさん金を稼ぐ、あるいは、短期的な金銭価値に結びつかないと思われるものを「無駄」としてどんどん省いていく、ということですね。その意味では「個人」の価値観に根ざしているというよりも、市場交換の中で「私」の得られるパイをなるべく大きくしよう、という欲求に根ざしている。言い換えれば、「個人」でなく「市場」あるいは市場の交換の中で増殖する貨幣価値=資本への欲求に「依存」している。
 抽象的に言うと分かりにくいと思いますので、具体的に言えば、個人主義がなくても、お金は稼がなければなりませんから、「自然に」会社の周りにたむろして依存します。会社には勤めなければいけない。それは仕方ありません。しかし「なんとなく」、つまり「個人」の意思で選択をしないでいれば、会社にただたむろするようになります。だからこれが「共同体主義」です。例えば、その地域に生まれてしまったので、選択もせずにそこの地域共同体にはまり込む、というのに似ています。

 それに対して、「個人的」に行動する、とはどういうことでしょうか。金銭的には、私的利益を追っていれば地域市民活動などする必要がないので——少なくとも短期的視点で見れば——それらは「あえて」しなければならない。この「あえて」というのが個人主義につながるのでないでしょうか。その個人性を発揮して、よりよく社会を発展させるために、他の人と「協同」する必要がでてくる。お互いがお互いのエゴや安住のために足を引っ張り合うような共同体ではなくて、都市、地域として発展できるようにそれぞれの創意性を出し合って作っていく協同体になるのではないでしょうか。

 したら実際のところ私的利益としては損になるのかもしれないけれど、何か倫理的・不変的な価値——理性や美にのっとった——のために「あえて」それをする。あるいは維持可能な発展のために「あえて」する。そういうことをする個人・合理・行動主義がなければ市民活動は始めませんし、それを可能にするために他の個人と「協同」しなければ地域・都市「協同体」はつくられないでしょう。創造的になるために、他の人との協同から生まれてくる信頼をてこに、地域をより良くつくりかえて行くのです。

 トックヴィルは「自由な市民のコミュニティー」といいました。このような「あえて」行動することによってしかできないコミュニティー、アソシエーションを、「なんとなく」集まった伝統的・既存の会社共同体と区別するために、漢字で「協同体」と私は表現しています。

 ところで、会社も「あえて」個人主義で作りかえることが出来ると思います。会社は「私的利益」を追うのは二義的、あるいは結果であって、本質は社会が必要なものをより質が高く効率よく提供する「機能」である、とする。企業からの視点でなく、消費者・生活者を主語とするとそうなります。

 瑣末問題を論じたようでした。ともあれ、上の中村さんの議論は、閉鎖的な共同体のコミューンみたいなことをいっているのではありません。自給自足を基礎とする、というような非現実的な議論ではありません。開放的であり、地域間分業の一つを担いながらも、自立性を保てるような形を模索しているのです。最後にまた引用しておきましょう。

 「地域は開かれた存在であり、地域間の交流と連帯を不可欠とするということである。地域はそれぞれ地理的・歴史的条件を異にする多様性を特徴とする。他の地域の個性や独自性にふれてこそ、人間はより豊かになれるし、地域は新しい発展に向けた刺激を得る。しかし、地域間の交流や交換は、相互補完的なものだけでなく、地域間の不平等を拡大したり、地域間の支配従属関係を生むこともある。地域が独自な存在としての主体性を持たずに他の地域との交流や交換を行う場合に起こりがちである。」(p.62:中村剛治郎『地域政治経済学』有斐閣、2004年。)

 「いずれにせよ、従来の地域経済の定義には再生産圏、いいかえれば自給圏の発想が強い。地域経済学は地域経済の自律を考えるが、自律や自立といえば再生産圏=自給圏を想定するという非現実的な発想にとらわれているように思われる。それだけに、どのスケールで「相当な部分の素材と人間との再生産循環」を考えるのか、具体的に示しえない結果になっている。」(p.66:同書)

「経済が広域化し、国民経済や世界経済のスケールで経済循環が行われるにもかかわらず、一定の限られた範囲で経済を捉え、経済活動の基本的単位として地域経済を捉えるべき根拠は、まずは、人間の共同的生活圏=自律・連帯・環境の自治共同体(行政単位の地方公共団体ではない)としての地域にあると考えるからである。」(p.70:同書)

 「資本主義のもとでの地域は他の地域との交換や交流、相互依存関係の上に成立する。しかし、地域が独自の統合空間として形成されないまま、地域間の交流や相互依存関係の中におかれるとしたら、地域は地域でなくなり(自律性を失い)、他の支配的な地域の影響下にくみこまれることになろう。それゆえ、地域は、経済社会の発展の単位として、社会的再生産を担う経済的活動であれ、政治的・文化的活動であれ、何らかの部門あるいは特定の分野の全国的・国際的な活動の独自の中心地として自らを形成し、全国的・国際的活動の情報交換と知識創造の一つの中心地(たとえば、特定産業首都)としての機能を軸に地域内統合を図る。地域は独自の結節地域として統合的に形成され、同時に、他の地域との必要な交流・交換を行うことが可能になる。この結果、軸となる機能を支えるためのさまざまの経済活動と経済循環(再投資を含む)が、地域内に生まれ、あるいは、他の地域との間に生じる。食糧供給や福祉サービスなど自給性をもつ経済分野とともに、専門化経済分野による独自の中心地としての地域の発展が、独自の地域内地域間の経済循環を生み、半専門・半自給としての地域経済の形成をもたらすのである。」(p.71:同書)

 

【参考文献】
『環境と公害』Dec.1992 Vol-22。
トックヴィル、アレクシス・ドゥ 『旧体制と大革命』。
中村剛治郎『地域政治経済学』有斐閣、2004年。
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by ganpoe | 2009-01-31 12:33 | Social or Economic
2009年 01月 31日

コミュニティカフェの今日的可能性

2005年1月25日


どうするか?
・ どうも企業や、経済の仕組みは、日本のほうがよさそうだ。貧富の格差が少ない。リストラ少ない、など。(いや、もちろん日本の企業は拘束が大きい、長時間労働、とかあるかもしれませんが・・・)
・ でも、「幸せ」か?
・ 本当に必要なもの(こまやかな福祉、医療、そして文化、環境)をつくる・楽しめる経済ではなくて、私的消費製品を目指す経済。


米国は大量消費・廃棄、金融化、軍事化、と問題あるが、「生活」を高めて行く、単に私的な消費生活ではなくて、社会的に共同で消費して行く、要するに地域の豊かさがある(ところもある)。

 
 
→ 単純化して言ってしまえば、日本には、こまやかな企業・生産の制度があるが、こまやかな地域、住民参加・自治・余暇がない。
→ 協同で地域を作って行く、というのが、新たに「つくる」ものではないか。「何」を作っていいのか分からない、という企業があるが、そのような地域的共同消費、これが新たに作って行くものだ。

しかし!

 大企業主導のみでは、地域的共同消費は作りにくい。いわゆる「箱物」「見世物」「宣伝」になりやすい。それからやはり大企業は世界的、少なくとも全国的視野を持って動くので、一つの地域を置いてほかに移動する可能性もある。そういう大企業の国際的企業戦略の中で、どうやって一つの地域が自らの生活、文化、環境、仕事、の必要を認めさせていくか、という難しい問題がある。

 それに、町を作って行く、村を興して行く、という場合は、生活上(仕事も含めて)の必要から、住民が参加していく。彼らが、少しずつ丁寧に改良して行く、「修理」していく、という継続的な手入れ、創意、が欠かせない。
 
 人々は売る立場では弱い。たとえば、仕事を企業に買ってもらう、雇ってもらう立場だと弱い。企業に要望を入れにくい。たとえ良心的企業であっても、企業の論理が生活・地域を支配しがちである。

 極端に言えば「自分の企業が軍事技術を開発している。戦争には反対だけど、自分がクビになると困るので、企業批判はやめてほしい」というようなことになってしまう。

1。

起業して自らを自ら雇う、自らに売り込む。自分の可能性を自分で買う。




といっても、一人では難しいから、みんながアソシエートして(共同出資、情報交換、異業種交流、など)、地域企業群興し。
   

2。


買う立場なら強い。
トラスト運動、社会的責任投資。
→ でも私的な消費では、単に広告、価格に踊らされる消費者である場合が多い。倫理的な買い物・投資をしよう、といっても、普通の人はあまりのってこないだろう。少しずつ変化は見られるが、やはり限界がある。

 しかし、社会的、あるいは、地域的共同消費ならどうか。

 地域を作る、というのは別に倫理的である必要はない、地域の利益を追う、ということでいい。しかし、私的利益のみでなく、協同的である事が絶対必要。

 (地域というのは協同体である。必要なものをそれぞれが私的に所有するのではなくて、協同で保持して、時々に利用するのが地域である。たとえば、水道管を一軒一軒引いていたら大変なことになるが、みんなで共同利用すれば、一本でよい。このように出来る限り「協同」にしていけば社会的な無駄も省けていき、その分生活を楽しむ暇も増えるし、経済的にも能率がよくなる)

 しかし、その前に、そういう「地域協同体」というつながり、アソシエーションが形成されていっている必要がある。お互いに不信感があり、また住民に協同していこうというやる気がなければ、地域の発展は望めない。

 そのようなつながりを作る場所の一つとしてコミュニティカフェがある。そこには、あまり産業的なつながりはないかもしれないが、地域の文化、食生活を作って行こう、という関心が含まれるので、文化的・自然環境的な地域連帯を形成して行く上では、非常に有効である。

ところで...

 地域経済活性化のために大規模店舗、工場、レジャー施設などを誘致、建設する計画が良く立つが、環境破壊、大規模資源消費、渋滞の発生などを考慮に入れると、どれほど地域の利益になるか分からない。追加のインフラ整備のための公共支出が大きすぎて、地域に対する経済負担はかえって多くなる可能性もある。

 また重要なこととして、営業、生産の末端が地域に来ても、地域内に残る付加価値も少なく、どちらかというと単純な仕事が増えるだけで、研究開発、経営本部、本社がないと、高度な技術者、知識労働、の雇用がなく、そのような人物は東京(都心)に流出する結果となる。

 要するに頭脳がなく、肉体労働のようなものだけが地域に残ることになる。その場合、創造的に地域産業を起こして行く可能性が少なくなる。もちろん、工場などで積極的に技術を学んで、それを生かして起業をしていく、という可能性もある。

 また大企業は垂直的に地域経済も支配しようとする。よって、技術開発・情報などを地域多企業間で伝播させて行く、という地域発展を目指さず、地域企業間を分断させて、大企業との二方向関係だけ(要するに親企業の言うことを聞く下請け)を確立しようとする。つまり、地域内の中小企業が水平的に交流・交換して、その多様性の交流の中から新たな地域産業が生まれてくる、というような好循環の発展が生まれにくい。

 また、住民参加を通した地域内の共同消費、これへの貢献、連携もあまり積極的でなく、どちらかというと企業の都合がいいような交通体系、行政の支援(減税など)を求める。

 とはいえ、まったく大企業に頼らない、というのも多くの場合、非現実的である。
 
 大企業と、地域中小企業の連携、それから、地域住民の運動・参加、これらの兼ね合いをどう作って行くか、が鍵となる。それはそれぞれの地域のケースバイケース、であり、実践的なものである。他地域のモデルケースなどの検索とともに、地域での創意工夫が求められる。

 

【参考文献】
宮本憲一『経済大国(増補版)・昭和の歴史10』小学館
宮本憲一・中村剛治郎・横田茂編著『地域経済学』有斐閣
中村剛治郎『地域政治経済学』有斐閣
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by ganpoe | 2009-01-31 12:32 | Social or Economic
2009年 01月 31日

日本と米国の経済関係

2004年12月25日



 まず、現代のわれわれがおかれている経済的、政治的な状況。これを理解するために簡単に戦後の経済構造を振り返ってみましょう。もちろん、そのためには、アジア諸国、そしてラテンアメリカ、アフリカ、ヨーロッパなどとの関係も考えなければいけないのですが、ここは論点を明確にするために日米の関係に限定して見てみます。

 まず、日本の高度成長があった。これは欧米から技術ライセンスを得ながら、それを積極的な(過剰な)設備投資で、どんどん技術を改良、生産方式を改良して行くことで成長していったからですね。

 ところで、たくさん設備投資が出来た、というのは、その分、労働者にお金が配分されなかった、ということでもあります。市場で稼いだお金、あるいは銀行から借りたお金で、労働者に払って、消費者市場を拡大する、のではなく、企業の設備を向上させるために使った。その結果が、企業だけが立派な設備で、労働者の家、生活基盤は貧しくみすぼらしいまま。それどころか、企業からの公害垂れ流しで健康も害されるという始末。というわけです。

 さて、日本製品が外国にどんどん輸出されて黒字を稼ぐようになったのは本当ですが、実質的な成長を支えたのは、設備投資。よい製品を作ったから貿易も伸びた、というのが本当のところで、そのよい製品を作ったのが設備投資。統計的にもそれは現れています。もちろん、国内が不況のときに減少する需要をカバーするために外国への輸出がセーフティネットとして役立ったわけですが。

 それを支えたのが貯蓄率の高さですね。この貯蓄を基にして、土地を担保にして、企業は借りまくった。それをどんどん投資して、設備を入れ替えて行く。だから、日本の工場はロボットを早く採用したし(そこには長期雇用を得た労組が協力的だった、ということもある)担保とされた土地の値段はどんどん高いままで動いた。

 こういう構造がある意味現在も続いていますね。

 ただ、間にバブルがあった。これは基本的に赤字のアメリカを助けるために日本の官僚が選択してとった政策のためですね。内需拡大、と称してリゾート開発、とか都市再開発とかムチャな公共投資をする。公定歩合を下げた結果、利子率が低くなり、銀行が投機的に融資するようにした。これが、設備投資中心の日本の経済構造と絡んでいびつなことになった。生活環境は改善しないのに、商業空間だけが異常に発展していった。

 で、バブル破裂。これで、担保の土地の値段が下がった。それで、設備投資を続けられなくなった。過剰設備も抱えていたし。で、何も売れそうもないので、何を作ればいいかも分からなくなった。だから、労働者への分配率は高まっています。これは別にたくさん給料を払うようになったから、というわけではなく、企業が設備投資に消極的なため、その率が低くなり、相対的に賃金への分配率が高くなった、ということです。
 
 90年代アメリカは発展した、といいますが、基本的に医療関係と軍事支出が公共支出の重要なものとしてありますね。インターネットなんかももともと軍事防衛技術として発展したものです。高度な技術がある、といってもシリコンバレーなんてほとんど軍事支出のおかげでもっている、というか、民事で失敗しても確実に軍事需要を取れる、と思っているから、積極的にベンチャーやってるわけですね。医療技術への公共投資は当然バイオテクノロジーの発達に結びつきます。

 日本の公共支出の場合は基本は土木だから、そんなIT技術、とかの話ではないですね。その代わり、必要もないのに、道路を作ったり、空港を作ったりして自然破壊をしたがる傾向はあります。

 で、アメリカの問題としては、やはり基本的な労働者の能力がうまく活用されていない、というか育て上げてないですね。技術者みたいのには結構優秀な人がいるのですが、生産ライン、現場がどうしても弱いんですね。だから、機械製造業などだと日本のほうが強い、ということになってしまう。

 だから、アメリカ経済が持っているのは、基本的に軍事と金融です。後は、大学制度が開放的なので、世界中から優秀な頭脳が集まる。これも重要ですね。ブッシュさんの世界的に不人気な政策はそういう流れを止めてしまうんじゃないか、という危惧が米国内からも出ています、ちなみに。

 さて、アメリカの公共支出ですが、これは税金から集めるよりも、国が借金をすることで、つまり国債を発行することで埋めよう、という傾向があります。その国債を誰が買っているか、というと、高貯蓄で金はありながら国内で投資、融資をあまりしない日本。それから対米の貿易黒字が拡大している中国、ですね。まあそれで支えられたアメリカの政府の財政、軍事力によって世界で戦争しているのですから、日本の貯金も罪なものです。
 
 では、ちょっとチャート的にまとめてみましょう。

戦後の日米経済関係
●アメリカ 先進国
 
古くなった技術・情報

技術をライセンスで売ってもうける。それで利潤が確保され、「改善」「改良」が進まなかった。(単純労働に根ざした大量生産方式。規格品を大量に売る。)

「豊かな生活」大量生産・大量消費
   
●日本 戦後の荒廃
   
技術ライセンス・免許購入・「改良」「改善」

それを支えた高貯蓄

大企業では生涯雇用と引き換えに労働者の一企業内多能工化。技術を学ぶ。

最終消費(雇用者所得)より企業の設備投資(営業余剰)にお金が回る構造。

営業利潤GNP比42%(1970)ちなみにアメリカ、GNP比22%(1970年)
→ つまり「投資が投資を生む」
 
常に新技術、新設備を導入して生産効率を高めていった。
将来の成長を見越して、企業が作ったものを企業が買う。
逆に言えば、常に借金して設備に投資。借金しているから止まらない高度成長。(銀行からの間接金融)
高技能に支えられた製品
   
●アメリカ
   

特にベトナム戦争後、国防費の拡大。最新技術の開発(コンピューター、インターネット、バイオテクノロジーなど、国防上の必要性から発展)
→ つまり、最終消費と国防という公共支出に頼る経済。
その結果、貿易赤字、財政赤字
   
そして1980年代を迎え、どうなったか?
日米貿易摩擦。1985年、プラザ合意。
円高と日本の内需拡大。
公定歩合下げ止め。無節操な土地、株などへの投機。
   
→ バブル、バブル、バブル、破裂
   
バブル後の日米経済関係
   
●日本
   
バブル崩壊。

不良債権の増加。
   
→ 土地」「株」を保有している企業、担保・含み資産にして銀行から借金をして設備投資という高度成長方式が困難に。
(トヨタなどの自己資金を中心とした健全財務の会社は生き残る)
→ 証券会社だけでなく、銀行が危機的状態に。
 
預金はたくさんあるが、融資が出来ない状況に。
自己資本比率改善のために、融資ではなく債券を買う。
日本政府の債券。(公共支出)
米国債の購入
   
●USA
   
IT技術

旧東欧・中国・インドなどからの優秀な学生が留学・米国籍得て、技術開発。

シリコン・バレーなどにおいて地域的連帯からスピンオフ的に新企業が続出。
   
医療技術・国防への政府支出による安定性が新企業創出のリスクを部分的に回避する。

国防費に行く国債発行続く。それを支える日本の資金。
   
●日本
   
産業空洞化。アジア諸国へ工場移動。(これは80年代からのアジアでの経済成長の一因)

縮小する国内市場の代わりに欧米市場へ。

しかし高度な技術を持つ中小納入業者の存在から日本国内に工場を設立するケースも。

「何を作れば儲かるのかわからない。」積極的な投資意欲の減退。
   
●USA
   
金融経済の成長。金融の自由化。年金の自己責任制。ヘッジファンド、年金基金。

短期的収益、株価拡大を企業の最重要目標に。

M&Aを利用した企業成長。

経営者に「リストラ」を敢行した見返りとして過剰な給与。

投資・投機先を求めて海外市場へ。「グローバル・スタンダード」と称して米国式企業構造、市場開放を強制。

アメリカに於けるバブル発生。崩壊。(→日本の資金が今度は中国でバブル?)
   
●日本
   
産業の金融化。グローバル化、自由化、と称した弱肉強食の経済へ
→ それへの反発から保守派の台頭。
   
アメリカのグローバル化に反発して、テロ。(ガンジー主義ではなくて、暴力的革命の幻想)
そして、米国市場を、軍事支出を支える日本・中国の米国債購入。
   

続く


【参考文献】
宮本憲一『経済大国(増補版)・昭和の歴史10』小学館
ロナルド・ドーア『日本型資本主義と市場主義の衝突』東洋経済新報社
宮本憲一・中村剛治郎・横田茂編著『地域経済学』有斐閣
中村剛治郎『地域政治経済学』有斐閣
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by ganpoe | 2009-01-31 12:31 | Social or Economic
2009年 01月 31日

二元対立思考法を抜けて、中間領域へ

2004年11月12日



 大げさなタイトルを立ててしまいましたが、要するに、相反する二つのものを対にして考えてしまうやり方。これが染み付いてしまっているみたいなんで、これを一つ一つ取り除いてしまえ、という主張なわけです。

 たとえば、正−反、たとえば、高−低、たとえば、黒−白。こういう反発、敵対関係はよくない。黒白、といわれたら黄色人種と呼ばれる人たちはどうしたらいいんでしょう。もちろん、ある程度物事を単純化して、抽象化して考えることは必要なこともあるのですが、そのときは、単純化した、ということを意識して、いつでももう一度そういうカッコ入れをはずして、現実の複雑さを見つめる必要があります。
人(個人) 神
国家 無国家主義(アナーキズム)
資本主義 社会主義
自由 平等
個人の権利 市民の義務

 と考えているから、どっちつかずになってしまう。無国家主義ではだめだ。無秩序が支配するだけだ。あるいは、社会主義ではだめだ。自由がなくなる。人々の創意がなくなる。やっぱり国家と資本主義を進めるしかない、とか。なぜって、資本主義は貨幣と市場によって人々の自由、なんらかの必要への欲求を達成させてくれるし、国家はそういう資本主義を保障する。やはり抜かせない。いやいや、しかし、資本と国家があると世界的な問題、戦争から貧困・環境問題、これが深刻になっていく。どうすればいいんだ!・・・と、いつまでも回答が出ない。

 あるいは、ほかにもこんな二元論。「貨幣を使わないと信用できず交換できない」←→「貨幣なしでお互いに信頼して贈り物をするようにしよう」。
 あるいは、「権力がないと世界はまとまらない」←→「権力はしかし腐敗する」とかね。

 ミドルグラウンド。中間領域というものがあるでしょう。何か「言葉」で考えるたびに、突然自分の活動圏(現実)を離れて飛んでしまう。たとえば、「世界」と考えれば、もう世界中いけてしまう。「国家」と考えたら、それを変えなければ、と思う。でも、現実ではとても自分の手には届かないことを知って、失望する。

 何かを行動する、といってもいきなり世界全体を変革するような行動をそれぞれが取れ、といっても無理ですね。もちろん、世界的、そして歴史的な視点はちゃんと頭に入れておかなくちゃ。でも行動は、ある地域で深く長く、いろんなネットワークを作りながら、という風でしかできません。Think Globally, Act Locally! ってスローガンがありましたね。人が実際に行動するには、ある枠組み、容器、みたいなものがあります。少なくとも、そういう空間的な枠が。頭で考えるときには枠をはずして、抽象的に物を捕らえてしまいますが、実際の行動に移るときは、そのような容器に戻らなくてはいけない。いや、世界の動きを分析するときも、たとえ大企業でもそういう空間的な枠組みの中で動くのだから、考えるときもこの視点が必要です。

 世界的に民主主義を成り立たせる、共和的にする、もいいですが、それぞれの地域で自治ができるようにならなかったら、そもそも始まりません。ここで「地域」といってるのは、「国」と違いますよ。これも「市民」とか「市民社会」とか言いますが、それだと空間的な面がまた見えなくなってしまう。市民と国家、とか、市民と企業、とかの二元論になってしまう。

 地域で政治、民主主義を考えるというのはよくありますが、実は、では地域での「自治的」経済、というのをなぜきちんと考えようとしないのでしょう。そのような地域自治を可能にできるような経済構造、ネットワークがない限り、政治的な自治は長続きしないものです。だからそこには市民や企業、あるいは地方自治体、国家の出先機関、などが入ってきます。もちろん、外の地域、企業などとの関係も入ってきます。
 
 たとえば日本語で「世間」という。世界、個人、あるいは家庭、ではなくてある意味中間領域としてのおかしな「世間」。で、世間ってのは大体自分が見聞き、活動し、会えるくらいの範囲をいう。もちろん、会う人がほかのところから来ている可能性は大有りだから、その範囲は伸縮できる。実は僕はこの「世間」ってのが嫌いなのだが、「世間体を気にして」ね(笑)。でもそれはおいといて、こういう活動領域、という範囲で考えることはできないのかな。と思う。そうすると全体と個人、とかの二元的思考で矛盾に陥ってしまうようなことから逃れることもできるのではないか、と思う。

 といっても、特に現代はメディアが発展しているから、この「世間」ってのもしょっちゅう「世界」から影響を受けるということは重要です。それから、やはり僕みたいに世間を嫌がる、自由を求める、というのは人間の欲求としてある。だから、そういう世間の中には「自由な個人」がある、としなければならない。

 こうすると普通に日本語で言う「世間」というのでは合わないから、何かほかの言葉がいいんですけどね。トックヴィルは民主主義を支える重要なものとして、「自由な個人の共同体」としての地域自治、ということを言いました。こういう言葉っていいね。いつか前に「全人的な没入」としての共同体とアソシエーションの違いを書きましたが、「自由な個人の共同体」というのは、そういう農村共同体みたいなのを超えて行く(トランスして行く)感じがある。

 自由な個人、と、共同体、というのは矛盾してるみたいに聞こえるけどね。この二つが一緒になってるのがいいんだ。自由主義、というのは個人主義、個人の権利について考えるんだけど、共和主義というのは政治アソシエーションの一員、市民であること、Citizenshipということの義務みたいなのを考えてるといいます。「自由」と「義務」なんていうとまた二元論みたいになっちゃうけどね。

 「自由な個人の共同体」としての地域自治。
 
 こういう中間領域を考えながら、世界(グローバル)、あるいは国家(マクロ)と、個人・企業・家計(ミクロ)との関係を計りながら、今度は「経済」というものを見ていったらどうなるだろう。ここに資本主義の、国家の矛盾、しかしそれらが持つ役割を捨て去らないで、改変して行くヒントが見えてくるんじゃないかな。


【参考文献】
パットナム『哲学する民主主義——伝統と改革の市民的構造』河田潤一訳、NTT出版
トックヴィル『アメリカの民主主義』
加茂利男『都市の政治学』自治体研究社
柄谷行人『トランスクリティーク』岩波書店
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by ganpoe | 2009-01-31 12:30 | Social or Economic
2009年 01月 31日

剰余価値と必要の社会・経済

2004年10月8日


 今の世の中を変えたい、もっと良く?よろしい。しかし、どんな風に?いったい、何が本当に必要なことなんだろう?

 たとえば、イデオロギー的に資本主義というのがだめだ、資本の動きを止めるんだ、というような意見があります。たとえば、お金を投資したら、それに見合った、いやその投資額より多いお金を回収できなければ、商売になりません。つまり(お金)−(投資されたもの)−(より多くのお金)が成り立たなければいけません。

 もちろん投資するのは、人類にとって必要であるもの、だから消費されるものを作るためのはずですから、そういう「目的」のためには何もより多くのお金を回収する必要はありません。必要なものが作られればいいだけだからです。

 しかし、もしより少ないお金しか返ってこなかったら、そういう事業を始めた人は赤字になって苦しいことになってしまいます。だから、私的に事業を行う限り、それぞれの事業でお金を儲けようとするのです。そうして剰余が出てくるのが必然的になります。「必要」でないものを作ったり、あるいは必要なものが十分行き届かなくなるようになったりします。「目的」と「手段」がどうしても入れ替わってしまう。
 
 ところで、この剰余分は、労働者が共同して行った労働の成果であるから、本来労働者の間で分配すべきである。こういう思想があります。しかし、資本主義は、その分の成果を労働ではなくお金を出した資本家のもの、とする。これを労働者からの搾取、といい、それをなくすことを目指した運動があります。プルードンなどのアナーキスト、オーウェンなどの協同組合運動、また労働組合、そのほか社会主義運動などといわれているものです。

 それに対して、たとえば、現在の日本では、この剰余分は資本家、大株主、などに行くのではなく、それぞれの会社に据え置かれているんだ。で、会社、というのはだから株主(本来、会社を所有しているはずの人たち)からある程度切り離されていて、いわば、労働者の共同体となっている。だから、その意味で剰余が労働者の下に帰属している。だからこれですでに資本主義は終わっているんだ、脱資本主義なんだ、というような意見があります。

 たとえば、マルクスという資本分析を行った人も、『資本論』の中で、株式制度が発展して行くと、その株式の持ち主がだんだん私的な資本家ではなくて、社会的な共有というようなものになっていくんだ、そうすると、労働者、生産者はそれぞれの社会の「必要」に対応して労働する、生産する、という一種の機能に専念できるようになる。私的個人の利潤追求のためではなく。これが資本主義が脱却されて行く、ということなんだ、と言っています。(資本論、第三巻、第27 章)

 これは重要な指摘です。しかし、やはり現在の日本を見て、どうもそんな理想的な社会が実現されているように思えない、と感じる方が多いと思います。やはり問題があると思う。

 まず日本の企業について言えば、労働者の共同体としてもその中は縦に権力構造があって、経営者と被雇用者という厳格な格差がある。人事部などの労働者コントロール機構もある。

 それだけでなくて、「資本」を脱却した、というときに、資本家という人格がなくなればすでに資本主義は終わっている、という議論はわかっていない、といえます。「資本」というのは資本家という個人を指すのでなくて、お金−設備−お金、と移り変わって増殖して行く、いわば物、いや物でさえもない社会的に作られた「概念」のことなのです。「概念」なら簡単に取り除けるか、というとそれはたとえば「お金」を抜きに社会を動かして行くのが不可能なように、ほとんど不可能なのです。

 その意味で、たとえひとつの会社内の仕組みが狭義の「資本主義」を超えているように見えたとしても、全体としての企業構造は、「資本」を増殖させ蓄積させて行きます。物の順序としてまず最初に投資しなければならない。それから物が作られ、その後売られて費用が回収される。このように、お金−設備−もっと多くのお金、という資本の増殖過程はほとんど必然的に現れる。その過程で、周りの「人間」社会を、自然をより資本剰余の蓄積にあうように組み替えていきます。

 剰余を得られないと見なされた地域は切り捨てられ過疎化していきます。代わりに原発やら軍事基地など、過密地帯には置けないものを押し付けて行きます。逆に過密地帯では、さらに経済的に有利になるように、古い文化が残された町並みを壊し、安っぽい雑居ビルや高層ビルを作って行きます。市民の憩いの場であった川の上に高速道路が引かれ砂浜は埋め立てられ工場、発電所などが作られて行きます。自然は破壊されます。人々からは周りの人間と交流し必要なときは助け合う、というような心が失われて行きます。より個々の家庭に閉じこもるようなテレビやゲームばかりが発展して行きます。日本だけではありません。世界を巻き込んで起こってくるのです。自然災害や戦争、貧困は第三世界といわれるところに集中して起こってきます。

 これは、個々の会社内ではなく、それらが組み合わさった全体の構造、世界のからくりに「資本」は生きているからです。マルクスや日本脱資本主義論者などの思考回路はとても面白いものです。そして重要です。しかしそれだけでは足りないと思います。どこか欠けているものがあったといえるでしょう。資本主義を脱却するのに「資本」内部の仕組みだけを見ていては足りないのです。会社内部の変革、これは必要です。しかし、資本がうごめいている、その外の社会、自然、そういった容器、これの存在、その動き、作用、これらも見ていなければ根本的な問題は解けません。

 いわゆる剰余価値、剰余を労働者共同体の元に帰属させる、あるいは「所有者」の利潤追求ではなく、労働者・生産者が自分たちの専門に専念できるようにする、というだけでは資本の動きは止まりません。そういう労働者はつまり「会社主義者」であるでしょうから。ならば「会社」という名前を持った資本を、利潤を上げていこうと熱を上げるでしょう。

 そうではない、会社・資本の外にあるもの、自然や文化・人間、それらによって構成される地域、アソシエーション、社会、世界というもの、これらがどうやって現在の「資本の動き」に左右される経済を彼らの「必要」にあわせた経済に組み替えていけるのか、そして、この「必要」と会社内部の変革(たとえばめがねの21のような)をどう結び合わせられるか、これが根本的な問題なのです。

 それに対して、剰余価値を0にする、貨幣を廃棄する、ということをまず目指すのは、人間の「必要」「欲求」を理解していない考えといえます。それは超長期的には実現されるかもしれませんが、現実ではもっと迂回路を取るべきではないでしょうか。

 また、利子がゼロであるLETSという地域通貨を鍵と主張する人もいますが、これも考えすぎで、普通の貨幣も単に売り買いする限りは利子は発生しません。貸し借りする信用の世界で問題は発生するのです。それは原則的に予測不可能な未来への貸し借りですから、どうしても利子が出てきます。特に「必要」(使用価値)に直接根ざしていない利潤を目指した投資なら、不確実性は増します。

 その意味で昨今の自然・人間の復権、地域・社会に根ざした世界的ネットワーク、などの動きは評価されえます。なぜなら人間には「利益への欲望」だけでなく、そのようなものを求める「自然」「必要」「欲求」があるからです。

 しかし、それだけでは足りません。経済の視点を入れなければ。それらと資本・会社主義経済との関係、対抗・協力関係、そして、必要に根ざした経済とは何か、どのような構造に組み替えて行けばいいのか、そしてそのような組み替えは現実の条件に照らし合わせて可能なのか、このようなことを問い、そして理論的に、歴史的に、実証的に明らかにしていかねばなりません。そしてそれを実践する。

【参考文献】
西山忠範『脱資本主義分析——新しい社会の開幕』文真堂
中村剛治郎『地域政治経済学』有斐閣
柄谷行人『ネーションと美学』岩波書店
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by ganpoe | 2009-01-31 12:29 | Social or Economic
2009年 01月 31日

「需要」と「必要」…購買力と生活

2004年7月26日



 前回にもいいましたが、消費者のニーズにぴたりと合わせた生産をする仕組み。こういうものを作れば、無駄な生産もなくなっていくのではないか。こういう考えがあります。

 たとえば、好況、不況の波、というのも、ニーズにぴったり合った生産はできないからですね。少し何かが売れ始めると、それっとばかりに、生産もお金もそこに集中する。利益配分に与ろうと投資が始まり、それが過熱すると「投機」となって、実際の需要とかけ離れてまで過剰投資、過剰生産が始まります。それがふと駄目になってしまうのが、いわゆるバブル破裂、不況、というものです。過剰となった設備を減らすために、工場を閉鎖したり、労働者を解雇、リストラしたりする。

 これが資本主義、というものに付きまとう問題です。ここで被害にあうのは、労働者、あるいは、不況を乗り切れない中小企業、下請企業ばっかりだ、というわけで、これを防ぐ方法として、計画的にニーズと生産を一致させるシステムを作るべきではないか、という案が出たのです。

 しかし、実を言うと、資本家にとっても消費者のニーズをバッチリ読み取ることができる、というのは、これはありがたいわけです。売れ残りが出ない、というのはうれしい。

 そこで資本家、経営者も需要と生産・供給の一致を目指して、実のところ社会主義者なんかよりずっとうまく巧妙な手を考え出してきたのです。

 たとえば、POSシステム(Point-Of-Sales)というシステムです。これはレジにおいて、どの製品がどのくらい売れたか、時間、場所などをすばやく記録して、生産、配送のシステムと連動させよう、というものです。よくコンビニなどにありますね。バーコードを読み込んで、どの商品が売れてるか、在庫が足りなくなったらすばやく小型トラックで運び込む。それを細かく行うことによって、それぞれの場所に溜め込んでる商品量が少なくなって、倉庫のスペースが少なくて済む。廃棄しなくちゃいけない商品の数も少なくなる。つまり在庫コストが減る。

 それだけでなくて、たとえば、ある場所で少し売れ始めた製品があれば、そこに集中的に送り込んでたくさん売る、という方法もできる。最近書籍でヒットするものが多くなっています、それも新書とか、子供のための就職案内とか、少し変わったのが。これはこのPOSシステムを有効に活用したからできたものだといわれています。

 こういういいところずくめのようなPOSシステムですが、細かく配送するために、トラックの交通量が増えて、都心の渋滞、排気ガスの増大などの問題が起き、社会問題にもなりました。業者のほうも問題が起きてから色々改善を図ってきてはいるのですが。

 それはともかく、こういったシステムは中央計画経済なんかよりずっと優れたシステムであることは明らかです。さらに既存の製品だけでなく、新しい商品も確実に売れ、生産量もしっかり管理できるように、様々なマーケティングの方法なども試されてきました。

 大企業などと言っても、結局は、消費者、購買者に頼らなければならないので、この消費者の意見をうまく反映させることによって、経済を変えていくことができるのではないか、という考えもあります。買う立場からの変革、というようなものです。

 しかし、少し考えて見ましょう。今までの議論の中で忘れられていることがあります。

 消費者の意見を反映させる、消費者のニーズに沿った生産・流通を行っていく、というときに考慮されているのは、つまり、お金を持って買えるニーズだけ、購買者のニーズだけなのです。需要の中でも購買力に裏打ちされたもの、専門用語で言えば有効需要だけなのです。

 例えば、とっても大きなニーズがあるのに、購買力を伴わないもの、高齢者や障害者などのニーズなどは、こういった経済システムの中ではうまく流通しません。それだけでなく、例えば、自然環境を守っていく、都市の活力ある文化的環境、これを育てていく、というのも、そもそもそれらは購買力とほとんど関係が無いニーズです。もちろん、ある経済学者は無理やりそれを市場経済システムに入れようとしたりします。自然環境がある地域に住もうとする人たちの需要量を通して、とか。しかし、それはどだい無理な話です。例えば職場が遠いために我慢して自然の無い都心に住んでいる人がいたりしたら、その人たちは自然を欲していない、とみなされてしまいます。もちろん、都心に限らず、郊外の住宅地などでも自然がなくなっているのが現代ですが。

 とにかくこのような購買力と完全には結びついていないニーズ。需要、というより、必要。われわれが生きていく、生活、Life、といったもの。生きる、という根幹にあるニーズ。自然、他者とのアソシエート、そこから生まれる文化、それを享受し、高めていくために、人間と地域、世界と関わり、全身でぶつかり、取り組みあっていきたい、というニーズ。このようなものは今までの経済の仕組みの中においては考慮されておらず、そしてそのような経済を改革しようという思想・運動の構想の中にも欠けていたものです。少なくとも中心的な問題としては考えられていませんでした。しかし、本当はそのような生活、人生、 Lifeの根幹にある必要、これを最大限に充足・発揮できるようにするのが、経済というものの基盤にあるべきものなのではないでしょうか。
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by ganpoe | 2009-01-31 12:28 | Social or Economic
2009年 01月 31日

資本主義を経済的に変える 二つの方法(は無理か?)

2004年7月14日


 資本主義を倫理的に変えようとした人たちは、経済的には、二つのことを主目標としました。

 一つは、利潤を平等に労働者の間に分配すること。市場活動で得た利潤を資本家、つまり工場や会社の持ち主が独占するのはおかしい。労働者には決まった給料だけ払って、たくさん出た利潤は資本家が持っていく、というのではなくて、利潤を平等に労働者の間で、均等に分配しよう、と。これが、例えば労働組合の賃上げ闘争、あるいはボーナス、ストックオプション、などの企業の業績を反映した賞与、などを求めた運動につながりました。
 
 もちろん、企業も労働者のモチベーションをあげるために、そういうのに可能な限り合意したりします。でも、企業、資本家のほうでも理由はあるのです。市場の活動はリスクがある。もしかして赤字になるかもしれない。そのリスクをしょっているからこそ、利潤を手にするのだ。その利潤だって、次の投資のために使うのであって、企業全体の繁栄に貢献するから、と思って内部留保しておくのだ、と。

 でも、赤字になったら、真っ先にリストラされるのは、普通の労働者、勤め人ですから、ちょっとこの理由はおかしいですね。内部留保しておく、というのも、例えば、従業員個人に分配して、その中から、それぞれが企業に対して持つ信頼度によって、例えば社内預金などを通して、会社の必要な資金に出す、という方法だってあるのだから、やはりどこか納得がいかない。

 そんなわけで、こういう資本主義企業の仕組みがどこかおかしいと思った人たちが作ったのが、一般に協同組合、といわれている形ですね。これもいろんな形態があるので、例えば、形としては株式会社とほとんど変わらないけど、勤務しているみんなが出資している、と言うケースもあります。

 ただ、そんな協同組合型のものを作っても、市場で競争しなければならないのは同じですから、結局利潤競争に巻き込まれるだけじゃないか、という批判もある。資本家と労働者、という具合に対立で考えるのではなくて、資金提供者、経営のプロ、現場で活躍する人、というように共同で仕事をしていくように変えるのが筋ではないか、という説もある。

 さて、最初に戻って資本主義を倫理的に変えるためのもう一つの経済的目標は、生産と消費の均衡化。消費者のニーズにぴたりと合わせた生産をする仕組み。こういうものを作ろう、というものでした。

 確かに、消費者のニーズとぴったり合った物を、ぴったり合うだけの量作るなら、無駄も無く、何より、どれだけ売れるか分かっているから、値段も、それぞれが多からず、少なからず、の収入になるように、決めることができる。それぞれがコストや製造方法などを公開すれば、まんべんなくお金がいきわたって、これはいい考えのように思える。

 でも。。。消費者のニーズがどんなもので、どのくらいあるか、というのは前もって分からないものなんだ。

 だって、そうですよね。今、カツどんが食いたい、新しいTシャツが欲しい、と思ったところで、今、欲しいものが今、手に入るためには、その前に誰かが作って用意してくれていなければならない。今食いたい、といって、できるのは半年後です、なんていわれたら、飢えて死んでしまう。半年後にTシャツができたところで、もう冬だから要らない、セーターが欲しい、となってしまう。そうすると、例えば、夏に冬のセーター需要を予測して、あらかじめ作っておく、という形になるしか、手が無い。

 そうすると例えば、予想が外れて、セーターを作りすぎて余ってしまう。売れなくなってしまって、赤字を抱えて倒産してしまう、ということも起きてしまうでしょうし、逆にたくさん需要があったので、すかさず値段を上げる、とか、あるいは、必要な人たち全員にセーターが行き渡らない、ということになってしまう。

 でもあきらめたくない運動家は、この生産と消費の均衡化のために、きちんとした計画があればいいんだ、と考えた。科学的に情報を収集して分析する、頭脳を集めてきちんと計画する。

 そうやって出来たのが、社会主義、というものでした。少なくともソ連型の中央政府計画型、の社会主義。

 でもこれも前にも述べたかもしれませんが、無理がありますよね。そんなになんでも計画できるわけではありませんし、それに中央政府に権力が集まりすぎて、政治的に圧制になったりする。そんなのより、自由が欲しい、というのが当たり前ですね。

(つづく)


<参考文献>
河野健二編「資料フランス初期社会主義」
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by ganpoe | 2009-01-31 12:24 | Social or Economic