地域, 政治, 経済そして音楽・・・浅輪がんぽおのブログ

ganpoe.exblog.jp
ブログトップ
2011年 10月 29日

トランスコミック論文(4)  2.商品交換(貨幣を伴う交換)

トランスコミック論文(3) 強奪と再分配 国家の続き

いよいよ、貨幣論に入りましょう。


2.商品交換(貨幣を伴う交換)
 市場 

 そして、三つ目の第三の交換が、貨幣を伴う交換だ。

 信頼感が深い人同士の間の贈り物の交換と比べると、ほんの少しの信頼しかない人同士で交換しようとするのは、とても難しい。

 まったく信頼がなければ、とても相手を信じれず交換できないか、力づくで奪おうとするだろう。追いはぎのようだ。これはもちろん、暴力による収奪。

 しかし、少しの信頼を持てたらどうだろう。

 たとえば、ある場所では、知らない人たちがお互いが持ち合うものを信頼して交換しよう思う。

 そんな場所を「市場」と呼ぶ。それはたとえば、神のようなものが司る場所で、そこでは人々はまがい物や腐ったものなどを提供しないように心がける。

 そんな場所で、人と交換したいものを、人が交換してくれるようなものを持ち寄る。それは自分本人に取って使用する価値があるのではなくて、他人に取って価値を持つであろうものだから、そのようなものを特に「商品」と呼ぶ。

 市場での交換はどうだっただろう。きっとそれは最初は、商品と商品の交換だったに違いない。物々交換だ。

 しかし、ある人が欲しい商品を持っている人をみつけ、また、その相手の人が欲しがっている商品を偶然にも自分がぴったり持っている、そんな出会いがあるのは、とっても例外的なことに違いない。

 例えば・・・

 10個のリンゴ をもっている。 〜>5個ぐらいの肉片と変えて欲しいなあ。

  ある人を見つけた。5個ぐらいの肉片はあるが、リンゴはまったく要らない。 NG

ある人を見つけた。10個のリンゴを欲しいが、1個の宝石しかない。 NG

  ある人を見つけた。5個ぐらいの肉片を持っているが、10個のリンゴは足りない。20個のリンゴだったら考える。  NG

  ある人を見つけた。10個のリンゴを欲しいが、3個の肉片しかない。 NG
  
 NGカットが多すぎて、いつになっても交換は成立しない・・・

 物々交換は、贈り物の交換なのだが、これが、どんどん知らない相手や、いままでにない慣習を持った人と交換をしようとすると、難しくなっていく。
 
 だから、必ずどんな商品とも交換できるような、そんな商品があればいいな、と人々は考える。
 
 それが貨幣だ。

 貨幣は、例えば、肉片でもいい。どんな商品でも、肉片の数で換算できるとするのだ。
 
 10個のリンゴ = 5個の肉片 
 1個の宝石 = 5個の肉片
 3時間の井戸掘り労働 = 5個の肉片
・ ・・・・ 

 これは、逆も同じになる。

 5個の肉片 = 10個のリンゴ
       = 1個の宝石
       = 3時間の井戸掘り労働
・ ・・・

 つまり5個の肉片があれば、必ずどんな商品とも数は違うが、交換できるようになる。

 それに対して、10個のリンゴ商品があっても、それに5個の肉片貨幣を渡す人がいなければ、10個のリンゴは交換できない。つまり「商品」にさえもならない。自分で無理矢理食べるか(消費するか)、捨ててしまうしか無い。交換できない「商品」には価値がない。

 これが「貨幣」があらゆる商品の中での「王」となる理由だ。

 もちろん、広い社会の間で、いろんな市場で「貨幣」の立場を持つことができるような商品は、それに適したような性質を持っていることが多いだろう。

 それは、数えやすく、腐りにくく(商品としての価値を失ったりしにくい)、そして加工しやすいものの方がいいに違いない。さらに、多くの人が思わず魅了されてしまうような、そんな魔力のあるもの、商品、それは何だろう。

 多くの市場では、それは宝石類であって、特に、鉱物の金や銀、銅が選ばれる。

 貨幣を持っている人は、ほぼ確実に容易にあらゆる「商品」と交換できる。

 でも、それ以外の商品を持っている人は、他人に価値を認めてもらえないと、貨幣と交換できず、つまり、売ることができず、市場に出てきてもそのものは「商品」にさえもなれず、社会的な価値はない。

 だから、貨幣を伴う交換は、交換する同士で、平等ではない。

 圧倒的に貨幣を持つ立場が強く(買う立場)、他の商品を持ってこようとする立場(売る立場)は、いつも「命がけ」で貨幣との交換に望まなければならない。売る立場のひとがいつも買う側の人にぺこぺことしなければならないのは、こんな不平等性があるからだ。

 給料をもらう労働者(「労働力商品」を売る立場)も、給料を払う商人/支配人(「労働力商品」を買う立場)にぺこぺこしてしまう。もしチャンスを逃せば、買う立場の人は平気でほかの売る立場の人に移動してしまう。それを避けようとして売る立場の人は、買おうとしている人に一生懸命ぺこぺこする。
 
 貨幣の立場(買う立場) > 他の商品の立場(売る立場)

 
次章に続く

[PR]

# by ganpoe | 2011-10-29 00:18 | Social or Economic
2011年 10月 18日

ビアトリス・ポッター『消費組合発達史論(英国協同組合運動)』1891年

【参考資料】
Chapter 4: “From Cooperative Commonwealth to Cooperative Democracy: The American Cooperative Ideal, 1880-1940,” by Kathleen Donohue, 115-134: Furlough, Ellen and Carl Strikwerda eds., Consumers against Capitalism? / Consumer Cooperation in Europe, North America, and Japan 1840-1990, New York: Rowman & Littlefield Publishers, INC, 1990.

ビアトリス・ポッター『英国の協同組合運動』1891

118ページより。
「それ以前のイギリスの協同組合思想家と同じ様に、ポッターは社会の生産者たちの存在を高めるものとして協同組合を考えた。しかし、彼女は伝統的な考え方と違っていた。生産者協同組合を否定したからだ。彼女は言う、近代の産業社会では、そのような協同組合にはあまり勝ち目がない。うまく行ったとして、それらはアナクロニスティックで、近代以前のような小さな職人工場のようなレベルに戻るだけである。まずければ、生産者協同組合は、資本主義の競争者たちとほとんど変わらないように労働者と消費者を悪用するだけである。彼女はこう言う「つまり次のことが明らかである。すべての生産者の集合体は、資本家が労働を雇う形であろうと、労働者が資本を買う形態だろうと、あるいは、その二つの形の合わさったようなものであろうと、われわれの共同体の利益とまったく反するものになるだろう。残念ながら生産者として製品を販売する立場である限り、利益追求者にならざるをえない。生産コストと販売価格の間に大きな差額を維持しようとするだろう。」結局、生産者協同組合は、競争力のある資本主義システムの害悪を取り除くのにまったく無力であるということを証明してしまった。(156、167―8ページ)

生産者協同組合の難点を主張したポッターは、アメリカの協同組合思想の主流であった考え方に大きな疑問を投げつけることになった。つまり、消費者協同組合は単なる生産者協同組合の道具のような位置付けでいいのか。もし、生産者協同組合が最終的な到達点でなくなったとしたら、消費者協同組合とはいかなるものであるのか。更に細かく言えば、消費者協同組合がそれ自体価値があるものとして存在できるとすれば、生産者協同組合が持っていたような影響を、それはどう労働者のイデオロギーの中に生み出すことができるのか。Elyのような19世紀初頭の協同組合思想家は、それは無理だと考えていたのであった。しかし、ポッターにとっては、消費協同組合が労働者にとって持ち得る可能性は大である、という判断だったのである。

彼女は次のように記している。「個人個人の生産者がだれも同じ様に、自分の労働のための道具・機械とその生産物を所有できるような社会が、どんなに望まれても達成不可能」なので、労働者は個人個人が失ったものを「協同して取り戻さねばならない。」労働者はすでに労働組合を組織して、集団抗議をするという最初のステップを踏んだ。しかし、労働組合は、生産過程において起きた資本家の不正行為を指摘することしかできないだろう。

それに対して流通過程で起こる資本の不正行為は、彼らの能力を超えている。しかし、産業経済においては、商品市場において起こる搾取は、職場において起こるものと同じくらいひどいのだ。

ポッターは言う、労働者階級が、同時に消費者として、また生産者として組織されてこそ、それが成功するときにのみ、われわれは現在ある利益追求を基にした資本主義システムを変換させ、経済民主主義、一国の商業と製造業のなかに代表自治を創り上げることができるのだ。

流通過程において、労働者階級のメンバーは彼らの消費協同組合をとおして「独占価格を突き崩し、詐欺的な悪品質の商品を暴き出し、そして利益(それは、購買行為と販売行為の間に出てくる剰余である)これを直接、間接的に全体の社会に分配させるような形を作れるのだ」(168―9、218ページ)

このような複数の局面に作られる協同組織はまた、賃金の上昇による所得の損失を販売値段を上げることによって賄おうという資本主義のたくらみを、妨害することができる。労働組合を通して今度は、協同商店の為し得た生活費減少によるデフレを理由にして賃金を下げられるようなことを、防ぐことができる。(ポッターの労働組合と消費者協同組合の合併という案は、ラッサールの賃金鉄則、つまり消費者協同組合による消費物値下げは、賃金下降につながり、結局、意味を持たない、というような意見を完全に塞ぐことになった)

ポッターによれば、消費者協同組合の持ち得る変換力は流通過程のみに限られない。それは生産過程を変革する役割をも務め得る。消費者協同組合は自らが保有する工場に良好な職場条件を作るようにして、それが社会的な影響を持つようにすることができる。また、スウェットショップの様な劣悪な環境で作られた製品を協同商店に置くのを拒否したり、望まれる労働条件を維持しない会社の製品をボイコットすることによって、その影響をイギリス全体に及ぼすことができる。

だから、ポッターはこう結論づける。消費者協同組合は、「政界と同じ様に、産業界において主権を維持するための」車の両輪の一つなのだ。他の一つはもちろん労働組合である。この二つの局面・前線において、消費者として「そして同時に」生産者として、組織することによって、労働者は産業革命によってもたらされた経済的不平等を改善する希望を持つことができる。(193―203)

ポッターの協同組織に対する考えはそれ以前のElyのものを逆転させたといえる。Elyは、生産者協同組合の根本的可能性を強調し、消費者協同組合を軽視した。しかし、ポッターによれば、生産者協同組合は競争と利益追求に依存せねばならず、結局資本主義システムに固く縛られざるをえない。

消費者協同組合こそが資本主義経済への本当のオルタナティブを提出することができる。

それは競争ではなく、民主主義的コントロールに頼って、価格を下げ、質を上げることができる。またそれは私的利潤に頼ったシステムを「それぞれの男女が、自分だけの生活維持や儲けのためではなく、全体的な共同体のために働く」社会を作ることができる。短くいえば、生産者ではなく消費者協同組合こそが、「現在の産業戦争の中から、協同組合原則である『全員はそれぞれのために、それぞれは全員のために』にしっかりと根差した『産業の共和国』を創り上げる」根幹を成すことができる。(204-6、221)

究極的には、ポッターとElyは、なるべき、また可能である社会的政治的秩序に対する考えが違っていたために、協同組合に対するこのような意見の違いが現れてきたのだと思われる。両者とも、産業資本主義の最大の被害者を労働者と判断し、また、それへの対処策を協同組合に求めた。Elyにとっては、この解決策は階級闘争をなくすことによって最上になされると思われた。彼にとっては、生産者協同組合はその中において、生産者自身が資本家に成る事によって、そのような階級差を無くしてしまう。しかし、ポッターは階級闘争は近代産業秩序において、消すことができないような内在的なものであった。消費者協同組合のポッターにとっての魅力は、それがこの階級闘争において労働者が勝利することができる方向を示していることであった。」
[PR]

# by ganpoe | 2011-10-18 01:42 | Social or Economic
2011年 10月 18日

セカイノカラクリ解決編 その1 『消費者の協同』

昔、「セカイノカラクリ解決編 その1 『消費者の協同』」を書き始めたことがある。

これは、生協に注目したものだ。
消費者の協同組合というのは、ビアトリス・ポッター(後のシドニー・ウェッブ妻)の画期的なアイデアだった。

協同組合、つまり、労働者、市民がお金を出し合って、必要なものをつくれば良いんだ。(事業協同組合)
いや、それだけでない、消費者が、生活者が、必要なものを欲しい、という視点から【生活者協同組合】をつくって、それが事業協同組合をリードして行く、そういう形が良いのではないか。

これは、画期的だし、今でも有効な考えだと思う。

「生産=労働の場」ではなくて「生活=消費者の場」 ここでこそ、本当に私たちは強い。
文化の場と言っても良い。
柄谷行人さんや宮台真司さんもよくおっしゃっていますね。

実は、上に上げた記事は、ある生協で、新人教育のテキストとしてつかわれたことがあった。びっくり(笑)。

もう一度、原点に返って考え直そうと思い、また読み直した。

引用しますが、元のところに戻って読んでくださいね。ビアトリス・ポッターちゃんの若い時の顔写真付きだよ!(笑)

===========
投資家ではなくて、事業に直接かかわっている個人個人が協同して事業設備を管理・保有していく。それが協同組合です。しかし単に事業をすれば普通の企業と変わらなくなってしまう。利潤を消費者に還元するべきだ。それが、ビアトリス・ポッターの考えでした。彼女の考えを現代において生かすにはどうしたらいいか。


Beatrice Potter Webb
1858-1943

1 「生産者」協同組合は?

1891 年に彼女は、『英国の協同組合運動(邦題『消費組合発達史論』)』という本を出します。その本で、彼女はそれまで優勢だった「生産」協同組合第一主義に終止符を打ちます。生産協同組合は結局、生産者、つまり、商売する人として、市場で販売して利益を出さねばならない、という逃れようのない条件の下で存在するしかなく、その結果、資本主義の株式企業などと根本的に差が無くなってしまう。そう彼女は言います。もちろんそれは事業的に成功した場合で、成功しなければ、単にアナクロニズムな職人工場のようなレベルに落ちてしまうだろう、と。彼女の文から引用しましょう。

「つまり次のことが明らかである。すべての生産者の集合体は、資本家が労働を雇う形であろうと、労働者が資本を買う形態だろうと、あるいは、その二つの形の合わさったようなものであろうと、われわれの共同体の利益とまったく反するものになるだろう。残念ながら生産者として製品を販売する立場である限り、利益追求者にならざるをえない。生産コストと販売価格の間に大きな差額を維持しようとするだろう。」(原著156頁(215ページ)


これはたとえば、最近、有名なスペインのモンドラゴン協同組合に関して調査したシャリン・カスミアの意見と一致します。(『モンドラゴンの神話』)モンドラゴンの実体も、実は利益主義であって、そのために労働者の権利を十分に保障していない、とか。昔だけでない。今でもそうなのです。それは、生産協同組合の人たちが悪徳だからではありません。多くはとっても心の優しい人たちです。しかし、「生産者」という商売の条件が、どうしてもそういう行為をするようにさせてしまうのです。

その代わり労働者にとって大きな力になるのが、消費協同組合である、とポッターは主張します。というのは、消費の場においては、労働者は購買力を持った、経済行動の主人公となって現れるからです。貨幣を持っていれば、価格のついたものはすべて手に入れることができます。

しかし、逆に貨幣以外のものに価格をつけたからといって、貨幣に変えられるとは限りません。

たとえば、この目の前にある鉛筆に一本100円、という値札をつけたとしても、それが売れるかどうかは分からないのです。

職探しの場合も同じです。例えば私は時給5000円の価値がある、といくら主張したところで、その値段で誰かが雇ってくれる絶対の保証はありません。逆にあなたのポケットに5000円札が入っていれば、それだけのものを買えるわけです。だから消費の場に立ったときのほうが、労働者は圧倒的に立場が強いのです。

また、商売をするためには売る前に先ず買わなければなりません。原料や、道具、労働力、などです。それらを加工したり、違う場所に輸送したりして、その後その商品が売れた時に初めて商売となるのです。だから、商売を始める前に、いくら儲かるか(あるいはいくら損するか)は、実は分かりません。だから確実に利潤をだそうということも、逆に確実に利潤をゼロにしようということも、難しいのです。

生産者協同組合は、労働者が会社を所有して利潤がゼロになるようにと経営する、ということが目標だったわけですが、ポッターに言わせるとそれは土台無理な注文だったのです。

もし、協同組合の真の目的が「利潤」をどんどん増やそうという欲動を止めることにあるのならば、生産者の立場としては、最初に安く買って(時には品質の悪いものを)それを高く、たくさん売る(不必要に沢山買わせる、要らない付加価値を付ける)という動機がどうしても出てきてしまう。


2 「消費者」協同組合は?

ポッターはここで問います。利潤が出てしまったなら、それは誰が受取るべきなのか。消費者である。消費者にその人の購買高に応じて利潤が配当として回る様にするのが一番いい。それは「ロッチデール協同組合」という最初の消費者協同組合が取った方式なのです。

もしそれぞれの消費者の購買高に応じて配当されるなら、配当を増やそうとすれば、自分が沢山消費するしかない。そうやって自分の購買高を高めるしか。他人に薦めて沢山買わせても、その配当はその他者に行くだけであるから「アムウェイ方式」はない。しかるに、自分の配当を増やすために、沢山浪費するのは本末転倒でしょう。要するに、自分が本当に必要なもの、欲しい物を選んで買うのが一番賢くなります。それがロッチデールという消費組合の取った道であり、ポッターが推奨する唯一の民主的経済のあり方です。

「ロッジデール式消費組合に於いては、各購買者はその購買高に応じてある種の証券——通常は一定金額の打ち印のあるブリキ製のもの——を交付される。そうして、購買者は年四回の決算期末毎にこの証券を提示し、「配当金」Dividendと称されるその期のいわゆる利潤の配当を受取る。」

問題は、しかし、消費組合であっても、全体の経済の中で少数であるにすぎない、ということです。だからこそ、ポッターは、消費者と労働者も協同せねばならない、と説きます。その時にのみ、利益追求を第一に据えた現在の世界のカラクリを変えることができる。

たとえば、労働組合、というのはそれぞれの職場の局面において、処遇改善、より豊かな生活を保証する賃金の上昇のために、働いてきました。しかし、残念ながら、そのような運動が逆にそれぞれの職場において、より高い利益を追求するようにうながしてきた事も確かです。そう、高い利益が上がらなければ、高い給料もありえないからです。

その結果、企業はたとえば公害などを出してもいいからお金を沢山儲ける事に専念します。実際に労働組合も公害問題が起きたりしたとき、企業側について、生活者としての消費者の敵になる場合が多いのです。

しかし、労働者も一度、消費者、という立場になった場合、公害などはどう考えても問題です。だから、消費者としての労働者は消費協同組合をとおして、運動せねばなりません。

このように労働の面だけでなく、消費者協同組合、それから、それらをまとめた事業協同組合、投資協同組合、など様々な局面において、同時に働きかけてこそ「独占価格を打ち壊し、詐欺的な悪品質の商品を明らかにし、そして利益(それは、購買行為と販売行為の間に出てくる剰余である)これを直接、間接的に全体の社会に分配させるような形を作れる」(168—9、218ページ)こうポッターは言います。

しかし、なぜ、消費者協同組合は(たとえば生協)、全体の経済の中で少数で居続けるのか。それは、たとえば組合員にならなければ配当されず、そして組合員になるのは面倒で、それくらいなら近くのスーパーで買ってしまう消費者が多いからです。

しかし、現在のテクノロジーを使えば、消費者に配当する方法をもっと簡素化できると思います。たとえば、ポイントカードというものがあります。これはある意味で、(いやそのまんまですが)それぞれの消費者の購買高を記録するものです。これを応用すれば、消費者への購買高比例式の配当も、割合簡単に出来ると思います。
[PR]

# by ganpoe | 2011-10-18 01:31 | Social or Economic
2011年 10月 07日

トランス・コミック論文 (22?)「生の地域」—内発的な地域と外部からの開発

トランス・コミック論文、突然、最終章の一部に飛びます。
一個、一個、進めていっても、読むのも大変そうですし。

「生の地域」とは何か、生活=いのち=人生、つまりLifeのための地域、そして経済・政治とは何なのか、そういうことを問いたいのです。

トランス・コミック論文の全体像に関しては、以前の「トランスコミック論文 目次」をご覧ください。

===================

  ・・・企業的視点からの社会ニーズへのアプローチは「生活」感が欠けやすい、ということがある。社会ニーズはその地域に住む人々の歴史と生活と文化と自然とのつながりが絡み合っているものであって、それは地域の衣食住の全体を生きている地域の人々自身と結びついてこそ、かなえられるのだ。

 だから、根源的な3種の交換は、現在の国民=国家=資本制から、これからは、地域コミュニティー=各種の地域自治体=協同制の地域経済の内発的発展、のトライアングルに移行していく(トランジションしていく)必要がある。そうでなければ、社会ニーズが適えられる生の質の豊かさは得られず、不平等と環境破壊が進むだろう。

 社会ニーズを最も反映できるところ、それは最も社会に近いところ、生活圏に近いレベル、すなわちそれぞれの地域だ。

 国家レベル、そしてグローバルに広がっていた三つの交換(互酬=国民、収奪再分配=国家、貨幣交換=資本制)を再度「地域」という生活圏から、生の現場から、自然の人間がふれあう場所から逆転して見つめ直す。その時、はじめて「社会ニーズ」が見えてきて、それを達成できる交換の方法が見えてきて、そして「セカイノシュウリ」の仕方が見えてくる。

 もう一度。根源的な3種の交換、「互酬制=集中と再分配=貨幣を用いた市場交換」は、現在の「国民=国家=資本制」から、「地域コミュニティー=各種の地域自治体=協同制の地域経済の内発的発展」のトライアングルに移行していく——そうなるために、どのようなところに可能性があるのだろうか?


「生の地域」—内発的な地域と外部からの開発

 「地域」とはなにか?

 「地域」とは、生活圏であり、自然と人間の死と再生を通じたふれあい、交換の場所である。人間はそこで生まれ、遊び、学び、働き、食べ、飲み、産み、育て、交わり、休み、文化を生み、病んで、回復して、そして死んで行く、そのような場所だ。

 それは人生であり、人生たちの交わりであり、土と水と空気と植物と動物たちが重なり合って育っていく場所だ。

 それを大事に思う地域の人たちが、主体となって地域をコントロールできること。地域の運命に対して、責任を持ち、受け継いでいけるようになること、これが何より大事だ。つまり、自立し自治が出来るということだ。これを「内発的な地域」と呼ぼう。

 それに対して、ある地域を色々なかたちで支配することで利益を得ることが出来る。これを外の人たちがコントロールしようとする、という意味で「外部からの開発」と呼びたい。外部に依存していると言って良い。

  内発的な地域になるのは、3種の交換が国民=国家=資本制で行われている現在のセカイノカラクリの中では、とても困難だ。この中では、ある国家の中ではただ一つの地域に力が集中する傾向があり、外部からの開発になりやすい。

 先に見たように、世界の中でも、ある「中心の地」に力が集中する傾向があり、周辺の地、その他の地は、外部からの開発になりやすい。そのとき、その地域は、外部にコントロールされ、過酷な条件(労働・賃金・環境破壊・様々な社会的な優遇)を飲み込まされることもあるし、何より、その地域自身が「内発的な地域」になろうという意欲をなくし、工夫をなくし、コミュニティが破壊されて、言われるがままの依存的な地域になってしまう。

 実をいうと、それは周辺の/その他の地域に限っただけの話ではない。「中心の地域」も国全体の、世界全体のカラクリの「中心」であるというだけで、その部分を「地域」と見た場合、つまり中心の地の中の「生の地域」はその世界のカラクリによる外部からの開発になってしまっている場合も多い。そのときどうなってしまうかと言うと、そこに住んでいる人たちのそこにある自然の「生の地域」という面が薄れ、中心の大都市・世界都市は多くの場合、交通の過密や、緑にふれあう機会が少ない、貧富の差が激しい、犯罪が多い、歴史的な街区がどんどん破壊され開発されやすい、そんな場所になってしまう。

 つまり、中心の地でも周辺でもその他の地でも、ありとあらゆる「生活圏としての地域」は、外部からの開発、他の国と競争すべき国民の「義務」や巨大な国家の強制や、資本の参入——「セカイノカラクリ」によって、荒らされてしまうことになる。

 そのような「外部からの開発」に対して、自立した「内発的な地域」になるためには、なによりもその地域に住む人たちの意欲、工夫、行動が必要になるし、地域の自治体や色んな社会団体とのつながりも大事になってくる。困難ではあるが、それを目指す以外の道はない。

 そんな中で、地域の人々の「生」から生まれてくる多様なニーズが、一つは個人ニーズとなり、一つは「社会ニーズ」となり、それらをどうやって適えようかという取り組みが、またかえってその地域内の多様な産業や雇用や地域活動の発展を生む。そういった、「生の地域」を支える経済が生まれてくる。

 それは持続可能なもので、人間の自由を支えるもので、生活の質を充実させるものになっていくだろう。新たな産業が生まれることによって地域の経済はさらに多様性と新たな発展の機会を生み出し、循環し深まっていく。

 「地域」を支える経済とはなにか?

 「生の地域」が内発的になるには、3つの交換が、地域の経済の中でどうなっているかで大きく左右される。すでに述べたように、「国民=国家=資本制」のトライアングルから「地域コミュニティー=各種の地域自治体=協同制の地域経済の内発的発展」のトライアングルへの移行がどれほど行われているか、だ。
 
 地域の産業に関しては、主に三つのものが考えられる。

 一つは、地域内の必要なものを適える「地元市場向きの産業」。ある意味、地域での自給自足がまかなえる領域だ。これはとても大事な領域で特に現在のセカイノカラクリの中では、世界的な分業であるほうが効率が良い、自給自足など夢物語として捨てられやすい領域だ。世界貿易に組み込まれたそれぞれの地域は単一のものだけを造る「モノカルチャー」になり、世界的な相互依存関係に飲み込まれやすい。

 しかし、既に述べたように「多様な地域のニーズ」があるからこそ、新たな発想が生まれるし、新たな産業が生まれる。地元市場向きの産業の大事さを現代風に見直さなくてはならない。でも、だからといって理想主義のように「自給自足」のみを目指せばいいということはない。当然他の地域との多様な変化があるつながりもとても重要だ。

 地域の産業の二つ目は他の地域に提供するための「移出産業」だ。一つの地域が得意な産業を周りの地域に提供した方が「規模の経済」が働いてよいこともある。「移出産業」を目指すことによって、やはり外部との競争があるので、新たな生産の方法や、新しい製品を考えだしたりするイノベーションが生まれるという良さもある。

 そして、三つ目は他の地域のものを自分の地域に運ぶ「移入産業」だ。これは輸送や販売などの産業になるが、同時に自分たちの地域のなかの同様の産業が衰退する可能性が生まれる。そんな危険に対して、地域の人の取り組みで、新たに移入されたものを研究して、自分たちの地域の産業を工夫して自らつくり出そうとすることも出来る。

 以上、三つの「地域の産業」のそれぞれの分野において、地域は「内発的な地域」と「外部からの開発」の間で、揺れ動く。ここでもう少し詳しく「内発的な地域」と「外部からの開発」の違いを見てみよう。

 まずは、あたまの違い。

 内発的。経済の変化に対応するために必要な研究開発機能がある。何よりも意思を決定できる、会社でいえば本社があること。マーケティングなども自分たちで出来ること。多種多様な職業が生まれ、頭脳労働と肉体労働が結び合った、有機的な職業構成が出来る。

 外部からの開発。製品は他の地域から運ばれたものを買うだけだし、もし産業があるとしても外部企業の分工場があるだけで、外部企業の本社のいうままに支配されてしまう恐れがある。そして、仕事の内容もあまり熟練が必要もない単純なものが集中してしまうかもしれない。地域の人々の能力が低下してしまう。そしてまた、色々なサービス業 4)の交換物を担う多くの職業も少なくなってしまう。それは例えば、金融であり、財務、法律、研究開発やマーケティングなどである。

 つぎにかねの違い。

 内発的。本社が地域内にあれば、経済の余剰はその地域の中に残るし、落とされるし、新たな発展のための再投資に回すことが出来る。地域の税金は地域の自治体に払われ、地域の様々な社会サービスに回すことも出来る。

 外部からの開発。経済余剰の多くは、他の地域の本社に移ってしまい、税金もその外部に払われて、その他の地域がますます力を増し、自分たちの地域は衰退していく。そのため、たとえば他の地域からの補助金に頼って、自治体のサービスを実行していこうということにまでなってしまう。だから、ゴミ施設でも原子力発電のような危険なものでも受け入れて補助金をもらおうとしてしまう。

 つながりの違い。

 内発的。いろんな関連の産業が発達して、例えば移出産業でもその部品や修理やら何やらを地元の企業にお願いするようになって、広がりを生む。モノやサービスの交換だけでなくて、新しい情報や技術なども交換され、地域の発展が継続するきっかけにもなる。そんな広がりの中で、新しい仕事を生み出そうという意欲を持つ人も育つし、今までと違った、なかった産業や、地域の細かいニーズに対応する産業も、地域の色んなつながりがあるとスムーズに興すことが出来る。

 外部からの開発。地域の他の企業とのつながりは希薄だ。他の地域の主要工場などから発注された個別の部品やらの注文に応えるだけの分工場などがあるだけ。注文があるうちはいいけれど、一度その注文が止まったら、地域の中でその変化に対応することが困難になってしまう。地域のつながりよりも、発注元の大企業の系列のつながりを重視してしまうので、新しい情報や技術やらが地域の中で交換されることも少ない。時代の変化に対応しにくくなるし、新しい世代も大企業に依存するようになるし、それよりもその地域を出て、中心の大都市に移住しようと考える人も多く出てくる。

 あそびの違い。

 内発的。地域のつながりが強いし、お金も地域に落ちるので、あそびも地元でたくさん行う。近くの農村や漁村のおいしい多様な食物を手に入れて、その地域の風味で工夫した色んな料理や飲み物が出来たり、美しい農村・自然の風景を残して楽しもうとする。地域の文化や盛り場を楽しんで、それが新しいお店や職人や芸術家なんかを育て、それがまた刺激になって、産業などのアイデアに結びついたりする。ハイキングやスポーツを楽しむ時間や場所を大事にすることによって、人々の絆も深まり、健康や元気や活力につながる。教育も地域に根ざして、地域の仕組みやニーズなどを早くからつかんで、現場と知識をうまく結びつけた地元愛にあふれたこどもたちが育つだろう。

 外部からの開発。あくまで一つの製造現場にすぎなくて、あまりつながりが必要でないと、交流や接待やなどの必要性もないし、周りの農村や漁村も近くの都市の市場よりも遠くの大都市市場を狙って、単一の作物を効率的に作ろうとしたりする。多様性に欠けた自然は、循環がうまく行かず廃れだしたり、平気で宅地やリゾート開発をして、また、遠くの顧客を相手にしようとする。にぎわいのないシャッター通りが中心街に目立ちだす。買い物は郊外の大手のスーパーやデパートでまかない、地元の名産物を楽しむよりもチェーン店でのファストフードをありがたがるようになる。かくして、どこの地域も同じような風景になって、地域の独自性はますます廃れてしまう。

 このように見てくると、「外部からの開発」より「内発的な地域」の方が良いように見える。しかし、現実は、「外部からの開発」に移行しやすいのだ。

 「内発的な地域」になるためには、現在のセカイノカラクリの元では、常に外部からの進出に備えなければならないし、激しく競争しなければならないし、そのような外部からのカネと権力による誘惑に影響された内部の人たちの間の主導権争いに苦しむことになったりするのだ。その中で、色々工夫やドロドロした付き合いを重ねることは、とても苦労なことで面倒なことだ。

 短期的な視点を取ると「外部からの開発」に頼った方が楽な気が、安定する気がする。統率に依存した方が瞬間的な金銭収入も多くなるかもしれない。「国民=国家=資本制」の元で主に3種の交換がなされているからだ。しかし、その流れは上に見たように「生の場としての地域」が衰退する原因となってしまう。

 そして、「内発的な地域」を目指し、「地域コミュニティー=各種の地域自治体=協同制の地域経済の内発的発展、のトライアングル」に移行していくためのヒントは、多分上に書いたように、あたまとかねとつながりとあそびを転換していくことにあるだろう。

 そこにどこにでも当てはまるような方程式や公式は…残念ながら、ない。

 逆に、それぞれの地域のそれぞれの人と自然と色々な社会的な条件が絡み合い、一人一人、一カ所一カ所で、その独自性を考え、感じて、語り合い、構想を練って、賢く、しかし力強く勇気を持って行動する、し続ける、そういった、それぞれの地域の独自性にしか、解答はない。

 もちろん、そのために、他の地域の成功例や失敗例から学ぶことは出来るし、学ばなくてはいけない。しかし、そのように自分たちであたまとかねとつながりとあそびを工夫していくことが出来るということ、それこそが地域が内発的になり、参加と自治が実現されていく一番大事な条件だ。工夫する力が、「生の地域」の現場にあることだ。

 とはいえ、何度も述べたように(現在では数々の危機に面して、崩壊しつつあるかもしれないが)、3種の交換を元にした「国民=国家=資本制」の全体構造は強い。それでは、内発的な地域を目指すのは、困難なだけではないか? 

 実際の人間社会では、資本の動き以外に、さまざまの政治・社会的システムが関わりあっている。

 企業と国家、地方自治体、社会的組織、NPO、文化団体、国際組織、その他、その他。これらの絡まりが、どのように動いているか、そのような「現実の運動」の関わりを見つめる必要がある。

 例えば、同じ資本の動きであっても、それが社会を組み替える密度と程度は国・地域によって違う。

 例えば、ある国では、会社の中では、伝統的共同体のような形が残っていたりする。しかし、全体的な空間構造においては、自然・文化・生活などを破壊して資本の論理(利潤追求)が社会に浸透している。しかし、それは「文化」の違いだから仕方ない、というよりもちょっとした「制度」の違いで、それは主体的に動くことによって変えられるのではないか、と考えた方がいいだろう。

 例えば、前に述べた株式会社のシステムにも、例えば、株主の議決権は持ち株数による分配ではなくて、協同組合みたいに一人一票にしたらどうなるだろうか?これはちょっとした「制度」の違いで出来ることだ。ドイツでは、会社の役員会議の半数は住民代表が入るという。これも企業の社会的責任を意識した「制度」的変更で出来たことだ。

 エネルギーでいえば、発電と送電と配電が一つの会社で行われるのか、あるいは分離させるのか、これも制度的な変更だし、再生可能エネルギーで発電したものをより高く買うのか、これも制度で決定できる。

 建築などにおいても、たとえば、中古建築の価値を決めるのに、そのものを今作り替えたらいくらするか、という基準ではなく、何年たったらだんだん価値が減っていく、という基準で行うとどうだろう。これはどんどん立て替えるのに便利な制度だ。しかし、最初にしっかり作って、何年たってもその価値が認められるようなものを作ろう、という動機を持たせるには難がある。

 建築物を今作り替えたらどうなるかと言う基準にすると、最初にちゃんとしたものをつくる動機が生まれる。

 たとえば、断熱を大切にした長い間つかっていて節電にも役立つような費用を懸けた建物を造ったり、古い町並みを残したり、農村風景が都市のすぐ近郊に広がるようにしたりなどする。

 これは、狭い意味での経済成長という面から言うと、余計なコストのようだが、それをわざわざ残している。中古建築の価値は、現代作り替えたらいくらか、という基準で測られる。古く、しっかり造られた建築が残されて、内装だけ近代化しよう、という動機が働くのだ。こんな制度が成り立つにはさまざまな市民の活動があったからでもある。そして、それによって古い町並みを求めた観光業が非常に大きなものとして発展することもあろう。

 このような「制度的な違い」によって、おなじ「国民=国家=資本制」が支配している中でも、違いが現れる。市民の住民の「必要性」への要求・運動が国民=国家=資本制の動きを変えているから、地域によって違った制度が生まれるのだ。完全に押さえ込んでいるのではない。しかし、市民の運動が動きを「調整」「制御」できないことはないのだ。
[PR]

# by ganpoe | 2011-10-07 23:50 | Social or Economic
2011年 10月 06日

トランスコミック論文(3) 強奪と再分配 国家

序論 「自然と人間の交換——人間と人間の交換」 、「贈り物の交換」の続き


強奪と再分配

 暴力による収奪。

 自然も暴力的な猛威を振るうし、人間も暴力的に自然を切り開くし、また人間同士の歴史も暴力による収奪で溢れている。

 しかし、これは「交換」だろうか?どちらか一方からの一方的な収奪では、確かに交換とは言えない。でも、暴力で収奪し続けていたら、相手が滅んでしまうので、いつまでも続けることはできない。または、逆に相手が反乱を起こし、反対に暴力的に倒されてしまうかもしれない。

 そんな経験をした収奪者は、暴力で得たものを、少しずつ分け与えて、返していこうと考えた。たとえば、暴力であるムラを支配した王は、そのムラを、他の外敵から守ったりする。またそのムラの水路や道路などを整備してあげたりする。

 もっと大事なことがある。共同体間の第一の交換(贈り物)では、他の共同体との関係も第一の交換で行おうとする。だから、その二つの共同体の間の関係は、あまり変化がない。しかし、他の共同体より上に立とうと「戦争」をするとき、「共同体」のなかでも「戦争ができる共同体」をつくろうとする。戦争をできるような戦力や、交通体系や指揮形態や、そういうものを整備し始める。兵士は市民の代表が集まることから始まり、次第に、傭兵をお金で雇ったり、最終的には、常備軍を整備する。常備軍は不断に戦争をするが、しかし、準備の期間もある。共同体全体が「富国強兵」に向け、体系化され整理されていく。王(共同体権力の代表者)と官僚も整えられていく。つまり「外」の他の共同体との暴力による強奪が、その共同内の「なか」の強奪システムにもつながるのだ。

 こんな暴力による収奪と、それを真ん中から周りに少しずつ分けあたえる、と言う一種不平等な「交換」が始まる。暴力による収奪が根っこにある。しかし、それを分け与えるという交換は、第1の贈り物の交換に似てくる。あるいは、似ているから奪われる人たちが、それは贈り物交換であると見なして、この第二の収奪=再分配という交換を受け入れるようになるのだ。しかし、贈り物の交換は例えば、二人の間で行える。二人が同意すればいいからだ。ところが、この第二の交換は二人より多い共同体の間での交換であることを前提とする。たとえば、二人の間で一人が強奪していた場合、その強奪したものをその相手に戻すことは通常ない。しかし、もっと多くの共同体から強奪しているとしたら、その強奪をし続けるためには、「再分配」をする必要性が出てくる。第二の交換は、共同体、集団を前提している。(貨幣の交換も「信用」を与える共同体を前提する。後に述べたい。)そして、これが大規模になったのが「国家」だ。

 多くの人々が集まり、大規模に自然とかかわり合わなければ行けなくなったとき、そこにはどうしても、社会的に共同して行わなければいけない、いろいろな仕事が生まれる。

 既にあげたような、外敵から守る、水路や道路などの交通を整備する、そして、不埒なものを裁く警察/法の整備、学校、保育所、病院、福祉施設、いろいろだ。

 こんな社会的な共同の仕事に、このへんてこな「暴力収奪=再分け合い」という交換は、役に立つことが多い。

 現在の「国家」は税金を取る。税金を払うのを拒否したら、強制されるし、それも拒否したら、牢屋に入れられる。だからこれは実は暴力による収奪だ。また、税金の量は(強奪できる量は)する相手の余剰能力による。経済利潤が少なければ、特に所得にかかる所得税の量は少なくなってしまう。逆に消費の段階でかかる税金は、基本的に人々が使う消費量は最低ラインがあるので、比較的安定している。この理由で、国家は少しずつ所得税から消費税に重心を移そうとする。

 それはともかく、しかし、その税金できちんと国民の便宜になるようなことをしているなら、それは再分け合いにつながっている。一人一人の人間ではできないようないろんな社会的な共同の仕事を公正にしていると思われたら、こういうシステムは存在し続ける。

 でも、それが本当に公正であるためには、だから「国家」が恣意的でなく、ルールに従っていると思われることが必要になる。

 それはひとつは、「国家」がどういう約束で、税金を預かり、それを再分け合いをするか、人々に誓う「憲法」である。

 そして、そのような法に国家が従っているかを市民が自由に訴えることができる裁判所でもある。

 なによりも、どういう方法で税を預かり再分け合いしているかをおおっぴらにする情報公開である。

 つまり、以上のようなさまざまな仕組みで人々に、公正に政治を行っている、と納得してもらう、という必死の説得が必要なのである。ある意味、命がけの説得だ。説得に失敗したら、国家が転覆されるかもしれないし、また、他の国家に攻め入られ滅ぼされるかもしれない。

 そしてこの「命がけの説得」による「公正」=Justiceは、第1の交換、つまり等価のものを贈り物しあっていると思わせられるかどうか、というところにかかっているのだ。

次章に続く

[PR]

# by ganpoe | 2011-10-06 23:15 | Social or Economic
2011年 10月 06日

トランスコミック論文(2) 贈り物の交換

序論 「自然と人間の交換——人間と人間の交換」 の続き

贈り物の交換 

 「贈り物」の交換は分かりやすく見える。まず、「信頼関係」「互助関係」があるもの同士での交換がある。例えば家族や友人たちの間での。同じムラやマチの人たちの間での。

 でも、もしかすると逆かもしれない。「信頼関係」を「互助関係」をつくり出すために、人々は贈り物を交換するのかもしれない。

 贈り物を与えるということは、それに対して同じように贈り物を与えなければならない、という負い目を人に与える。

 それはある地点から、あたたかい、まごころのこもった贈り物交換から、信頼/同質であるように強制するような交換になってしまうかもしれない。ある人がたくさんの贈り物をしたら、その人を村の長というようにみんなが敬わないといけなくなるかもしれない。

 逆に村の長に取っては、いつまでも贈り物を願ってくる他の民に困惑し、ついに自分の持ち物が無くなってしまうほど贈り物をねだられるかもしれない。

 それ以上に、贈り物が極端に行き「命」さえも贈ってしまうことが、例えば戦争で名誉の戦死をめざしたり、神への生け贄という形で差し出すようなことまでありえる。ついには相手がこれだけ自分のものを奪ったのだから、同じ量のものを奪う、という「負の贈り物」の平等な交換もある。だから、「贈り物」も暖かく良いものだけではない。

 贈り物を交換し合う共同体に、面倒さを感じ、自由でないと感じるひともでてくるだろう。

 贈り物の交換は素晴らしいものに見えるが、そこにある程度の「自由」を入れないと窮屈になってしまうだろう。贈り物を返さない、みんなと違う、だから村八分、という極端になってしまうだろう。

 しかし、一方で贈り物をいろんな形で与え合うことによって、お互いの貧富の差を極端でなく、なるべく平らにしようという意志が働く。

 贈り物交換は全ての交換の根幹にある。つまり、「公平な交換」とみなす、ということである。

 このあとに述べる第二の交換(強制と再分配)と第三の交換(貨幣を用いた交換)では、実際は交換するもの同士の立場は平等ではない。第二の交換では権力(暴力)がある方が強いし、第三の交換では貨幣を持つ方が強い。

 しかし、その場、その場の交換では「公平」であると少なくとも表向きは納得しなければ交換できない。たとえ強制されて渋々納得した交換であっても、さんざん値切られて赤字覚悟の交換でも、表向きは「公平な交換」としてすませる。

  でも、贈り物交換が根幹にあるといっても、やはり、第二、第三の交換は第一の交換と違うのだ。国家は強制で一方的に上下関係をつくる。そんな交換は共同体の贈り物交換では許されない。ある年、収穫が多かった人がいたら、それはすぐに分け合うように、それこそが公平な交換である、とプレッシャーがかかる。(ポトラッチと言う)

 贈り物の交換には、自然と人間の交換の項で述べたように、現在の交換の仕方を大きく変えるヒントが隠されている。それは、これから、少しずつ述べていきたい。

次章に続く
[PR]

# by ganpoe | 2011-10-06 23:04 | Social or Economic
2011年 07月 25日

SHIMOKITA VOICE 2011に向けて

SHIMOKITA VOICE 2011に向けて
シモキタ再生


http://shimokita-voice.tumblr.com/

下北沢の再開発見直しをめざすSave the 下北沢下北沢商業者協議会まもれ!シモキタ行政訴訟の会、そしてSHIMOKITA VOICE実行委員会のメンバーたちにとって,前20号(3月25日発行)から現在までは、多くの転換が起きた日々でした。

ひとつは,世田谷新区長の誕生。

ひとつは,世田谷エネルギーシフト55パレードです。「脱原発。こどもの日に,こどもたちの未来のために,代替エネルギーへの転換を行っていこう」と訴え,梅ヶ丘から下北沢まで歩く人々は800人を数えました。

さらに、5月28日には,下北沢カトリック教会 被災地支援フリーマーケットを行いました。出店料などを義援金として直接被災地に渡すだけでなく,お店を再開した被災地の花屋からガーベラなどの花を仕入れ,経済的な交流でもつながりを深めたいというイベントになりました。

このような311以後の大きな流れの中で,8月27日(土)、28日(日)に予定しているのが,SHIMOKITA VOICE 2011です。

昨年のテーマは「Shimokita is dead? (下北沢は死んだのか?)」でした。
世界的な不況、再開発狙いの建物の立て替えと家賃の高騰などがおき,下北沢のまちが,いままであった魅力を失いつつあるのではないか,という危機感の中で行われました。

悲しいことに今年は大震災・原発事故が起き,日本中が「Dead?」と問われるような時代が来てしまいました。

グローバルな生産流通システムの中で,港などの流通が破壊され、製造業から農業まで、部品が届かない,穀物が届かないなど、経済が危機に瀕しています。いかにそれぞれの地域がグローバル経済の中に組み込まれ,身動きできない社会になっていたかを明らかにしました。

下北沢の再開発も,グローバル化に大きな影響を受けていました。東京を世界一の金融都市にしようと,都心に必要ない施設を周辺に移築させ、都心には金融・世界資本の事務所を集中させようという巨大開発計画の中に,下北沢も組み込まれていたのです。

シモキタ再開発の第1次が、奇しくも日本の原発開発の父ともいえる中曽根政権下の1980年代からバブル崩壊までの90年代前半でした。その時,小田急高層化でまちが揺れました。

第2次が,小泉政権下の新自由主義です。その流れの中で,戦後すぐにつくられ眠っていた補助54号線計画などがゾンビのようによみがえってきたのです。

東京集中化の国土計画は,当然、地方の切り捨てが他方にあります。公共事業を東京圏に集中させるということです。放置され、過疎化を危惧する地方のあちこちのまちで,例えば,原発の立地、新規建設を誘導・促進して,補助金を得ようという動きにつながっていたのです。

補助金に頼ると,地域の人たちがつながって自分たちで工夫をしようとしなくなってしまいます。頭が無くなり,手足だけ残って他にコントロールされてしまうような事態です。

頭が無くなっていくと、地域が自ら時代に即して変わっていくことが出来ません。それが、またあらたな過疎を生み,次なる補助金を狙おうという麻薬に毒されていくことになるのです。

それが「原発ルネッサンス」というものだったのです。

一方で,頭だけでは,だめです。現場に行かないと。

東電の経営陣(頭)が,事故現場(体)に行かないで,ミスをお互いでしあっていたようなことになってしまいます。

ご存知の通り,長野県栄村でも震度6強の大地震が起きました。しかし、そこではコミュニティーが生きていたおかげで,まさに隣同士の機敏な助け合いで奇跡的に死者ゼロですんだのです。頭と体と両方使える地域がいかに大切か。

311の一番の教訓は、この東京都心を中心として,東京圏を,日本全体を組み替える,グローバル化の巨大開発が一挙に破綻したということだと思います。

戦後復興という言葉が昔使われていました。

しかし,それは戦時の統制経済を「復」活させ「興」しただけでなかったのではないでしょうか。地域独占の電気会社のシステムも含み,戦時の悪い社会システムがいままで継続してきてしまっています。

本当になすべきことは戦後の「転換」=エネルギーシフトだったのです。

いまこそ、単純な復興ではなくて,下北沢エネルギーシフトを行い,本当の豊かさを感じられる,持続可能な発展をめざしましょう。

このような大きな「エネルギーシフト」の流れで、もう一度、下北沢の独自の魅力と意義,そして巨大エネルギー消費を伴う再開発・工事がもたらす弊害,これを住民、商店のみなさまと再びとらえ直したい、下北沢を再生させるきっかけ、そのような場に今回のSHIMOKITA VOICE 2011がなればいいと思います。

下北沢近辺の多くのお店や団体・個人で、賛同いただける方に,ぜひ共催・協賛イベントを開いていただけるよう,呼びかけたいと思います。

トークイベント、音楽ライブ・コンサート、美術展,落語・演劇、様々なイベントをあなたのお店で,集会所で一緒に行いませんか。

一日、一カ所だけのイベントだけでなく,下北沢のまちに広がり,みんなで知恵と力を出し合って,下北沢のエネルギーシフト,そして,それが日本・世界全体のエネルギーシフトにつながるように、大きな一歩を一緒に踏み出していきましょう。

e0020865_13445666.jpg

[PR]

# by ganpoe | 2011-07-25 13:51 | Social or Economic
2011年 07月 11日

「サクリファイス 自己犠牲」

 「サクリファイス」 自己犠牲。
 
 タルコフスキーの映画でずいぶん昔に見た。

 枯れ木、燃える家 枯れ木の脇に立つ人影。

 物語と自然神話と理性と映像。そういうものが混ざっていて、明確に記憶している瞬間がいくつもある。

 ゴダール映画では、物語と神話と理性と映像がバラバラになっている気がする。そして、きっとそれがゴダールの狙いなのだろう。自分はそういうバラバラな感覚をわざわざ映画や芸術に求めていないんだろう。ゴダールでは観念が思弁を重ね、周りの自然の風景はただ挿入される、利用される。

 タルコフスキーはずっと心に残ってきた。なぜだろう?ストーリーなんてほとんど分からないのに。人間は自然のなかに含まれ、そして例えば枯れた木に水をかけ続けるという労働を通して人間は自然とつながろうとする。
 「僕の村は戦場になった」水面のショット。少年が走る。色んなものが混ざった瞬間がやはりある。

 柳田邦男の自死した息子を綴った本にも「サクリファイス」というのがあり、それはまさにタルコフスキーの映画に強く影響を受け、そこで語られる自己犠牲によってだけしか、他の人に愛を降り注ぐことができない、とまで追いつめられた魂の話だ。愛は自己犠牲と表裏一体なのかもしれない。

 しかし、きっと、そこまで追いつめなくて、人間にはどこかで「あきらめ」が必要なのかもしれない。自分にはこの程度だよ、これくらいでいいじゃないか、うまく思うようにならない、そんなアホな自分でいいじゃないか、たまには自分を笑ってみよう。そんな気分になることも必要なんだろう。

 〈前触れもなくそれが汝の前にきて かかる時ささやくことばに信をおけ「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」〉三好達治の言葉が引かれる。

 死と再生 自然はその循環だ、繰り返しだ。
 
 再び生きる 再生 とはなんだろう。「大きい悲しみをのりこえていこうとする想い(想像力)によって再生は支えられていくのだ」
 
 それは、合理的に二元論で決められないものだろう。

 ずっと長い時間をかけて、一人一人が思い、物語り、対話し、祈り、触り、そんな「ファジー」な曖昧なところで、それぞれが「再生」していく、でこぼこしながら、曲がりくねりながら、壊れた道を当たり前のように歩きながら。
 そのようにして、いのちは受け継がれていくし、そして自然も人間もいくつものいのちが積みかさなっていくようにして、死と再生がめぐられてきたのだろう。

 「どんな日の終わりにでも、人は信じる理由を見つけようとする。それが不思議な気がする」といううたがスプリングスティーンにある。人はどんなときにでも、意味を、物語を探そうとする。そのことによって、自分の魂を壊れないものにしようとする。

 indestructivity (破壊し得ないこと)

 柳田邦男の本の中で、エリアーデのそんな言葉を引いている大江健三郎について何度か言及される。全編を通じて、大江のいくつかの小説に生きる証しを探そうとする、息子の魂を追っている。

 わたしは大江さんには、会ったことは無いに等しい。一度、9条の会の講演を聴きにいった。内容は忘れてしまったが「憲法にある「希求する」ということば。希望して求める、今まで使ったことの無いことば、それなのに、ああ、これだったと思えるそんなことば、希み求める、希求。」というようなことを言っていたのが、強くこころに残っている。

 もう一度は、ニューヨークで朗読会をしていたとき。顔を良く見たいと思い、近くに寄って座ったら、ちょっと不安そうに睨まれた。

 彼自身の普段の行動について、間接的にいろいろ聞いたことはある。男親の立場を強く出し過ぎている、ということも聞いたことがある。しかし、そういう短所も含めた彼という人間が、「救済を希求する」「再生」というようなことをテーマにした小説やエッセーを書き続けさせる原動力になっているのだろうと思う。

 八ヶ岳に行ったときに絵本美術館があって、そこに売っていた大江健三郎の『「自分の木」の下で』を買った。その場ですぐに開いて読み始めた。柔らかな木にたくさん囲まれた美術館横のオープン喫茶室で。

 そこに四国の山の故郷での祖母の思い出を語った稿がある。祖母は「この森のなかで起こったことを書きしるす役割で生まれてきた」そうだ。

 「その話のひとつに、谷間の人にはそれぞれ「自分の木」ときめられている樹木が森の高みにある、というものがありました。人の魂は、その「自分の木」の根方(ねかた)−−根もと、ということです−—から谷間におりてきて人間としての身体に入る。死ぬときには、身体がなくなるだけで、魂はその木のところに戻ってゆくのだ・・・」

 それを読んでいたのは多くの木に囲まれた、まさに木の下で、本の内容、物語と自分の感性と魂のようなもの、それと考え、理性、さらに周りの環境、それが全て一体になったような、そんな一瞬があって、それで今でもその柔らかい葉っぱの一枚一枚を覚えている。
[PR]

# by ganpoe | 2011-07-11 22:52 | Books
2011年 07月 07日

「トランス・コミック」完全版 目次(予定)

突然開始された、トランスコミック完全版にむけての草稿であります。

マンガがこの通りになる訳ではなくて、書く前に、いろいろ対話をしながら作ってく訳です。
あさわは全体の理論的なところをまとめてみました。

これを読めば、セカイノカラクリ、から、可能あるセカイノシュウリまで、わかりますよ。
なんか、ながい道のりで、ほんとのところ言うと、最後のセカイノシュウリ辺りが一番おもしろいんですけどね。
さっさとそこをアップしちゃおうかな。

生の地域とか、都市と農村とか、生と文化の活動とか。。。

そこまでの道程、一緒に勉強いたしましょう。(笑)


0.導入部:世界にはどんな問題があるのだろう?なぜ起きるのだろう?

1.セカイノカラクリ
 交換 
 自然と人間の交換——人間と人間の交換 

 贈り物の交換
 強奪と再分配ー国家(起源と役割)

2.商品交換(貨幣を伴う交換)
 市場
 資本の動き、止まらない貨幣の自動運動
 命がけの交換
 命がけを避ける方法(国家と資本の癒着など)

3.金融
 貨幣を伴う交換から、貨幣自体の交換(貸し借りと利子の話)へ
 金融制度が出てくる必然性
 企業・組合
 無限責任と有限責任
 株式市場
 投機的傾向
 「投票」としての投資

4.資本の所有形態
 株式会社と協同組合=所有による「民主的な調整」
 「協同組合」化する社会的共同体(国家)

5.「生」のための経済とは?
  破壊、危機の中から三つの交換を見つめ直す
 セカイノカラクリ「中心、周辺、その他の地域」
 交換するもの——5つの交換物
 「生の地域」—内発的な地域と外部からの開発
 都市と農村
 リクエストメイド・社会ニーズ・そして生と文化の活動

6.セカイノシュウリ
[PR]

# by ganpoe | 2011-07-07 13:54 | Social or Economic
2011年 07月 03日

自然と人間の交換 トランスコミック序論

 1.セカイノカラクリ
 交換 

 人間の社会とは何だろう?

 自然から生まれた生物の一つ、人間。

 二足歩行ができ、そして叫び声、鳴き声、歌が言葉にまで至り、その間の「コミュニケーション」、つまり、様々な交換が、他の動物と比べ、とても複雑になった生物。会話も「言葉」を通した「考え、気持ち」の交換だ。

 様々な交換は人間同士だけではない。まずは、周りの自然と人間たちが、いろいろな交換を行ってきた。

 人間同士の交換は、様々な「社会」のかたちを作る。

 自然と人間の間の交換、人間同士の/社会の中でのいろんな交換  この二つの交換を探れば、「セカイノカラクリ」が分かる。

自然と人間の交換——人間と人間の交換

 いまの社会を生きる私たちには、「交換」と言えば、貨幣を通した交換を第一に考えやすい。「もの」と「もの」の交換は金を通して、「もの」と「サービス」の交換も金を通して、それを行うのが社会… 本当にそれだけだろうか?

 実は、交換には大きく分けて、三つの交換がある。

 ひとつは、贈り物の交換。
 ひとつは、暴力による収奪とそれを再び分け与える交換。
 ひとつは、市場での交換、おおくは貨幣を伴う交換

  だ。

 これは、人間と人間の間の交換、自然と人間との間の交換、両方で起きる。

 自然と人間の交換でいえば、本来自然の恵みをありがたく受け取ってきたのが人間だ。そして、また、自然は時に大きな災害を、病原菌を人間に与えてきた。それを避けるために、人間は自然からの大いなる贈り物に感謝し、宗教的な儀式などで、自然をなだめ、感謝を告げようとしてきた。

 さらにまた、自然の水の流れに手を入れたり、雑木林を残して山の保水力を高めようとしたりして、自然のゆったりとした再生産を助けて災害が少なくなるように工夫した。自然界にあるいろいろな物質を混ぜ合わせたりして薬物として使ったりもした。荒れ狂う自然の暴力を少しでもなだめ、少しずつ安定して恵みを得ようとしたのだ。

 そしてやがて人間はさらに自然をコントロールしようとし、自然に手を加え、暴力的に開発し始めた。

 また、自然の恵み、自然による人間社会への損害も、やがて市場における交換の価値で測ろうとしだす。自然の損害、人命の損害さえも、結局「貨幣の損害」としか考えられなくなる。

 しかし、そんな「交換」は大きな交換の中の一つにしか過ぎない。

 「自然と人間との交換」さえも「貨幣を伴う交換」と考えるというのは、そもそもおかしくないだろうか。「自然」の承諾を得ていない、人間のおこがましい考え方。

 「自然」は再生産を前提として、いまあるものを回復していく。木や草は朽ち、それを栄養にする生物がいて、その生物を食べる生物がいて、その排泄物が栄養になり、あらたな木が生える。水は海水から蒸気になり雨となり降り注ぎ、地下水から川を通り、多くの生物の体内を通り、海に戻る。太陽光や地熱はそのエネルギーを樹木・植物により変換され、光合成によって空気に酸素が加えられ、地球を生物が住める球体に維持してきた。その球体は宇宙との間で熱の代謝をし、マグマによる熱を放熱・調整し、地表の温度を岩石を大気を安定させてきた。

 これが「死」と「再生」を通した自然の流れであり、循環であり、再生産である。

 自然というものをよくみると、実はそこには「交換」という原理は存在していないように見える。つまり、あるものを渡して、その代わりに「等価」のものを受け取る、というのが「交換」の定義だが、自然はそのような交換をせず、絶え間ない贈与と絶え間ない略奪を続けながら、いつのまにか全体が釣り合っていく「循環」を行っている。太陽からエネルギーを与えられた(贈与)地球が代わりに何か太陽に返しているだろうか?交換しているだろうか?海が津波で陸を略奪したからといって、仕返しをしたり、略奪したものを意識的に再分配するだろうか?自然には、見返りも仕返しも無い絶え間ない贈与と略奪だけがあり、しかしながら全体が循環するという代謝がある。

 しかし、人間は「等価」という観念をもつ。本来違うものを「等価」である、と意識できる。違うものを「等価」であると意識する能力は人間の想像力による「喩」の能力からうまれていると思われる。

 「等価」という観念が無い限り、「交換」は成立しない。贈与されたときに、何か違ったものを返して、贈与返しをして「互酬」を成立させることはできない。贈与されたときに返却したい時はまったく同じものをそのまま返すしかできないだろう。「等価」と想像できず、「同物」は「同物」である、としか考えられないのが自然界である。つまり、贈与にせよ略奪にせよ、ものを渡されて消尽してしまえば、それで終わりである。返すことのできる別のものが「等価」であるとは考えられないのだから。しかしだからこそ、自然界は贈与・略奪の一方的な流れを続けながら、全体として循環を成り立たせられる。

 人間は「等価」への想像力の能力を持つが故に、贈与・略奪に対して「等価」交換を行わない限り、耐えられない。「愛」からうまれる純粋贈与のような形でさえ、その相手からも愛されたい、という見返りを求めざるを得ないのだ。自然からの容赦のない災害(略奪)でさえ、なんとか意味を求め、ふたたび恩恵を下さるように祈ったりせざるを得ないのだ。

 そしてさらに人間界で「貨幣を用いる市場交換」が発達するにしたがって、人間と自然との交換も貨幣価値で行えないかと考えるようにまでなる。

 繰り返しになるが、自然は絶え間ない一方的な贈与と略奪を行いながらも全体としては「循環」が起きるような代謝を行っている。

 この自然の流れを途絶えさせて、「自然」の被った損害を、人間の市場で交換できる「貨幣の価値」で測るとは、そもそも自然との貨幣を伴う交換ではない。自然は損害を貨幣で人間界に要求したりなどしない。自然から大きな恵みを得ながら、廃棄物を自然に垂れ流しているのは、平等な交換ではない。自然に暴力をつかって収奪する行為だ。

 人間が「交換」を求めざるを得ない生物であるから、自然と人間との関係も、人間は交換を求めざるを得ない。しかし、自然は「交換」より循環を尊ぶ世界であるから、その両方を成立するような自然と人間の関係を樹立せざるを得ない。

 それは自然を破壊し続ける開発ではなくて、自然のゆったりとした持続する再生産の流れに人間の社会を入れこんで包まれるようにしなければならない、ということ。どう行うのか、自然と人間の間の「交換」をどう行うか、人間側から知恵を絞り、自ら律するしか方法は無いだろう。
 
 自然と人間の間の交換を3つの交換で分けてみるとこうなる。

1.贈り物交換:「死」と「再生」を通した自然の永劫的持続から様々な恵み、栄養を送られ、それに感謝する儀式を、自然の猛威をなだめようとする儀式を、行う人間たち。

2.収奪と再分配交換:自然も人間も時に暴力的にお互いを傷つけ奪い合う。自然災害は自然の人間に対する収奪だし、確実に生命を奪う「死」も自然による収奪かもしれない。そのかわり、自然は生命を維持していく大きな恵みを与えるし、あらたな「生命」子どもたちを産む力を人間に与えてきた。そんな自然に対して人間は奪ったものをどう再分配できるのだろうか。ある地域の地形を変えて人間の益にする代わりに、他の部分の自然をより持続可能なものに変えるのだろうか?

3.市場を通した交換:自然は貨幣を用いないし、価格交渉もしない。だから、自然と人間との交換で市場交換をどう考えるかは難しい。例えば、地面の値段、地代はどうだろう?地面は自然が生み出したものだから、その自然が再生産できるように、再創造できるようにする費用をその地面を利用した人は支払わなければならない、それが地代だ、という考え方がある。一方で、地面から生まれる貨幣的価値は、人間の労働が入るのと入らないので、大きく違う。だから地代は人間の労働力に対して支払うもので、その土地の私的所有者に支払うべきものだ、という考えもあり、現在はこの後者の考えが主流だろう。しかし、それでいいのだろうか?

 自然と人間の関係に関しては、このあとも折りに入れ触れながら考察していきたい。

次章に続く
[PR]

# by ganpoe | 2011-07-03 14:38 | Social or Economic