『サクリファイス 自己犠牲』
2011年 07月 11日
「サクリファイス」 自己犠牲。
タルコフスキーの映画でずいぶん昔に見た。
枯れ木、燃える家 枯れ木の脇に立つ人影。
物語と自然神話と理性と映像。そういうものが混ざっていて、明確に記憶している瞬間がいくつもある。
ゴダール映画では、物語と神話と理性と映像がバラバラになっている気がする。そして、きっとそれがゴダールの狙いなのだろう。自分はそういうバラバラな感覚をわざわざ映画や芸術に求めていないんだろう。ゴダールでは観念が思弁を重ね、周りの自然の風景はただ挿入される、利用される。
タルコフスキーはずっと心に残ってきた。なぜだろう?ストーリーなんてほとんど分からないのに。人間は自然のなかに含まれ、そして例えば枯れた木に水をかけ続けるという労働を通して人間は自然とつながろうとする。
「僕の村は戦場になった」水面のショット。少年が走る。色んなものが混ざった瞬間がやはりある。
柳田邦男の自死した息子を綴った本にも『サクリファイス」というのがあり、それはまさにタルコフスキーの映画に強く影響を受け、そこで語られる自己犠牲によってだけしか、他の人に愛を降り注ぐことができない、とまで追いつめられた魂の話だ。愛は自己犠牲と表裏一体なのかもしれない。
しかし、きっと、そこまで追いつめなくて、人間にはどこかで「あきらめ」が必要なのかもしれない。自分にはこの程度だよ、これくらいでいいじゃないか、うまく思うようにならない、そんなアホな自分でいいじゃないか、たまには自分を笑ってみよう。そんな気分になることも必要なんだろう。
〈前触れもなくそれが汝の前にきて かかる時ささやくことばに信をおけ「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」〉三好達治の言葉が引かれる。
死と再生 自然はその循環だ、繰り返しだ。
再び生きる 再生 とはなんだろう。「大きい悲しみをのりこえていこうとする想い(想像力)によって再生は支えられていくのだ」
それは、合理的に二元論で決められないものだろう。
ずっと長い時間をかけて、一人一人が思い、物語り、対話し、祈り、触り、そんな「ファジー」な曖昧なところで、それぞれが「再生」していく、でこぼこしながら、曲がりくねりながら、壊れた道を当たり前のように歩きながら。
そのようにして、いのちは受け継がれていくし、そして自然も人間もいくつものいのちが積みかさなっていくようにして、死と再生がめぐられてきたのだろう。
「どんな日の終わりにでも、人は信じる理由を見つけようとする。それが不思議な気がする」といううたがスプリングスティーンにある。人はどんなときにでも、意味を、物語を探そうとする。そのことによって、自分の魂を壊れないものにしようとする。
indestructivity (破壊し得ないこと)
柳田邦男の本の中で、エリアーデのそんな言葉を引いている大江健三郎について何度か言及される。全編を通じて、大江のいくつかの小説に生きる証しを探そうとする、息子の魂を追っている。
わたしは大江さんには、会ったことは無いに等しい。一度、9条の会の講演を聴きにいった。内容は忘れてしまったが「憲法にある「希求する」ということば。希望して求める、今まで使ったことの無いことば、それなのに、ああ、これだったと思えるそんなことば、希み求める、希求。」というようなことを言っていたのが、強くこころに残っている。
もう一度は、ニューヨークで朗読会をしていたとき。顔を良く見たいと思い、近くに寄って座ったら、ちょっと不安そうに睨まれた。
彼自身の普段の行動について、間接的にいろいろ聞いたことはある。男親の立場を強く出し過ぎている、ということも聞いたことがある。しかし、そういう短所も含めた彼という人間が、「救済を希求する」「再生」というようなことをテーマにした小説やエッセーを書き続けさせる原動力になっているのだろうと思う。
八ヶ岳に行ったときに絵本美術館があって、そこに売っていた大江健三郎の『「自分の木」の下で』を買った。その場ですぐに開いて読み始めた。柔らかな木にたくさん囲まれた美術館横のオープン喫茶室で。
そこに四国の山の故郷での祖母の思い出を語った稿がある。祖母は「この森のなかで起こったことを書きしるす役割で生まれてきた」そうだ。
「その話のひとつに、谷間の人にはそれぞれ「自分の木」ときめられている樹木が森の高みにある、というものがありました。人の魂は、その「自分の木」の根方(ねかた)−−根もと、ということです−—から谷間におりてきて人間としての身体に入る。死ぬときには、身体がなくなるだけで、魂はその木のところに戻ってゆくのだ・・・」
それを読んでいたのは多くの木に囲まれた、まさに木の下で、本の内容、物語と自分の感性と魂のようなもの、それと考え、理性、さらに周りの環境、それが全て一体になったような、そんな一瞬があって、それで今でもその柔らかい葉っぱの一枚一枚を覚えている。
タルコフスキーの映画でずいぶん昔に見た。
枯れ木、燃える家 枯れ木の脇に立つ人影。
物語と自然神話と理性と映像。そういうものが混ざっていて、明確に記憶している瞬間がいくつもある。
ゴダール映画では、物語と神話と理性と映像がバラバラになっている気がする。そして、きっとそれがゴダールの狙いなのだろう。自分はそういうバラバラな感覚をわざわざ映画や芸術に求めていないんだろう。ゴダールでは観念が思弁を重ね、周りの自然の風景はただ挿入される、利用される。
タルコフスキーはずっと心に残ってきた。なぜだろう?ストーリーなんてほとんど分からないのに。人間は自然のなかに含まれ、そして例えば枯れた木に水をかけ続けるという労働を通して人間は自然とつながろうとする。
「僕の村は戦場になった」水面のショット。少年が走る。色んなものが混ざった瞬間がやはりある。
柳田邦男の自死した息子を綴った本にも『サクリファイス」というのがあり、それはまさにタルコフスキーの映画に強く影響を受け、そこで語られる自己犠牲によってだけしか、他の人に愛を降り注ぐことができない、とまで追いつめられた魂の話だ。愛は自己犠牲と表裏一体なのかもしれない。
しかし、きっと、そこまで追いつめなくて、人間にはどこかで「あきらめ」が必要なのかもしれない。自分にはこの程度だよ、これくらいでいいじゃないか、うまく思うようにならない、そんなアホな自分でいいじゃないか、たまには自分を笑ってみよう。そんな気分になることも必要なんだろう。
〈前触れもなくそれが汝の前にきて かかる時ささやくことばに信をおけ「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」〉三好達治の言葉が引かれる。
死と再生 自然はその循環だ、繰り返しだ。
再び生きる 再生 とはなんだろう。「大きい悲しみをのりこえていこうとする想い(想像力)によって再生は支えられていくのだ」
それは、合理的に二元論で決められないものだろう。
ずっと長い時間をかけて、一人一人が思い、物語り、対話し、祈り、触り、そんな「ファジー」な曖昧なところで、それぞれが「再生」していく、でこぼこしながら、曲がりくねりながら、壊れた道を当たり前のように歩きながら。
そのようにして、いのちは受け継がれていくし、そして自然も人間もいくつものいのちが積みかさなっていくようにして、死と再生がめぐられてきたのだろう。
「どんな日の終わりにでも、人は信じる理由を見つけようとする。それが不思議な気がする」といううたがスプリングスティーンにある。人はどんなときにでも、意味を、物語を探そうとする。そのことによって、自分の魂を壊れないものにしようとする。
indestructivity (破壊し得ないこと)
柳田邦男の本の中で、エリアーデのそんな言葉を引いている大江健三郎について何度か言及される。全編を通じて、大江のいくつかの小説に生きる証しを探そうとする、息子の魂を追っている。
わたしは大江さんには、会ったことは無いに等しい。一度、9条の会の講演を聴きにいった。内容は忘れてしまったが「憲法にある「希求する」ということば。希望して求める、今まで使ったことの無いことば、それなのに、ああ、これだったと思えるそんなことば、希み求める、希求。」というようなことを言っていたのが、強くこころに残っている。
もう一度は、ニューヨークで朗読会をしていたとき。顔を良く見たいと思い、近くに寄って座ったら、ちょっと不安そうに睨まれた。
彼自身の普段の行動について、間接的にいろいろ聞いたことはある。男親の立場を強く出し過ぎている、ということも聞いたことがある。しかし、そういう短所も含めた彼という人間が、「救済を希求する」「再生」というようなことをテーマにした小説やエッセーを書き続けさせる原動力になっているのだろうと思う。
八ヶ岳に行ったときに絵本美術館があって、そこに売っていた大江健三郎の『「自分の木」の下で』を買った。その場ですぐに開いて読み始めた。柔らかな木にたくさん囲まれた美術館横のオープン喫茶室で。
そこに四国の山の故郷での祖母の思い出を語った稿がある。祖母は「この森のなかで起こったことを書きしるす役割で生まれてきた」そうだ。
「その話のひとつに、谷間の人にはそれぞれ「自分の木」ときめられている樹木が森の高みにある、というものがありました。人の魂は、その「自分の木」の根方(ねかた)−−根もと、ということです−—から谷間におりてきて人間としての身体に入る。死ぬときには、身体がなくなるだけで、魂はその木のところに戻ってゆくのだ・・・」
それを読んでいたのは多くの木に囲まれた、まさに木の下で、本の内容、物語と自分の感性と魂のようなもの、それと考え、理性、さらに周りの環境、それが全て一体になったような、そんな一瞬があって、それで今でもその柔らかい葉っぱの一枚一枚を覚えている。
by ganpoe
| 2011-07-11 22:52
| Books