地域, 政治, 経済そして音楽・・・浅輪がんぽおのブログ

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カテゴリ:Social or Economic( 79 )


2014年 02月 09日

民主主義と選挙とデモと

民主主義とデモ

人を選ぶ、政党を選ぶ、と言うのが、本当に民主主義なのか?

完全に政策が一致している他人がいるのか?

もし、民主主義が人々が直接情報を得て決定していくということであるなら、
政策ごとに意見する、住民協議会、パブリックコメント、住民投票、デモンストレーション、そしてそれを保証する憲法こそが、民主主義に取って本来的なものなのである。

選挙は、民主主義の前からある。
貴族や王、教皇を選ぶのに、選挙制度を使っていた。
選挙制度は、「貴族制度」にとって本質的であるともいえよう。
すなわち、実際に知っている知人の中から代行人を選ぶ、という状況の中で有効に成り立つ制度なのである。

では、普通選挙においては、どうなるか。
通常、立候補者を普通の人々は直接に実際に知らない。
であるから、「人気投票」になるのは、おかしなことではなくて、当然のことなのである。
人気投票が極端に行きつけば、ファシズムになる。
普通選挙の行われないところには、ファシズムは無い。あるのは、単なる圧政だ。
圧政者を本心から大多数が支持するのがファシズムである。

貴族制や絶対王政を倒して、近代の民主主義を打ち立てたのは、なんであったか?

ほぼ例外無く、デモである。
自由民権運動、アメリカ独立運動、フランス革命、イタリアでもドイツでも韓国でもアフリカでもアジアでもアメリカでも、、、
デモであり、ストライキであり、ボイコットである。

デモこそが、民主主義の本質である。
デモが無く、デモに反感を持つような人が多いのなら、既に民主主義をやめているのである。
その上で、住民協議会、パブリックコメント、住民投票によって、通常の民主主義的な政策決定が行えうるのである。
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by ganpoe | 2014-02-09 15:21 | Social or Economic
2012年 11月 13日

歴史に置ける個人の役割は?

自分は、こういうことをあまり考えていても大して結論みたいのは出ないと
直感的に感じます。
ですので、人間が歴史を作る。でもその歴史の可能性「実現するもの」は一定の構造に拘束される。
という程度でいいかなという立場です。

「人間は、自分で自分の歴史をつくる。しかし、自由自在に、自分で勝手に選んだ状況のもとで歴史をつくるのではなくて、直接にありあわせる、あたえられた、過去からうけついだ状況のもとでつくるの
である」(マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』)

キルケゴールは人生は未来の道にしか生きられない、そして過去に向かってしか理解できない。というようなことを言っていたと思います。
つまり将来を見ればすべてが実存的で偶然であるかのように見える。
過去を見れば、すべてに形式があり法則があるかのように見える。

結局、それが生きるということの条件ではないかと思うのです。

この辺りは理論的にいろいろ考えてもたいした結論が出てこないなぁと思ってます。

唯一いろいろ考えて成果があるのが、過去の歴史に見える法則性。

自分はそこはいろいろ理論を学びたいが、歴史に於ける個人の役割、
という問題を一般化するのは、議論のための議論なら良いけれども、
たいしてためになる結論が出ない問題だと思います。
どっちとも言える、という程度?

あとは、いろいろ考えて、前に生きていくしか無いのでしょうね。
そこには偶然と決断と努力と戦略と、、、いろいろあるでしょう。

自分がよく署名していた言葉を使えば、
Think the future, remember the past, and act now!
です。
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by ganpoe | 2012-11-13 20:03 | Social or Economic
2012年 09月 05日

資本は「主義」か「制度」か?どうやったら変えられるか?

「資本主義」と言うが、それはそもそも「主義」なのでしょうか?

「主義」というのは、何か思想を選ぶ、ということです。
それに対して、「資本主義」と言うのは人が選ぶというよりも、
ひとが貨幣を用いた交換をする限り、どうしようもなく出てくる「制度」ではないでしょうか。

だから、私はほとんど「資本主義」と言う言葉を使いません。
「資本制」と言います。

19世紀中頃には、だから、資本主義という言葉がありませんでした。
「現実」である資本制度に対して「社会主義」や「共産主義」を選ぶ、ということはあったのです。

さて、その「資本制」の中心は、貨幣を用いて交換することで、買った時より高く売れるかもしれない、ということにあります。

貨幣を持ってきて、何かを買う、そして、それを移動する、あるいは加工する、そしてそれを買った時よりも高い値段で売れば、「もうけ」が出てきます。
非常に多くの人がそれを行い出すと、社会全体が「資本制」になってきます。

貨幣をM (Money)、そしてものを商品 C (Commodity)とすると、この交換は、

M-C-(M+m)
 または M-C-M'

となります。この式を見て問題となるのは、二つです。
まず最初にM、つまり貨幣を持っていなければならない。
そのためには、誰かから借金をするしか無いのです。

第二に、C-M に変えられるか、つまりあるものを売れるかどうかは、先には分からない、
ということです。

要するに、最初に売れるかどうか分からないものをつくるために、借金をして、だからこそ、それを絶対に売れるように、「命がけの跳躍」をしなければならない、それが資本という制度なのです。

この行為を「倫理的」に批判しても、限界があります。
それはどうしようもない、人間が社会で生きる上での「現実」だからです。
「資本主義」という言い方には思想だから考えを倫理的に批判しさえすれば変わるという思いが背景にあると思います。
もちろん、それば大事です。
人々の行動を促すからです。

その上で、では、どういう方向にその行動が動けば、この「資本の制度」を超えられるのでしょうか?

M-C-M'が問題なのだから、貨幣を用いながらも、
C-M-C が出来るようにする方法を探れば良い、というのが根幹です。

C-M-C とはつまり (ニーズ(商品C)を消費者(生活者)が形になって表し、それだけに投資し(M)、生産する、流通する、循環する。。。)

では、それをどうやるのか?
資本制度の中で?
雇用制度の中で?
国家の補助金縛りの中で?

結局、地域住民を軸とした「生活」側からの声上げ、改革しか無いのではないか、と思います。

長野県の飯田市の市長が言っていたのですが、住民から省エネのためのLEDをつくりたいが、
高価で導入しにくい、という話が出ていた。
そこで、市の行政として、ある価格のものが出来れば、幾つか買い取る、と条件を出した
 (C, 商品、ニーズの条件を先に出した)
すると、市の今までつながっていなかった中小業者が、集まって知恵を出し合って、
なんと今までの3分の1の価格のものをつくってしまった。
 (ニーズが分かっているので、命がけの跳躍が低くなる(技術開発出資 M がしやすい))
市役所やまちにまちの工場たちがつくったLEDが普及しはじめたそうです。
技術も情報も金も地域で循環しはじめた。
これは示唆的だと思います。


あらためて、地域住民を軸とした「生活」側からの声上げ、改革が必須です。
それが強く出てくるのは、ようするに戦争とか、災害とか、大事故とか、大危機です。
そのあとで、どう動くか、です。
911、年金、格差、サブプライム、リーマン、欧州ソブリン、311....
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by ganpoe | 2012-09-05 21:30 | Social or Economic
2012年 07月 12日

鞆の浦の架橋計画。住民協議会を経て、開発見直しの決定へ

まちの文化的価値を活かし、公共計画を見直し

鞆の浦(とものうら)の架橋計画。住民協議会を経て、開発見直しの決定へ

広島県の瀬戸内海に面した鞆の浦。

その歴史と自然が調和した湾を横切って橋をかけようという公共事業計画が起こったのが、約30年前の事。

万葉集にも詠まれ、宮崎駿の「崖の上のポニョ」のモデルとなったと言われる独特の町並みで知られています。そのような場所での公共計画は慎重に行うべきです。

ところが、30年前、計画を杓子定規に作り、実行しようとしたのです。

この6月25日、計画の事業主体である広島県の判断で、湾への架橋ではなく、山側のトンネル建設への事業変更が行われました。

2010年5月から計19回、住民協議会が開かれ、計画推進派と反対派の間で、まずは立場の意思疎通を図り、最低限合意できる事を探る動きを進めてきました。また、県からも架橋案以外の対案として、山側トンネルや海底トンネルなど計5案を示してきました。

その中で、双方譲れないところがありながらも、1)中心部の混雑を解消できるような道路整備が必要、2)景観は保全したいので両立できる案を探る、の2点では両者とも合意できる事が分かりました。

今回、この二つの合意点を生かせる案として山側トンネルが決定されたのです。

2009年10月に広島地裁が景観保全を重視し架橋計画を行政裁量の逸脱とする歴史的な判決を出しました。その後、選挙によって新しい知事が選ばれ、県の対案の公開と住民の間の協議による合意形成を優先し、住民協議会が行われてきたのです。

その結果を受けて、事業主体である広島県知事の決定で、計画見直しがなされたのですが、30年にもわたる計画推進の歴史の中で、賛成派と反対派と住民の間の溝は深く、今後も長期にわたる話し合いを継続していく必要があるでしょう。

住民の間に亀裂を生むような計画でなく、最初から住民主体で参加をする形で公共事業を計画していく事が、今後の重要なポイントとなります。

住民協議会においては、あるまちの事を色々な角度から眺めている人たちが、自由に意見をいえる場がまず大事です。

完全に全員が合意する事は難しいかもしれません。合意を目指しつつ、まずお互いの立場を謙虚に理解しあう場が必要です。

そして自由に、本当にまちの事を考えられるように、外部からの圧力は無いようにするのも大事ではないでしょうか。

311を経て、まちの自治が問われています。

下北沢の再開発計画においても、多いに参考になる事例といえます。

「鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも」(大伴旅人)

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by ganpoe | 2012-07-12 16:10 | Social or Economic
2012年 03月 06日

生の地域 をめざして

命がけの跳躍。

売れるかどうか分からないのに、借金をして資材や機械や労働力を買って、その買ったものを加工したり、
移動させたりして商品にして売ろうとする資本の動き。
最初に作るためには、費用がかかり、まず借金をしなければならない。
借金をするから、それを返すために死ぬ気で売らなくてはならない。

だから、何でも必死に売ろうとする。無駄なものでも、公害を起こすものでも。。。
人々の倫理が悪いからではない。
商売は最初に金を使って借金をしなければ絶対にできないから、仕方がないのだ。
それが世界のからくりであり、だから経済的に生き抜くことは、ほとんど誰にとっても、命がけの跳躍なのだ。

さあ、もういちど、「人々は人々が必要なものを必要なだけつくっていた」
というかたちに、どうやって行けるのだろう?
もし確実に必要なものだけ作り売れると分かれば、命がけの跳躍の度合いが低くなり、無理に売りつけたり、無理に買い叩いたりの必要もなくなる。
これが答えだ。

どうやったら、確実に売れることが事前に分かるか?
受注生産というのが、すぐ頭に浮かぶだろう。
そしてさらに、地域のつながりの中で、お互いの必要なもの、必要になると思うものを伝え合えるようになれたら、それが、世界のカラクリの修繕になるのではないか?
それが答えではないか?

昔の共同体に戻るというのも素敵だが、多くは広がらない。部分的な趣味的なコロニーができるだけだ。
いまの社会の段階から先に進んで、そこに懐かしい昔のような未来をみつけるのだ。

「人々が必要なもの」、それは「よりよくいきる」ということだ。
「よりよくいきる」とするとき、そこにはいろんな時間と場所が絡まってくる。

そういう時間と場所があらわれてくるのを生活圏と呼べる。
生活圏はいつも固定されているものでもなく、一つのものでもなく、
いろんなレベルで重層的にあるものだ。
数人の寄り合い、組合レベルもあれば、
都市と農村と周りの自然、というような広い「地域」ひとまとまりもある。
そんな「地域」たちの中で人々は生き、学び、遊び、育ち、働き、育て、老いて、死んで行く、
そして自然と人間の結びつきも生まれる。

そんな「よりよくいきる」生の地域をどうやって保っていくか、
どうやって自分たちの必要に会わせて形成していけるか、
それが、「人々が必要なものを必要なだけつくる」ということだろう。

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しかし、そんな地域も、みてきたように、外の大きな商人や銀行家や政府にコントロールされて、
他に依存的になってしまいがちだ。
遠くの都市のための単作食物を育てるだけになったり、
公害を出すような工場や発電所を押し付けられたりするだろう。
無駄な消費にあくせくさせられながら、
必死に働いて高い家賃を払ってストレスの多い生活を強いられたりするだろう。

そんな外来型の開発に左右される地域でなく、
「よりよくいきる」ために自分たちで内発的にコントロールできる地域はどうしたら可能だろう。

まずは「あたま」。

何よりも意思を決定できる、会社でいえば本社があること。

つぎに「かね」。

本社が地域内にあれば、経済の余剰はその地域の中に残るし、落とされるし、
新たな発展のための再投資に回すことが出来る。
地域の税金は地域の自治体に払われ、地域の様々な社会サービスに回すことも出来る。

なにより「つながり」。

いろんな関連の産業が発達して、
部品や修理やら何やらを地元の企業にお願いするようになって、広がりを生む。
モノやサービスの交換だけでなくて、新しい情報や技術なども交換され、
地域の発展が継続するきっかけにもなる。
そんな広がりの中で、新しい仕事を生み出そうという意欲を持つ人も育つし、
今までと違った、なかった産業や、地域の細かいニーズに対応する産業も、
地域の色んなつながりがあるとスムーズに興すことが出来る。

ついでに「あそび」。

地域のつながりが強いし、お金も地域に落ちるので、あそびも地元でたくさん行う。
近くの農村や漁村のおいしい多様な食物を手に入れて、
その地域の風味で工夫した色んな料理や飲み物が出来たり、
美しい農村・自然の風景を残して楽しもうとする。
地域の文化や盛り場を楽しんで、それが新しいお店や職人や芸術家なんかを育て、
それがまた刺激になって、産業などのアイデアに結びついたりする。
ハイキングやスポーツを楽しむ時間や場所を大事にすることによって、
人々の絆も深まり、健康や元気や活力につながる。
教育も地域に根ざして、地域の仕組みやニーズなどを早くからつかんで、
現場と知識をうまく結びつけた地元愛にあふれたこどもたちが育つだろう。

そうわたしたちは、いつでも「よりよくいきる」生の地域のために、
「あたま」「かね」「つながり」「あそび」が内発的で、地域の中で多様で循環しているか、
確かめていくといい。一つ一つ確かめながら、挑戦していくといい。

内発的に、地域のなかの交換、他の地域との交換をトランジション(移行)させていくと、
だんだん、内発的な「生の必要」に根ざした交換に、生産に、社会に変わっていく。
だって、「あたま」と「かね」と「つながり」と「あそび」は地域の人々がコントロールして、
育てていっているのだから。

そんな挑戦のなかで、少しずつ、「人々の必要なものを必要なだけつくる」未来の世界が見えてくる。
もう、無駄なものをつくったり、公害を出すことは少なくなっていく。
命がけの跳躍が薄れていく。
そして命あふれる地域が、本当の「生」が生まれるのだ。
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by ganpoe | 2012-03-06 23:28 | Social or Economic
2012年 02月 06日

下北沢周辺の小田急線あとちを、みんなの共有の庭、畑、森に!

トランジション世田谷 茶沢会の有志によって考案された提案書です。

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小田急線は、複々線化と、連続立体交差事業を行っています。
梅ヶ丘から代々木上原までの下北沢周辺は、地下化になります。
「小田急線は」と言いましたが、実はこの工事の費用の95%ものお金は、
じつは、世田谷区を初めとする、東京都、国の税金から出ています。

まちのかたちを決める大事な事業で、また、資金も税金、すなわち公共のお金を使っているのだから、
地下化のあとに残る、線路上部の空き地、あとちは周りのみんなで決められます。

というか、決められるように、動いていかないといけない。
小田急線と交差する補助54号線と言う、怪物みたいな大きな道路、
それから、下北沢周辺の地区計画を変更して、60mまでのビルを建てられるようにした
全体の再開発計画もふくめて。

これらをどうやって行っていくか、見直せるところは見直す、
これを今までのように行政任せでなく、
市民、住民、利用者が、ひとつひとつ話し合ったり、工夫していく、
そのプロセスを大事にして、少しずつ自分たちが一番納得いけるものに
していきたいですね。

そのために、自分たちトランジション世田谷 茶沢会の有志で、
提案書をつくりました。

この跡地の近くの羽根木公園というところで「プレイパーク」という活動があります。
30年以上続いている活動で、公園の一角を自由に、大人と子供が一緒になって、
「あそべる場」をつくっていこう、という活動です。

最初に決まりきった整備を行うのではなく、ある場所を確保して、そこで自由に学習しながら、
いろいろと多くの人が関わって、工夫していく「プロセス」、それこそを大事にしたいのです。

あるリーダーが先頭だってあとはついていくだけのようではなく、
何となく、やり過ごしている間に、利害団体がどんどん取り返しのつかないとこまで
作っていってしまうようなかたちでなく(原発みたい)、
住民たちの関わっていくプロセスを大事にすることが、
ほんとうの住民自治につながると思います。

さて、そのプロセスを大事にした上で、なぜ、みんなの共有の庭、畑、森なのか?

それは下北沢周辺のような都市、まちの真ん中でこそ、
自然と人の営みの交わり、循環が学べるからです。

ニューヨークとセントラルパーク、ロンドンとハイドパーク、キューガーデン、
ベルリンとたくさんの市民農園、クラインガルテン。

都市と、共有の庭、畑、森は、人間と自然の根源にある何かを結びつける
役目を果たしているのだと思います。

日本でも、江戸という都市は、世界でもまれに見る緑にあふれた都市だったといいます。
武蔵野の豊かなみどりは、実は、江戸からでてくる堆肥などの循環によって、
できあがったものだといいます。
江戸という都市があったからこそ、武蔵野の緑は生まれたのです。
西欧の都市学者ハワードなどが提唱した「田園都市」というコンセプトは、
実は江戸に習ったものだそうです。

田園都市を下北沢の真ん中にとりもどしたい!
一人一人が交わり、工夫するプロセスのなかで。

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by ganpoe | 2012-02-06 19:16 | Social or Economic
2012年 01月 06日

飯田市訪問

年始を利用して、長野県飯田市に行ってきました。

飯田市は、最近は自然再生エネルギーの取り組みで有名なまちです。
初期費用0円で設置するシステムもあります。

環境エネルギー政策研究所などのNPO団体と手を組みながら、
まち中の人たちが手づくりで形を作ってきた歴史があります。

NPO南信州おひさま進歩

おひさま進歩エネルギー株式会社


メガソーラー

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すでに色んな情報が出ているし、本などもあるので、
私が追加して言えるはなしは、ないです。

とはいえ、久しぶりに自然の近くに行ったり、
本当に多くの民家の屋根に太陽光パネルが置いてあったりしたのをみたり、
それから、まちのなかに、色んな店や、おしゃれなレストランなんかが並んでいたりするのを見ることができました。

そんなのを見ながら、もしかすると、自然エネルギーというのは、「ネタ」にすぎなくて、
その取り組みをつうじて、街の人たちが、色々と手を組んで、工夫したり、楽しんだりしはじめたことが、
一番大事なことなんではないかなぁ
と思いました。

商業や、お店や、それから農業、教育、福祉、そんなことへの取り組みにも、
自然エネルギーを契機にした動きは大きな力を与え続けているんではないか、と。

株式会社 飯田まちづくりカンパニー

今回は正月に行って、まちの人とあまり話ができなかったので、
ぜひ、またゆっくりと行きたいなと思いました。
とはいえ、個人的には、父親とゆっくり旅をできたのが、色んな意味で良かったです(笑)。

鼎みつば保育園

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町中のリンゴ並木など
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by ganpoe | 2012-01-06 12:37 | Social or Economic
2011年 10月 18日

セカイノカラクリ解決編 その1 『消費者の協同』

昔、「セカイノカラクリ解決編 その1 『消費者の協同』」を書き始めたことがある。

これは、生協に注目したものだ。
消費者の協同組合というのは、ビアトリス・ポッター(後のシドニー・ウェッブ妻)の画期的なアイデアだった。

協同組合、つまり、労働者、市民がお金を出し合って、必要なものをつくれば良いんだ。(事業協同組合)
いや、それだけでない、消費者が、生活者が、必要なものを欲しい、という視点から【生活者協同組合】をつくって、それが事業協同組合をリードして行く、そういう形が良いのではないか。

これは、画期的だし、今でも有効な考えだと思う。

「生産=労働の場」ではなくて「生活=消費者の場」 ここでこそ、本当に私たちは強い。
文化の場と言っても良い。
柄谷行人さんや宮台真司さんもよくおっしゃっていますね。

実は、上に上げた記事は、ある生協で、新人教育のテキストとしてつかわれたことがあった。びっくり(笑)。

もう一度、原点に返って考え直そうと思い、また読み直した。

引用しますが、元のところに戻って読んでくださいね。ビアトリス・ポッターちゃんの若い時の顔写真付きだよ!(笑)

===========
投資家ではなくて、事業に直接かかわっている個人個人が協同して事業設備を管理・保有していく。それが協同組合です。しかし単に事業をすれば普通の企業と変わらなくなってしまう。利潤を消費者に還元するべきだ。それが、ビアトリス・ポッターの考えでした。彼女の考えを現代において生かすにはどうしたらいいか。


Beatrice Potter Webb
1858-1943

1 「生産者」協同組合は?

1891 年に彼女は、『英国の協同組合運動(邦題『消費組合発達史論』)』という本を出します。その本で、彼女はそれまで優勢だった「生産」協同組合第一主義に終止符を打ちます。生産協同組合は結局、生産者、つまり、商売する人として、市場で販売して利益を出さねばならない、という逃れようのない条件の下で存在するしかなく、その結果、資本主義の株式企業などと根本的に差が無くなってしまう。そう彼女は言います。もちろんそれは事業的に成功した場合で、成功しなければ、単にアナクロニズムな職人工場のようなレベルに落ちてしまうだろう、と。彼女の文から引用しましょう。

「つまり次のことが明らかである。すべての生産者の集合体は、資本家が労働を雇う形であろうと、労働者が資本を買う形態だろうと、あるいは、その二つの形の合わさったようなものであろうと、われわれの共同体の利益とまったく反するものになるだろう。残念ながら生産者として製品を販売する立場である限り、利益追求者にならざるをえない。生産コストと販売価格の間に大きな差額を維持しようとするだろう。」(原著156頁(215ページ)


これはたとえば、最近、有名なスペインのモンドラゴン協同組合に関して調査したシャリン・カスミアの意見と一致します。(『モンドラゴンの神話』)モンドラゴンの実体も、実は利益主義であって、そのために労働者の権利を十分に保障していない、とか。昔だけでない。今でもそうなのです。それは、生産協同組合の人たちが悪徳だからではありません。多くはとっても心の優しい人たちです。しかし、「生産者」という商売の条件が、どうしてもそういう行為をするようにさせてしまうのです。

その代わり労働者にとって大きな力になるのが、消費協同組合である、とポッターは主張します。というのは、消費の場においては、労働者は購買力を持った、経済行動の主人公となって現れるからです。貨幣を持っていれば、価格のついたものはすべて手に入れることができます。

しかし、逆に貨幣以外のものに価格をつけたからといって、貨幣に変えられるとは限りません。

たとえば、この目の前にある鉛筆に一本100円、という値札をつけたとしても、それが売れるかどうかは分からないのです。

職探しの場合も同じです。例えば私は時給5000円の価値がある、といくら主張したところで、その値段で誰かが雇ってくれる絶対の保証はありません。逆にあなたのポケットに5000円札が入っていれば、それだけのものを買えるわけです。だから消費の場に立ったときのほうが、労働者は圧倒的に立場が強いのです。

また、商売をするためには売る前に先ず買わなければなりません。原料や、道具、労働力、などです。それらを加工したり、違う場所に輸送したりして、その後その商品が売れた時に初めて商売となるのです。だから、商売を始める前に、いくら儲かるか(あるいはいくら損するか)は、実は分かりません。だから確実に利潤をだそうということも、逆に確実に利潤をゼロにしようということも、難しいのです。

生産者協同組合は、労働者が会社を所有して利潤がゼロになるようにと経営する、ということが目標だったわけですが、ポッターに言わせるとそれは土台無理な注文だったのです。

もし、協同組合の真の目的が「利潤」をどんどん増やそうという欲動を止めることにあるのならば、生産者の立場としては、最初に安く買って(時には品質の悪いものを)それを高く、たくさん売る(不必要に沢山買わせる、要らない付加価値を付ける)という動機がどうしても出てきてしまう。


2 「消費者」協同組合は?

ポッターはここで問います。利潤が出てしまったなら、それは誰が受取るべきなのか。消費者である。消費者にその人の購買高に応じて利潤が配当として回る様にするのが一番いい。それは「ロッチデール協同組合」という最初の消費者協同組合が取った方式なのです。

もしそれぞれの消費者の購買高に応じて配当されるなら、配当を増やそうとすれば、自分が沢山消費するしかない。そうやって自分の購買高を高めるしか。他人に薦めて沢山買わせても、その配当はその他者に行くだけであるから「アムウェイ方式」はない。しかるに、自分の配当を増やすために、沢山浪費するのは本末転倒でしょう。要するに、自分が本当に必要なもの、欲しい物を選んで買うのが一番賢くなります。それがロッチデールという消費組合の取った道であり、ポッターが推奨する唯一の民主的経済のあり方です。

「ロッジデール式消費組合に於いては、各購買者はその購買高に応じてある種の証券——通常は一定金額の打ち印のあるブリキ製のもの——を交付される。そうして、購買者は年四回の決算期末毎にこの証券を提示し、「配当金」Dividendと称されるその期のいわゆる利潤の配当を受取る。」

問題は、しかし、消費組合であっても、全体の経済の中で少数であるにすぎない、ということです。だからこそ、ポッターは、消費者と労働者も協同せねばならない、と説きます。その時にのみ、利益追求を第一に据えた現在の世界のカラクリを変えることができる。

たとえば、労働組合、というのはそれぞれの職場の局面において、処遇改善、より豊かな生活を保証する賃金の上昇のために、働いてきました。しかし、残念ながら、そのような運動が逆にそれぞれの職場において、より高い利益を追求するようにうながしてきた事も確かです。そう、高い利益が上がらなければ、高い給料もありえないからです。

その結果、企業はたとえば公害などを出してもいいからお金を沢山儲ける事に専念します。実際に労働組合も公害問題が起きたりしたとき、企業側について、生活者としての消費者の敵になる場合が多いのです。

しかし、労働者も一度、消費者、という立場になった場合、公害などはどう考えても問題です。だから、消費者としての労働者は消費協同組合をとおして、運動せねばなりません。

このように労働の面だけでなく、消費者協同組合、それから、それらをまとめた事業協同組合、投資協同組合、など様々な局面において、同時に働きかけてこそ「独占価格を打ち壊し、詐欺的な悪品質の商品を明らかにし、そして利益(それは、購買行為と販売行為の間に出てくる剰余である)これを直接、間接的に全体の社会に分配させるような形を作れる」(168—9、218ページ)こうポッターは言います。

しかし、なぜ、消費者協同組合は(たとえば生協)、全体の経済の中で少数で居続けるのか。それは、たとえば組合員にならなければ配当されず、そして組合員になるのは面倒で、それくらいなら近くのスーパーで買ってしまう消費者が多いからです。

しかし、現在のテクノロジーを使えば、消費者に配当する方法をもっと簡素化できると思います。たとえば、ポイントカードというものがあります。これはある意味で、(いやそのまんまですが)それぞれの消費者の購買高を記録するものです。これを応用すれば、消費者への購買高比例式の配当も、割合簡単に出来ると思います。
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by ganpoe | 2011-10-18 01:31 | Social or Economic
2011年 07月 25日

SHIMOKITA VOICE 2011に向けて

SHIMOKITA VOICE 2011に向けて
シモキタ再生


http://shimokita-voice.tumblr.com/

下北沢の再開発見直しをめざすSave the 下北沢下北沢商業者協議会まもれ!シモキタ行政訴訟の会、そしてSHIMOKITA VOICE実行委員会のメンバーたちにとって,前20号(3月25日発行)から現在までは、多くの転換が起きた日々でした。

ひとつは,世田谷新区長の誕生。

ひとつは,世田谷エネルギーシフト55パレードです。「脱原発。こどもの日に,こどもたちの未来のために,代替エネルギーへの転換を行っていこう」と訴え,梅ヶ丘から下北沢まで歩く人々は800人を数えました。

さらに、5月28日には,下北沢カトリック教会 被災地支援フリーマーケットを行いました。出店料などを義援金として直接被災地に渡すだけでなく,お店を再開した被災地の花屋からガーベラなどの花を仕入れ,経済的な交流でもつながりを深めたいというイベントになりました。

このような311以後の大きな流れの中で,8月27日(土)、28日(日)に予定しているのが,SHIMOKITA VOICE 2011です。

昨年のテーマは「Shimokita is dead? (下北沢は死んだのか?)」でした。
世界的な不況、再開発狙いの建物の立て替えと家賃の高騰などがおき,下北沢のまちが,いままであった魅力を失いつつあるのではないか,という危機感の中で行われました。

悲しいことに今年は大震災・原発事故が起き,日本中が「Dead?」と問われるような時代が来てしまいました。

グローバルな生産流通システムの中で,港などの流通が破壊され、製造業から農業まで、部品が届かない,穀物が届かないなど、経済が危機に瀕しています。いかにそれぞれの地域がグローバル経済の中に組み込まれ,身動きできない社会になっていたかを明らかにしました。

下北沢の再開発も,グローバル化に大きな影響を受けていました。東京を世界一の金融都市にしようと,都心に必要ない施設を周辺に移築させ、都心には金融・世界資本の事務所を集中させようという巨大開発計画の中に,下北沢も組み込まれていたのです。

シモキタ再開発の第1次が、奇しくも日本の原発開発の父ともいえる中曽根政権下の1980年代からバブル崩壊までの90年代前半でした。その時,小田急高層化でまちが揺れました。

第2次が,小泉政権下の新自由主義です。その流れの中で,戦後すぐにつくられ眠っていた補助54号線計画などがゾンビのようによみがえってきたのです。

東京集中化の国土計画は,当然、地方の切り捨てが他方にあります。公共事業を東京圏に集中させるということです。放置され、過疎化を危惧する地方のあちこちのまちで,例えば,原発の立地、新規建設を誘導・促進して,補助金を得ようという動きにつながっていたのです。

補助金に頼ると,地域の人たちがつながって自分たちで工夫をしようとしなくなってしまいます。頭が無くなり,手足だけ残って他にコントロールされてしまうような事態です。

頭が無くなっていくと、地域が自ら時代に即して変わっていくことが出来ません。それが、またあらたな過疎を生み,次なる補助金を狙おうという麻薬に毒されていくことになるのです。

それが「原発ルネッサンス」というものだったのです。

一方で,頭だけでは,だめです。現場に行かないと。

東電の経営陣(頭)が,事故現場(体)に行かないで,ミスをお互いでしあっていたようなことになってしまいます。

ご存知の通り,長野県栄村でも震度6強の大地震が起きました。しかし、そこではコミュニティーが生きていたおかげで,まさに隣同士の機敏な助け合いで奇跡的に死者ゼロですんだのです。頭と体と両方使える地域がいかに大切か。

311の一番の教訓は、この東京都心を中心として,東京圏を,日本全体を組み替える,グローバル化の巨大開発が一挙に破綻したということだと思います。

戦後復興という言葉が昔使われていました。

しかし,それは戦時の統制経済を「復」活させ「興」しただけでなかったのではないでしょうか。地域独占の電気会社のシステムも含み,戦時の悪い社会システムがいままで継続してきてしまっています。

本当になすべきことは戦後の「転換」=エネルギーシフトだったのです。

いまこそ、単純な復興ではなくて,下北沢エネルギーシフトを行い,本当の豊かさを感じられる,持続可能な発展をめざしましょう。

このような大きな「エネルギーシフト」の流れで、もう一度、下北沢の独自の魅力と意義,そして巨大エネルギー消費を伴う再開発・工事がもたらす弊害,これを住民、商店のみなさまと再びとらえ直したい、下北沢を再生させるきっかけ、そのような場に今回のSHIMOKITA VOICE 2011がなればいいと思います。

下北沢近辺の多くのお店や団体・個人で、賛同いただける方に,ぜひ共催・協賛イベントを開いていただけるよう,呼びかけたいと思います。

トークイベント、音楽ライブ・コンサート、美術展,落語・演劇、様々なイベントをあなたのお店で,集会所で一緒に行いませんか。

一日、一カ所だけのイベントだけでなく,下北沢のまちに広がり,みんなで知恵と力を出し合って,下北沢のエネルギーシフト,そして,それが日本・世界全体のエネルギーシフトにつながるように、大きな一歩を一緒に踏み出していきましょう。

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by ganpoe | 2011-07-25 13:51 | Social or Economic
2010年 10月 09日

資本の命がけの跳躍

マルクス資本論というと難解そうだが実は一つの事だけを元に書かれている。

資本の命がけの跳躍だ。

売れるかどうか分からないのに最初に金を投資せねばならない、命がけの跳躍。

この命がけの跳躍、ということから二つの結果が生み出される。

1)命がけの跳躍をしなければならないので、利潤を得た場合はとことん、増やそうと思うこと。
資本の飽くなき欲望だ。
だから、資本家は経営者はどんどん成長しようと考える。
たとえ、それが多少の社会的害を及ぼそうとも。公害を生み出したり、環境に負荷をあたえたり、長い歴史や文化的価値のある物を壊してしまう可能性があるとしても。あるいは、労働者への分配をなるべく抑えようという欲望も生まれる。

2)命がけの跳躍をなるべく避けようとする。 つまり、確実に「売れる」ようにしたいと考える。
一番考えやすいのは、税金だ。
税金を扱う行政府に何らかの形で取り入れば、確実に納品でき、安心できる。
道路事業から原発産業、軍事産業まで、これらを「安定的収入」のもととして、資本家は経営者は確実にキープしようとする。
癒着が始まる。
全く社会的に必要がなくなってきていようとも、とてつもないコストと災害カタストロフィが予想されようとも、あるいは、それぞれの行政府の国家の威信を保つためだけの軍事力となってしまおうとも、「命がけ」も「跳躍」も避けたい人々は群がる。
あるいは、別の場所で「命がけの跳躍」を試みるためにも、確実な売れるところを保証として残そうと考える。

この「命がけの跳躍」を行わなければならない「資本の動き」の制度、これを原始的蓄積から、製造業から、再生産式から、個別利潤が社会的剰余へ転形する仕組みから、金融制度から、さまざまな方面に探りを入れていく、これが『資本論』という本だ。

(しかし、なぜかマルクスは国家を描かなかった。上でいう 2)の問題が書けていない)

なぜ「命がけの跳躍」をせねばならないのか、それが価値形態論になる。

つまり、人と人は市場で交換したいとき、「金銭」を媒介せずには不可能だ。しかし、金銭は全ての商品の価値を表すことができる「商品の王様」として現れる。だから、他のあらゆる商品より「金銭」は市場価値を持ち、「金銭→商品」の交換は容易なのに、「商品→金銭」の交換は困難きわまりない。

だから、「商品→金銭」の交換をなそうとする商人は「命がけの跳躍」に対するしかない。


では、このような「資本制度」からくる、いろんな矛盾を解決するにはどうしたらいいか。
上の 1)、2)の条件をじっと見つめるしかない。
ヒントは「命がけの跳躍」だ。
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by ganpoe | 2010-10-09 18:05 | Social or Economic