地域, 政治, 経済そして音楽・・・浅輪がんぽおのブログ

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カテゴリ:Books( 14 )


2013年 02月 07日

「農業こそ21世紀の環境ビジネスだ」

読書ノートです。

大地をまもる会、らでぃっしゅぼーや など有機農業の流通で第一線で活躍されてきた徳江さんの本。1999年とちょっと古いですが、おもしろかったです。

============
「農業こそ21世紀の環境ビジネスだ」徳江倫明(とくえ みちあき/エコ・ステップ・プランナー)1999年。

P. 105
「これまでのリサイクルというのは、大量生産、大量消費、大量廃棄の社会を前提にしたものであるからです。つまり、捨てるのはもったいないからという、人間の素直な感情にしたがって、使えるものは大事に使おうということで生まれてきた思想、あるいは運動の一つが、リサイクル活動だったのです。しかしそれは、高度成長時代の大量生産、大量消費、大量廃棄という価値観の、あくまでも補完的仕組み、あるいは考え方にすぎませんでした。
そういう意味で、本当の循環型社会というのはむしろ、リサイクルというものを前提にどのようにモノをつくるか、ということが大事になります。そのためには、素材を選ぶ段階から、リサイクルを前提にした選び方が求められます。」

P.143~
有機農産物は普通だった。

1961年の6月に制定された農業基本法によって、有機農産物が消えていく。豊かさから取り残された農業、農村、そこで、「農業分野への工業の論理の導入」

選択的拡大、産地指定制度 とは、分業制度を農業分野でも採用、嬬恋のキャベツなど。単一の品種を大量に生産し、大量に輸送し、価格を安くすることで、生産の効率を上げて農業経営を大規模化する。そして、大消費地、東京に安く大量に供給する。

産地に指定された農地には、冷蔵施設やストック基地など、物流体制を整えるための補助金を投入するほか、農薬や化学肥料も多投して大量生産が図られた。


・連作障害。同種類の作物を同一圃場に連作したときに、その作物の生育や収量、品質が低下する現象である。

・同一の栄養物のみが土中から採られたり、同じ病害虫が発生しやすくなったり・・・特定の養分が欠乏あるいは過剰になり、土壌が酸性もしくはアルカリ性障害

・微量なミネラル要素が欠乏。

・化学肥料は硫安や過リン酸石灰など。硫安はチッソを補う肥料として多用されている、過度に使用すると、土壌が酸性になり植物は生育しなくなり、ミミズやその他の微生物を殺す。ミミズがいないと土が固くなり、根も張りにくくなり、まったく植物が育たない嫌地現象まで引き起こす。



連作障害を防ぐために、土壌消毒剤や殺虫、殺菌剤などの農薬使用。

農薬の繰り返しの使用は薬剤耐性病害虫を生む危険性も。

高温多湿の日本では、病害虫による被害に常に晒されてはいる。最小限の使用に控える方法を探るべき。

p.154~
●日本有機農業研究会1971年10月 財団法人 協同組合経営研究所理事長 一楽照雄によって設立、

有機農業は気候条件に大きく左右されている、そのリスクを生産者、消費者で採るトラスト、産消提携
契約栽培 前もって消費者と生産者とが作付け量を決めて生産を開始する
全量引き取り 生産されたものは消費者が責任を持って全て買い取る。

●大地をまもる会、使い捨て時代を考える会(有機農産センター)、JAC、ポラン広場

共同購入
流通自体がコミュニケーションの場。
有機農業運動は地域のネットワークをつくる、一つの市民運動。

 女性の社会進出。共同購入の難しさ。

●らでぃっしゅぼーや

 1988年1月11日 夜間置きどめ個別宅配システム 
 野菜パレット 年間52週を通して採り続けるのが消費者会員の条件。季節の野菜が約10種類、セット詰め、届いてみないと中身が分からない。有機農業では大事なこと、産消提携。

 徹底した情報公開。生産者名とある事情で農薬を使用せざるを得なかった場合、その理由と使用した農薬の種類と回数の表示。生産者あるいは生産者グループの住所。


p.198
野菜の規格の細分化。

質、実はそんなに変わらない、なのに、なぜ細分化して価格を変えるか?
卸し市場法 卸(荷受け)の手数料は定率で野菜8.5%、果物7%で決められている。利益を上げるために、野菜の価格を高くする高値安定をつくりだす流通による手法。

p.244
有機農業の規格

無農薬/無化学肥料3年というものでいいか?

(こころがない)

有機農業五原則というものがあった
 有機堆肥を使用する、土壌消毒をしない、除草剤は使わない、農薬など仕方なく使った場合にはきちんと報告する、その他情報は全てオープンにする。
 情報オープンをすることによって、産消が直接交流する!これが一番大事。
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by ganpoe | 2013-02-07 19:46 | Books
2011年 10月 18日

ビアトリス・ポッター『消費組合発達史論(英国協同組合運動)』1891年

【参考資料】
Chapter 4: “From Cooperative Commonwealth to Cooperative Democracy: The American Cooperative Ideal, 1880-1940,” by Kathleen Donohue, 115-134: Furlough, Ellen and Carl Strikwerda eds., Consumers against Capitalism? / Consumer Cooperation in Europe, North America, and Japan 1840-1990, New York: Rowman & Littlefield Publishers, INC, 1990.

ビアトリス・ポッター『英国の協同組合運動』1891

118ページより。
「それ以前のイギリスの協同組合思想家と同じ様に、ポッターは社会の生産者たちの存在を高めるものとして協同組合を考えた。しかし、彼女は伝統的な考え方と違っていた。生産者協同組合を否定したからだ。彼女は言う、近代の産業社会では、そのような協同組合にはあまり勝ち目がない。うまく行ったとして、それらはアナクロニスティックで、近代以前のような小さな職人工場のようなレベルに戻るだけである。まずければ、生産者協同組合は、資本主義の競争者たちとほとんど変わらないように労働者と消費者を悪用するだけである。彼女はこう言う「つまり次のことが明らかである。すべての生産者の集合体は、資本家が労働を雇う形であろうと、労働者が資本を買う形態だろうと、あるいは、その二つの形の合わさったようなものであろうと、われわれの共同体の利益とまったく反するものになるだろう。残念ながら生産者として製品を販売する立場である限り、利益追求者にならざるをえない。生産コストと販売価格の間に大きな差額を維持しようとするだろう。」結局、生産者協同組合は、競争力のある資本主義システムの害悪を取り除くのにまったく無力であるということを証明してしまった。(156、167―8ページ)

生産者協同組合の難点を主張したポッターは、アメリカの協同組合思想の主流であった考え方に大きな疑問を投げつけることになった。つまり、消費者協同組合は単なる生産者協同組合の道具のような位置付けでいいのか。もし、生産者協同組合が最終的な到達点でなくなったとしたら、消費者協同組合とはいかなるものであるのか。更に細かく言えば、消費者協同組合がそれ自体価値があるものとして存在できるとすれば、生産者協同組合が持っていたような影響を、それはどう労働者のイデオロギーの中に生み出すことができるのか。Elyのような19世紀初頭の協同組合思想家は、それは無理だと考えていたのであった。しかし、ポッターにとっては、消費協同組合が労働者にとって持ち得る可能性は大である、という判断だったのである。

彼女は次のように記している。「個人個人の生産者がだれも同じ様に、自分の労働のための道具・機械とその生産物を所有できるような社会が、どんなに望まれても達成不可能」なので、労働者は個人個人が失ったものを「協同して取り戻さねばならない。」労働者はすでに労働組合を組織して、集団抗議をするという最初のステップを踏んだ。しかし、労働組合は、生産過程において起きた資本家の不正行為を指摘することしかできないだろう。

それに対して流通過程で起こる資本の不正行為は、彼らの能力を超えている。しかし、産業経済においては、商品市場において起こる搾取は、職場において起こるものと同じくらいひどいのだ。

ポッターは言う、労働者階級が、同時に消費者として、また生産者として組織されてこそ、それが成功するときにのみ、われわれは現在ある利益追求を基にした資本主義システムを変換させ、経済民主主義、一国の商業と製造業のなかに代表自治を創り上げることができるのだ。

流通過程において、労働者階級のメンバーは彼らの消費協同組合をとおして「独占価格を突き崩し、詐欺的な悪品質の商品を暴き出し、そして利益(それは、購買行為と販売行為の間に出てくる剰余である)これを直接、間接的に全体の社会に分配させるような形を作れるのだ」(168―9、218ページ)

このような複数の局面に作られる協同組織はまた、賃金の上昇による所得の損失を販売値段を上げることによって賄おうという資本主義のたくらみを、妨害することができる。労働組合を通して今度は、協同商店の為し得た生活費減少によるデフレを理由にして賃金を下げられるようなことを、防ぐことができる。(ポッターの労働組合と消費者協同組合の合併という案は、ラッサールの賃金鉄則、つまり消費者協同組合による消費物値下げは、賃金下降につながり、結局、意味を持たない、というような意見を完全に塞ぐことになった)

ポッターによれば、消費者協同組合の持ち得る変換力は流通過程のみに限られない。それは生産過程を変革する役割をも務め得る。消費者協同組合は自らが保有する工場に良好な職場条件を作るようにして、それが社会的な影響を持つようにすることができる。また、スウェットショップの様な劣悪な環境で作られた製品を協同商店に置くのを拒否したり、望まれる労働条件を維持しない会社の製品をボイコットすることによって、その影響をイギリス全体に及ぼすことができる。

だから、ポッターはこう結論づける。消費者協同組合は、「政界と同じ様に、産業界において主権を維持するための」車の両輪の一つなのだ。他の一つはもちろん労働組合である。この二つの局面・前線において、消費者として「そして同時に」生産者として、組織することによって、労働者は産業革命によってもたらされた経済的不平等を改善する希望を持つことができる。(193―203)

ポッターの協同組織に対する考えはそれ以前のElyのものを逆転させたといえる。Elyは、生産者協同組合の根本的可能性を強調し、消費者協同組合を軽視した。しかし、ポッターによれば、生産者協同組合は競争と利益追求に依存せねばならず、結局資本主義システムに固く縛られざるをえない。

消費者協同組合こそが資本主義経済への本当のオルタナティブを提出することができる。

それは競争ではなく、民主主義的コントロールに頼って、価格を下げ、質を上げることができる。またそれは私的利潤に頼ったシステムを「それぞれの男女が、自分だけの生活維持や儲けのためではなく、全体的な共同体のために働く」社会を作ることができる。短くいえば、生産者ではなく消費者協同組合こそが、「現在の産業戦争の中から、協同組合原則である『全員はそれぞれのために、それぞれは全員のために』にしっかりと根差した『産業の共和国』を創り上げる」根幹を成すことができる。(204-6、221)

究極的には、ポッターとElyは、なるべき、また可能である社会的政治的秩序に対する考えが違っていたために、協同組合に対するこのような意見の違いが現れてきたのだと思われる。両者とも、産業資本主義の最大の被害者を労働者と判断し、また、それへの対処策を協同組合に求めた。Elyにとっては、この解決策は階級闘争をなくすことによって最上になされると思われた。彼にとっては、生産者協同組合はその中において、生産者自身が資本家に成る事によって、そのような階級差を無くしてしまう。しかし、ポッターは階級闘争は近代産業秩序において、消すことができないような内在的なものであった。消費者協同組合のポッターにとっての魅力は、それがこの階級闘争において労働者が勝利することができる方向を示していることであった。」
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by ganpoe | 2011-10-18 01:42 | Books
2011年 07月 11日

「サクリファイス 自己犠牲」

 「サクリファイス」 自己犠牲。
 
 タルコフスキーの映画でずいぶん昔に見た。

 枯れ木、燃える家 枯れ木の脇に立つ人影。

 物語と自然神話と理性と映像。そういうものが混ざっていて、明確に記憶している瞬間がいくつもある。

 ゴダール映画では、物語と神話と理性と映像がバラバラになっている気がする。そして、きっとそれがゴダールの狙いなのだろう。自分はそういうバラバラな感覚をわざわざ映画や芸術に求めていないんだろう。ゴダールでは観念が思弁を重ね、周りの自然の風景はただ挿入される、利用される。

 タルコフスキーはずっと心に残ってきた。なぜだろう?ストーリーなんてほとんど分からないのに。人間は自然のなかに含まれ、そして例えば枯れた木に水をかけ続けるという労働を通して人間は自然とつながろうとする。
 「僕の村は戦場になった」水面のショット。少年が走る。色んなものが混ざった瞬間がやはりある。

 柳田邦男の自死した息子を綴った本にも「サクリファイス」というのがあり、それはまさにタルコフスキーの映画に強く影響を受け、そこで語られる自己犠牲によってだけしか、他の人に愛を降り注ぐことができない、とまで追いつめられた魂の話だ。愛は自己犠牲と表裏一体なのかもしれない。

 しかし、きっと、そこまで追いつめなくて、人間にはどこかで「あきらめ」が必要なのかもしれない。自分にはこの程度だよ、これくらいでいいじゃないか、うまく思うようにならない、そんなアホな自分でいいじゃないか、たまには自分を笑ってみよう。そんな気分になることも必要なんだろう。

 〈前触れもなくそれが汝の前にきて かかる時ささやくことばに信をおけ「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」〉三好達治の言葉が引かれる。

 死と再生 自然はその循環だ、繰り返しだ。
 
 再び生きる 再生 とはなんだろう。「大きい悲しみをのりこえていこうとする想い(想像力)によって再生は支えられていくのだ」
 
 それは、合理的に二元論で決められないものだろう。

 ずっと長い時間をかけて、一人一人が思い、物語り、対話し、祈り、触り、そんな「ファジー」な曖昧なところで、それぞれが「再生」していく、でこぼこしながら、曲がりくねりながら、壊れた道を当たり前のように歩きながら。
 そのようにして、いのちは受け継がれていくし、そして自然も人間もいくつものいのちが積みかさなっていくようにして、死と再生がめぐられてきたのだろう。

 「どんな日の終わりにでも、人は信じる理由を見つけようとする。それが不思議な気がする」といううたがスプリングスティーンにある。人はどんなときにでも、意味を、物語を探そうとする。そのことによって、自分の魂を壊れないものにしようとする。

 indestructivity (破壊し得ないこと)

 柳田邦男の本の中で、エリアーデのそんな言葉を引いている大江健三郎について何度か言及される。全編を通じて、大江のいくつかの小説に生きる証しを探そうとする、息子の魂を追っている。

 わたしは大江さんには、会ったことは無いに等しい。一度、9条の会の講演を聴きにいった。内容は忘れてしまったが「憲法にある「希求する」ということば。希望して求める、今まで使ったことの無いことば、それなのに、ああ、これだったと思えるそんなことば、希み求める、希求。」というようなことを言っていたのが、強くこころに残っている。

 もう一度は、ニューヨークで朗読会をしていたとき。顔を良く見たいと思い、近くに寄って座ったら、ちょっと不安そうに睨まれた。

 彼自身の普段の行動について、間接的にいろいろ聞いたことはある。男親の立場を強く出し過ぎている、ということも聞いたことがある。しかし、そういう短所も含めた彼という人間が、「救済を希求する」「再生」というようなことをテーマにした小説やエッセーを書き続けさせる原動力になっているのだろうと思う。

 八ヶ岳に行ったときに絵本美術館があって、そこに売っていた大江健三郎の『「自分の木」の下で』を買った。その場ですぐに開いて読み始めた。柔らかな木にたくさん囲まれた美術館横のオープン喫茶室で。

 そこに四国の山の故郷での祖母の思い出を語った稿がある。祖母は「この森のなかで起こったことを書きしるす役割で生まれてきた」そうだ。

 「その話のひとつに、谷間の人にはそれぞれ「自分の木」ときめられている樹木が森の高みにある、というものがありました。人の魂は、その「自分の木」の根方(ねかた)−−根もと、ということです−—から谷間におりてきて人間としての身体に入る。死ぬときには、身体がなくなるだけで、魂はその木のところに戻ってゆくのだ・・・」

 それを読んでいたのは多くの木に囲まれた、まさに木の下で、本の内容、物語と自分の感性と魂のようなもの、それと考え、理性、さらに周りの環境、それが全て一体になったような、そんな一瞬があって、それで今でもその柔らかい葉っぱの一枚一枚を覚えている。
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by ganpoe | 2011-07-11 22:52 | Books
2009年 01月 31日

『フェアトレード』

『フェアトレード』

 マイケル・バラット・ブラウンというイギリスのオープン・カリッジで活躍している人だが、第三世界情報ネットワーク(TWIN)及びそのフェアトレード団体であるTWINTRADE の代表をしていた人でもあるが、その人によるまさに『フェア・トレード』という題名の本がある。新評論から出ている。ちょっと古い本(1993)だがなかなか面白い。普通、こういった類の本は、1から10まで正しい、正しい、あなたは本当に偉い、否定の余地無し、ごもっとも、といった感じで、私は敬遠しがちなのであるが、この本は世界貿易の厳しい現実をしっかりと述べている。それを読むと、どうやってもフェアトレードなんて無理だ、というような気になるぐらいだ。冗談ではないが、こういう本は面白い。

 まず、世界貿易、というのはどういうことか、考えてみよう。基本的に、遠隔地貿易であるから、そこにはこういう問題がでてくる。つまり、ある商品を買った地域とそれを違う国に持ってきて売る、この間の距離が大きいのと、時間の差が大きい、ということだ。それがどういう問題か、というと、買ったときには、はるか遠くの場所と時間で、どのくらい売れるか本当に不明だ、ということだ。そうすると、買い入れるときは本当に賭けみたいなもんだ。

 ところがである。世界貿易というのは巨大な多国籍企業が牛耳っている。彼らにしてみれば、そんな賭けみたいなことはしたくない。そうするとどうなるか。負担を第三世界の生産者に振るのである。例えば、まず、種を買わせる。こうすると生産者にとっては借金だから、収穫期まで頭が上がらない。いや、収穫の後も同じである。できた果実は、多国籍企業はそれが消費者に売れたときに本当に代金を与える、というような契約で持って行く。どういう意味かというと、生産者にとっては、例えば春に買った種の分のお金は、はるか彼方、消費者に売れるまでの例えば秋や冬まで返ってこない、ということだ。

 いや、実はこれはどんな商売でもおんなじことなんではある。そしてこの仕入をするときには、その仕入れたものが売れるかどうか決定的な確信がもてない、まさに暗闇への決死の跳躍と称されるもの、これが存在するのだ。

 この『フェアトレード』という本でも、例えば、第三世界で自立的な農業生産者団体を作ろうとする協同組合が直面する問題がこう語られる。

 「協同組合が直面している主な問題は、農民が作物の出荷後、できるだけ代金を受け取る必要があるのに、組合は普通、豆が売れて始めて顧客から支払いを受けるということである。トウモロコシについても同じ問題がある。収穫の直後に価格が底をついていても、品物を売り控えておくことができないのである。農民が飢え始めると「コヨーテ(安く買い叩く中間貿易業者)」がやってきて、最低の価格を受け入れさせる。協同組合は何とかしてこの不測の事態を未然に防止しなければならないのだが、無資本か、資本があってもわずかである上、法外な利子率でしか信用が受けられないため、外部からの援助が必要となる。」(p.14)
 
 この本の前半に渡って、植民地時代からの奴隷貿易、などを通して出来上がった世界構造、セカイノカラクリが見事に語られる。ここはアソシエーターを目指すならぜひ知っておきたい知識である。教科書に載らない歴史、である。実際のところ、こういう事情を知っておくほうが、日本のすばらしい伝統、なんてのを教えるより、よっぽど安全保障に役立つのである。というのは、例えばなぜ命を棄ててまでテロをするのか、というようなことが分からない。貧困があるから、というような説明がある。もちろんそれは間違ってはいないが、それでは十分説明できない。そもそもまるで貧困にある人が悪いようにまで聞こえる。そうではない。いかに人間の尊厳を痛めつけるような世界貿易を行ってきたか、これが分からないと命まで棄てる人の心情はわからない。実際、テロをするようなものたちは、最貧困にある人たちよりも、どちらかというと中間にあるような人たちである。

 貧困にある人たちには確かに責任があるが、しかし、彼らは人のせいにばかりしているわけには行かない。彼らが自主性をどうもっていけるか、それが無ければ、セカイノカラクリは変えられないだろう。これに関しても述べたいが、もう長くなってしまったので、また次回。

(2004/5/10)
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by ganpoe | 2009-01-31 12:19 | Books
2009年 01月 09日

漫画【資本論】

ところで、イーストプレスの漫画『資本論』ですが、読みましたよ。
http://www.amazon.co.jp/%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96-%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%8C%E3%81%A7%E8%AA%AD%E7%A0%B4-%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4781600212/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1231512503&sr=8-1

このシリーズは当然チェックしてました。
沖縄の漫画制作集団が漫画化してるんですよ。世界の古典を。

で、資本論、思いっきりドラマ化してました。

家業のチーズ作りを工場制にしようとする息子。
これが投資家から金を借りて、雇われ経営者となる。
経営者としては、労働者を搾取せざるを得なくなる・・・
金持ちになれる積りが、実は自分も投資家の雇われ人に過ぎないような気がしてくる・・・

と言うくだりです。

資本論第3巻を全然理解していない(「資本論」は実は資本制度を次の段階に持っていく物として,(肯定的)に見ている。(括弧付きで,ですよ!)
・・・どころか、貨幣形態論にもまるで触れてません。

とは言え、これはこれで良いんじゃないか、という気もします。
雇われ労働人だけでなく,社長(経営者)も実は大変なんだ、みたいなところも出てますし。

この漫画の中では,投資家は一方的に悪者にされてますが、最近の金融不況も
奴らが悪いような気もしますし、まあ、いいか、みたいな。

でも、金融不況になると投資家も大変、ですかね(?)。

結局、人間は、『貨幣』と言う制度に振り回されているだけ?
見たいな気がしてきました。

この漫画を読んだら・・・いわゆる「物象化」というやつ。

要するに【貨幣】と言う制度で起こるいろいろな悲劇なのだが,
でも『投資家』とか『官僚』とか、誰か人間に責任を負わせて
悪者を考えたくなる。

(投資家/官僚批判の最たる物が,当時それらの事業に多く従業していたと思われていたユダヤ人迫害のナチズムである)

この漫画の中で〔僕達は奴隷じゃない・・・〕
と言うせりふが連呼されますが、
マルクス「資本論」では,賃労働者は,
奴隷ではなく、あくまで自由労働契約である。
その分,資本制は奴隷制より進んでいるんだ,と。
しかし、まるで誰かに支配されているような気がする。
実は,人間を支配しているのは、誰か他の人ではなく「貨幣」です。

かといって「貨幣」なしでは,人間の間の交換が成り立たない。

では、どうやって、人間が「貨幣」を支配できるか?
『金持ち父さん』の本はある意味でその問いだったので、面白かったんだと思います。
しかし、その本の解答が正しかったのかどうか、
要するに投資家になれば,「金を自分のために働かせることが出来る」
という回答は,
土地や株のバブルが崩壊した今、???ですけどね。

やはり、答えは、「協同組合」的なものを、どうやって
「現状の条件」=資本・国家制度のなかで、実現できるか。
そして目的が、「交換価値」のみでなく、「使用価値」「社会的必要」
により傾斜できるか?

・・・という問いを追求する、以外に無いと思います。

その意味で僕はやっぱり「地域政治経済学」が好き。
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by ganpoe | 2009-01-09 12:02 | Books
2008年 08月 23日

『東京から考える』

東 浩紀, 北田 暁大:『東京から考える』という本を読みながら考える。

東氏は、人間は、その生物的再生産の必要性から、セキュリティ問題に敏感になる。
下北沢のような「文化」を守るより、セキュリティを重要視すれば、再開発もありだ、と解く。

「再開発」がセキュリティ向上にたどり着くかどうか疑問だが、「生物的再生産」というあられもない現実の前には、個人主義とか自由主義の「理想」も簡単に覆されることがある、という。

筆者自身は、再開発された地域に育ったので、再開発は賛成で、住みやすいという。日荻窪にしばらく住んでいたが、子供が生まれたら乳母車で喫茶店に入れないそうだ。

ポストモダンな現代思想をやってきた人が、こんな思想に現在行き着いているのだろうか。

筆者たちがわざと論じるのを外した、という、経済的な背景が16号線的現実を招いているのであって、それらを『わざと外す』意味が分からない。経済的利害関係を括弧に入れて物事の「表面的」な面のみ論じるという、ポストモダン系の記号論的立場が破綻した議論ではないか。

大資本、大型店の出店規制枠の緩和、自動車販売増のための交通整備、これらがもたらしている現実であって、その結果が、エネルギー問題などによって成り立たなくなってきているというのが問題なのではないか。利益追求が社会的コストの増大を招き、資本の利潤追求も困難にしていく、という。


「地域」というのは、人間と人間、人間と自然との間の交流、交換、交渉・・・が行えうる場所であり、人間の再生産の最低限の領域と考えられる。

そのような「生活」の場としての「地域」というところから政治・社会・経済を考えようというのが「地域政治経済学」である。

「地域」は再生産のためのコミュニティの場、というだけではない。というよりも、面倒ないろいろな「交渉」の中で、個人の意志をどう成立させていくか、という学びの場でもあるはずだ。「個人主義」「自由主義」もそういう主体(Subject)形成の場がなければ、実践的に成り立たない。何かにぶつあたっていく(be subject to)過程で、人間は主体(subject)になっていく。

自由主義と生物的(動物的)再生産というのは二律相反するものではないと思う。

生物的再生産に適した(セキュリティーのしっかりした)地域のためには、「下北沢」的趣味を志向するような個人主義的価値観は多少犠牲にされてもかまわない、というような議論にはならない。

問題はどんな都市が、あるいは農漁村が、いいかということ、ではなくて、そういうことを決定していく過程に、普通の人が加われない社会構造にある、ということなのでは。政治的に、経済的に。
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by ganpoe | 2008-08-23 12:50 | Books
2006年 08月 31日

「当事者主権」

前に触れた中西正司、上野千鶴子共著の『当事者主権』を読み終えました。これはいい本だと思います。
http://www.iwanami.co.jp/hensyu/sin/sin_kkn/kkn0310/sin_k143.html

女性、障害者、少数民族、そのほか、さまざまな「属性」を持ちながら、つまり複数の特徴と、社会的立場が合わさったものとしての性格を個人は持つのです(個人の社会的性格)。しかし、その社会的に決められる、あるいは偶然に規定されるという存在だけでなく、自らの「個性」を「可能性」をポジティブに達成していく、という自由を持ちます。

そのような考えから、その自由を制約するような、社会的構造、あるいは偏見−−「不自由」にしているもの−−を、運動しながら除去していく−−それが(私の言葉で訳したものだけど)「当事者主権」という考え方です。たとえば、女性問題の専門家、医者、などが、女性・患者という当事者の生き方、生活方法などを決定するのではなくて、当事者自身が決定する、主権を持つ、という考え方です。

当事者主権、という考え方から、それぞれが住む地域社会を組み替える。すべての人が可能性を追求できる、また職を持つ自由を保証される、そういう地域をつくっていくという構想を著者たちは持ち、そして、それぞれの「当事者」としてのフィールドで実践してきました。

障害者の当事者運動としての自立生活センターの運動の軌跡には、勇気を与えられるのではないでしょうか。

私のしたいのは、このようなあちこちの地域の当事者運動の連絡網となるようなメディアをつくることです。

本来、トランス・コミック・エクスプレスも、まえにいたNAM(New Associationist Movement)も、そのような運動を目指すべきだったのだと思います。実際に不登校者のための学校などの運動が生まれつつあったが、しかし、結局当事者中心ではなく、エリートの考えの当事者たちへの押し付けの運動体、となってしまったと思うのです。

また、この『当事者主権』の本の最後に批判されているような、「非営利」「非具体的目標」団体は、その組織自体の存続を目指すようになってしまう、官僚制が育ってしまう、という現象、これがNAMには当てはまっていたと思います。ただ、良かったのが、自主的に組織を最後は消滅させることができた、ということでしょう。

現在、あちこちに散らばったインテリたちが一生懸命、それぞれの地域の当事者たちとつながろうと努力し続けてます。それらの活動をマンガやイラスト、写真などを盛りだくさんに紹介し、また、研究者などが分析する、そのような場を、メディアを作りたい。

話が別のところに行きましたが、ちょっと話の繰り返しが多いような気もしましたが、この『当事者主権』という本は急所を突いた、いい本だと思いました。おすすめ。


p.8 「高齢者に限らず、誰でもニーズを他人に満たしてもらいながら自立生活を送っている。そう考えれば、高齢の要介護者や障害者の「自立生活」は、ちっとも不思議なものではない。〔程度問題に過ぎない〕最後まで自立して生きる。そのために他人の手を借りる。それが恥ではなく権利である社会を作るために、障害者の当事者団体が果たしてきた役割は大きい。」

p.18「代表制の間接民主主義ばかりが民主主義ではない。民主主義には、直接民主主義や参加民主主義、そして多数決によらない合意形成のシステムもある。民主主義が多数決原理によっている限りは、人口の約3%といわれる障害者は決して多数派になれず、「最大多数の最大幸福」のために排除され抑圧される運命にある。また、当事者主権の考え方は、第三者や専門家に自分の利益やニーズを代弁してもらうことを拒絶する。誰かを代弁することも、誰かに代弁されることも拒否し、私のことは私が決める、という立場が当事者主権だから、代表制の民主主義にはなじまない。」

p・35「長い間施設や在宅で保護と管理の下にあった障害者は、失敗から学ぶ経験を奪われ、主体性を持たない子供や患者のように扱われ〔子供や患者にも主体性はあるだろう。健常者で、いつまでもパラサイトして主体性の無いやつもいるだろう〕、次第に家族や職員に依存的になり、前向きにチャレンジして生きていく意欲を失っていく状況に陥っていた。」

p・141「カネに対するこのような反感は、根拠の無いものである。カネを使うからといって、直ちに市場経済に巻き込まれるわけではない。貨幣には、交換、尺度、貯蔵、支払いの四つの機能があるが、このうち支払い機能は、交換や贈与によって生じた債務を、決済する機能のことである。おカネの歴史は、市場経済より古い。カネを生んだ人類の知恵は、捨てるのではなく活かしてよい。
介護保険のサービス価格は、公定価格であり、市場の需給メカニズムによって変動しない。それを貨幣で支払うのは、たった今受けたサービスという贈与をカネで決済することによって、債券・債務関係を今・ここで解消するという仕組みである。貨幣のやり取りによって、サービスの受け手は相手に無用な負い目を感じなくてすむし、・・・」

p・154「人口1000人あたりの精神病床数は、アメリカ0.5床、ドイツとフランス1.2床、イギリス0.9床に対して、日本は2.9床もあり、他の先進諸国と比べてはるかに多い。」

p・206「どんな運動や組織にも、いったん成立すれば、それ自身の存続が自己目的化してしまうという傾向がある。営利を目的とする企業体ならば、市場が必要としなくなれば、淘汰されるという道があるが、とりわけ非営利を旨とする公益事業、例えば国や自治体が作る外郭団体、公団・公社や財団などは、常態化し、肥大化するという傾向がある。
・・・組織を立ち上げるときには、その目的を決め、目的の完了と同時に組織が消滅するという、自己消滅系のシステム、遺伝子のようなものを組み込んでおく必要があるだろう。」
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by ganpoe | 2006-08-31 11:38 | Books
2006年 08月 28日

当事者主権とエリート批判

家に山のように積んである未読の本ですが、やっと岩波新書の中西正司、上野千鶴子共著の『当事者主権』に手をつけた(まだ読んでる最中です)。で、「当事者」という言葉に触発されて考えたこと・・・

「当事者」という言葉には、専門家や官僚によって決められるさまざまな社会システムに対して、それぞれの地域的な問題、介助を求める人たち、それぞれの「当事者」が決めていく社会、それを尊重するという意味があります。それは正しいし、また「社会的」効率から考えても、ずっといいはずです。

それはともかく、当事者主権から安易に一般的に「エリート批判」というような形につながるとどうかな、という危惧があります。この本に関してではなくて、一般的に良くあるような批判で・・・

エリートの限界とか言いますが、エリートの反対の言葉って何でしょうか?一般大衆?

もしそうなら、その反対語でもいえるのではないでしょうか?一般大衆の限界。当事者の限界。専門家の限界。それぞれの立場、現場のみから考えてしまうことによる「狭まれてしまった視野」から来る限界が?もちろん、個々の立場、現場を見ない、聞かないエリートがいるとしたら、それはぜんぜんだめです。

しかし、当事者やマイノリティや、の人たちが、それぞれの立場が絶対で、それ以外からの声には耳を閉ざす、あるいは、難しい、しかし的外れなことを言うエリート、というように拒否につながるとしたら、問題ではないでしょうか。

また、マイノリティであるほどえらい。マイノリティの言うことは正しい。というように、神格化してしまうような傾向があったら、これもおかしいと思います。よく、権力に批判的な社会正義派をかざしている人に多いのですが、第三世界なら正しい。虐げられている人なら正しい。というような雰囲気があったりします。

ベトナムなら正しい。東ティモールなら正しい、とか。

しかし、昔、ベトナム戦争時、ベトナムの大義のようにしてベトナムを賛美していた人たちは、その後カンボジアに侵攻するなどしたベトナム政府をどう説明するのだろうか。その前にも、社会主義国を資本主義に虐げられたものたちの運動として賛美していた人たちは、その後のソ連や中国などで起きていた大虐殺をどう説明できるのでしょうか。朝鮮の主体思想などといっていた人たちはどうでしょうか。

安易にマイノリティであるから、と賛美する人たちを、ですから私はあまり評価しません。怪しいものだ、と思います。そういうことによって、安易に正義の側についているかのような身振りができるからです。昔、社会主義を賛美していた人が、安易にさらにマイノリティだからといって第三世界の運動を支持し、さらにマイノリティということで、第三世界のうちの少数民族の運動を支持し、そのさらにマイノリティといってゲイの運動を支持する、・・・

私はもちろんそれぞれのマイノリティの当事者としての立場から起こる主張、運動を一般的に評価したいです。というか、当事者としての運動しかないと思います。しかし、マイノリティだからすべて正しいということはないでしょう。

それぞれの当事者が直面する問題と、大きな社会的な動き、まさにメジャーな政治経済の動きとの関係性をきちんと考えない運動、思想は最終的にはだめだと思います。

安易にマイノリティを持ってきて、エリートを批判したりするよりも、それぞれの立場の可能性が最大限に生かせるような、それぞれの可能性がうまくかみ合っていくような社会の可能性を考えるのがいいのではないでしょうか。

エリートの可能性、当事者の可能性、専門家の可能性・・・

私にとっては、それぞれの当事者が、明るく、プラス思考を持つことができる社会、というのが理想だと思います。(もちろん、個人の好みでマイナス思考を持ちたい人は、その好みを進められる。)
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by ganpoe | 2006-08-28 11:29 | Books
2006年 08月 03日

イスラム・イデオロギーには西洋思想が隠れているか?--ダバシ氏の『不満の神学』

これは2001年ごろに書かれたものです。
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9月11日におきた米国同時多発テロは次のような単純な図式のみにおさまるものではありません。

例えば、一方に、米国政府などがいうような「天才的な悪魔」の仕業(NYタイムズの記者、トーマス・フリードマンなどの言)、そして他方に、米国の海外政策の失敗(帝国主義的)。然し、このような評価のみでは、最終的に反アラブ主義、あるいは反米主義に行き着くのではないでしょうか。だとすれば、これらの考え方によって、その両者の報復の悪循環が止む事はありません。

他に第三の道はないか。この問いに答えるために、イスラム革命運動についてもう一度検討するべきではないか。

そのための手がかりとして、イスラム政治学のダバシ氏の本「Theology of Discontent (不満の神学)」は大きな示唆を与えてくれます。彼は、イランにおける共産党を主体としたマルクス主義運動への幻滅が「大衆への回帰」、「イスラムへの回帰」をひきおこし、そしてそれらの「回帰」を革命化させた、という観点を持っています。つまり、イスラム革命運動にはマルクス主義の亡霊が取り憑いているといえるでしょう。(注:この視点に関しては、批評家の柄谷行人さんからご教示がありました。)

(お断り:私がこれから述べる意見は、一般に言われているようなイスラム原理主義に関係するグループがアメリカ合衆国においてテロを行ったという判断に基づいています。ところで言うまでもなく、現在の時点では、犯人は正確には特定されていません。さらには、犯行を陰で許した者もいるかもしれません。したがって、もし真相が違うと分かったら謝罪するしかありません。しかしイスラム革命主義に関するここでの議論はそうした「真相」には大して左右されないと信じます。)

暗殺や反乱と比べて、テロリズムは現代的な現象と思われます。まず、技術的な発展がある。爆発物の発明。大量殺人の可能性。そしてまた、国民的同一性、あるいは民族的同一性、という価値観が誕生し、成立した歴史にも鍵があると思います。つまり、その同一のグループの中でなら、誰を狙っても、結局同じことを意味するわけです。

原理主義というのは、イスラム自身に直接根差しているわけではありません。西洋における革命運動から生まれてきたものです。例えば、キリスト教に根差した原理主義というのがアメリカ合州国にあるし、ヒンドゥーにもある。そして、ことイスラムにかかると、マルクス主義との歴史的なつながりがある。

ダバシ教授の本によると、マルクス主義はイランやその周りのアラブ諸国では既に一世紀以上の間、広がっていたのです。しかし、それらの国内の聖職権力者は(CIAと共に)それを弾劾してきました。とりわけイランでは、ソ連の影響もあって共産党(Tudeh党)の活動がありました。しかし、彼らは宗教心の強い民衆から支持を得ることができなかった。しかも彼らは、党の方針から逸脱するような言論を許さなかった。党員であったジャラル・アレ=アマドは、ソ連の干渉(特に石油利権を狙った)を嫌っていて、1948年に脱党します。彼はその後、いくつかの政治活動を渡り歩いた後、西洋の小説の翻訳を開始しました。(例えば、ジッド、カミュ、サルトル、ドストエフスキーなど。)そこから、流行のいわゆる「実存主義的立場」を身につけ、自ら小説を書きながら、イスラム教原典に向かう事になります。つまりマルクス主義的革命の理想から実存主義を通った後にイスラム教に戻ったわけです。(彼は元々信仰心熱い家に育ちました。しかし再びイスラム教に「戻った」ときには、よりラディカルな反西洋思想を求める事になります。)そして、1962年に「西洋中毒化(ガルブザデギ)」(英語訳はWestoxication)を発表し、多大な影響を与えます。彼は、そこで石油資本の進入によるアラブ圏の「西洋中毒化」を手厳しく糾弾しますが、その裏には彼自身の西洋(思想)中毒化、が隠されていたのです。彼は、イスラムの革命家となることを目指し、「イスラム・イデオロギー」なるものを推奨しますが、この言葉自体が、イスラムによって修飾された西洋思想であったのです。また、そこで彼は、西洋の技術は普遍的だから移入してよい、しかし、思想や文化はだめだ、というような事を言っています。その箇所を読んだ時、私の頭を今回のテロ事件がよぎりました。

彼は69年に心臓発作で死亡しますが、その後に来たのが、アリ・シャリアティです。ダバシ教授によれば、彼こそが最高のイスラム・イデオローグだ、という事です。シャリアティはパリで社会学を修めている間に、サルトルやファノンを知り、また、マルクス主義系運動、特に当時のトロツキストの革命運動やアルジェリア解放運動に深くコミットします。彼は1965年にイランに帰還します。彼はそこでマルクス主義革命を実行しようとしますが、当局に弾劾され、投獄される。また、そのままの思想では民衆の支持を得られそうもなかった。そこで、マルクスの革命思想をコーランの字句を元に読み替えようとします。これはやはり実存主義的立場を媒介にして行われました。革命家になる、という個人の選択の問題であり、その選択の前で個人はアラーの神の前に立つ。自らのうちにアラーが入り込み、そこで自らの生死はアラーとの神的合一となる、というわけです。

ホメイニ師の思想的、政治的なバックボーンであったモルテザ・モタハリは、この二人といくらか違ってはいました。彼は特にシャリアティに激しいライヴァル意識を持っていたのですが、出来上がった思想は同じようなものでした。彼は、西洋から輸入され特に若者に影響を与えていたマルクス主義に対して、イスラム神学を対峙させようとしたのです。しかし、彼自身は、西洋語を読まず、翻訳本に頼っていた。そもそも、マルクス自身を読んだ事はないが、パキスタンのイクバルという思想家がマルクスより優秀な唯物論を完成させたと勝手に宣言して(笑)、その人の本を読んでごまかしていた。それはともかく、革命的なマルクス主義に対抗するためには、イスラム教も革命化させねばならない、とモタハリは考えるに至ります。今までのイスラムは本当のイスラムではない、それは空想的である、イスラム法者による直接支配が、イスラムの原点にいたる現実的な道なのだ、と、エンゲルスの『空想から科学』へを思い起こさせるような議論を展開しました。実際の所、イランでは「政治的」である事は、石油資本やソ連と結びつく事であり、保守的であった。思想や運動を宗教的にを研ぎ澄ましていく事こそが、「革命的」であったのです。現実的な革命は、大衆に訴えるイスラムを通してこそ行われる。彼やホメイニ師に依って示された禁欲主義は、西洋文化(消費主義)のまさに正反対にあるものとして進められたのでした。

アレ=アマド、シャリアティの残したパンフレット、レクチャーの筆記は、ペルシャ語からアラブ語に翻訳され、イランを越えてアラブ圏全体に読者を持つこととなりました。彼らの運動は直接には、例えば、アラブ圏でのサラフィーヤという復興運動とつながります。特に有名なのはサイイッド・クータブというエジプトの思想家ですが、彼ももともと西洋のモダニズムと呼応する文学評論家でした。それが、50年代から60年代にかけて、急速に反西洋主義に走り(オクシデンタリズムといえるような「想像された悪の帝国」)そして、イスラム伝統、特に、13—4世紀のイブン・タイミーヤというモンゴルに対抗するために、アラブ国王と対決した人物を持ち上げるのです。この人物については、ビン・ラーディンも良く触れる事があります。

1950年代的思想から、60年代的な夢想する永久革命者、カストロからゲバラへの流れがここにもあったのかもしれません。つまり、テロにいたったのは、イスラム教自身の問題というよりも、西洋の反システム運動の理論的欠陥であったといってよいでしょう。「聖戦ジハート」という考え方は、既に死に絶えた伝統のもとで個人のうちに向けた問いかけのようなものだといいます。元々は、それほど残虐な思想だったわけではないのです。それに、「コーランか、死か」という考え方も実際の所、税金を払え、払わねば殺す、という意味のものだったといいます。ならば、ローマからモンゴルの各帝国とそれほど違ったものではありません。つまり直接テロリズムにつながる価値観ではなかったのです。

ですから、ビン・ラーディン率いるアルカイダなどが行っているのは、マルクス主義・トロツキスト革命(イスラム教のスパイスを振り掛けた)である、といえるかもしれません。イスラム革命運動はラディカルであり続ける、なぜならそれは永久革命だから。彼らは国境を越えたネットワークを作る、なぜなら世界革命だから。彼らは報復としての暴力を否定しない、なぜならファノン主義だから。彼らは神となった自分が死ぬ事に実存を見出す。もちろん、彼らの思想はトロツキーから、ファノン、サルトルを捻じ曲げたものだ、とはいえます。しかし、疑いようのないつながりがあります。

残念ながら、私はイスラム教学やアラブ研究に関しては全くの素人です。しかし、このダバシ教授の論点は確かに興味深いものだと思います。彼の考える通りだとすれば、現在の問題に対処する方法は、チェイニー米副大統領やラムズフェルド国防長官が行っているように、イスラム革命運動を力で押さえ込む事ではない。しかも、単にグローバライゼーションを批判すればいい、という話だけでもないのかもしれません。資本主義が続くならば、必然的にそれへの対抗運動は生まれて来ます。そしてそのような運動が大衆の支持を得る事に失敗した、とみなされれば、原理主義のような運動が再び起きて来る可能性は大です。なぜなら、それはモダニティ自身に内在する構造だからです。永久革命や世界革命が、宗教や国民的伝統と結びつけられる事によって大衆化が図られる、という構造は非常に危険です。日本の軍国主義、大東亜思想などもここから出てきたし、ムッソリーニも、ヒットラーもそうでした。

以上のことから、マルクス主義がいかに失敗してきたか、という歴史を見直すことが根本的な解決策である、と思います。国民国家と資本主義に対抗し、揚棄する運動は何か。新しい運動を、アラブ圏、そして、先進国で行っていく方法は何か。

Dabashi, Hamid, (1993), Theology of Discontent / The Ideological Foundations of the Islamic Revolution in Iran, New York: New York University Press.
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by ganpoe | 2006-08-03 01:25 | Books
2006年 01月 04日

創造都市への挑戦

TCXの連載にも書いたことですが、
本当の目的は剰余価値0か?Life(生活、人生、いのち)か?」

特に現在の工業化の時代から「ポスト工業化」の時代へ移っている、というときに、本当に必要な改革の方向は何なのか、これが重要な問題です。

今必要なのは、資本の剰余価値を減らす、分配を公正に、と言う経済理論から基づいた観念的な運動だけではなくて、さらに、そのような労働者の貧困が大きな問題であった19世紀の時代の運動理論だけではなくなっているのではないでしょうか。(だけでない、つまり、それも必要、と言うのは、第三世界の問題があるからです)

「社会経済」つまり、生活の様々なニーズの達成、環境の再生、文化の創造、そしてそのようなところから、産業・経済も新たな需要に向けて成長できる、このような新たな「ポスト産業化時代」の経済・社会システムに向けて運動していく、と言うのが何よりも重要になっていると思うのです。

さて、そういった問題を考える中で、「創造都市」と言うコンセプトが重要になってきていると言われています。

例えば、この本『創造都市への挑戦』などからはじめてみたらどうでしょうか。経済学における創造都市研究の第一人者、佐々木雅幸さんによる実に夢がある素敵な本です。ボローニャ、金沢などの、文化的にも経済的にも豊かな都市を例にして、これからのあるべき社会の姿を考えています。
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by ganpoe | 2006-01-04 11:19 | Books