地域, 政治, 経済そして音楽・・・浅輪がんぽおのブログ

ganpoe.exblog.jp
ブログトップ

<   2009年 01月 ( 20 )   > この月の画像一覧


2009年 01月 31日

イギリスの産業地区アソシエーションから 独米のコンバイン型大企業化へ

2004年7月3日


 プルードン。あちこちで自由にやる人たちがいながら、どうやって経済がうまく調整できるか。どうやって信用が保てるか。そういう問題を一生の間、追及し続けた。でも、これは難しい問題です。だけど、面白いヒントはたくさんある。そういう人。

 しかしまた、同時にプルードンのころのフランス社会、つまり19世紀の中ごろには、まだ可能性があった個人職人たちの自立、というのは、その後の技術力の発展、分業の必然性の中で、どんどん不可能になっていって、結局、大企業、国営企業、などが影響力を増していったのも歴史の事実です。それは主に1870 から80年代ぐらいに起きてきたことです。

 それまでは、イギリスが世界の工場、といわれるように、リードしていたんだけど、実を言うとイギリスの企業というのは中小企業が多かった。だから、そのころからの有名企業ってあまり聞きませんね。逆にあったのが、産業地区(Industrial Districts。経済学者マーシャルの用語)というもの。中小の企業が地域的に集まることによって、お互いに情報や労働力を融通しあって発展してきたものです。だから、イギリスの産業が発展した、と言っても、実際のところ、例えば前に話したオーウェンのスコットランド、マンチェスターにおける綿工業みたいにある一定の都市、その周りの地域のいくつかが発展していたわけです。

  1870年、80年から何がおきたか、というと、例えば、ドイツはそれまでいくつかの国に分かれていたのですが、統一ドイツができた。アメリカでは南北戦争が起き、北が勝つことによって、工業を中心とした国の発展が始まった。ちなみに日本も明治維新を始めましたね。そういう新しい工業国が伸びてきたのです。

 それらの国は、ドイツや日本なら民間だけでなく国の財源を利用して急速な経済発展を狙った。アメリカはどちらかというと民間主導ですが、銀行などを中心としてどんどん企業合併を進め、大企業化を目指しました。イギリスは、同じ民間主導でも、合併を自由市場経済を破壊するもの、として規制していたのです。そのかわり、中小企業同士の協定、カルテル、トラストは、それこそ、今までのイギリスの産業地区の伝統にのっとり、自由、としていたのです。大きな意味で言って、中小企業の経済発展のために、一定のアソシエーションは必要である、という考えですね。アメリカは逆です。そんな協定を結ぶことこそが市場を阻害する。しかし、合併による大企業化は市場における結果だから認める、ということです。

 しかし、綿工業が先導していた時代ならともかく、そのころは重工業化が、例えば、鉄鋼、造船、などが先導していた時代でした。綿工業では競争が激しくて(全体的な技術力が上がって、参入障壁が低くなってしまったので)十分な利益を得られない、と判断したドイツやアメリカの産業界は、巨大な資金力を投入して、重工業化を進めたのです。これが世紀の変わり目に明らかになってきたイギリスの没落。アメリカ、ドイツの台頭です。

 ただ、アメリカとドイツが違っていたのは、アメリカはまず西部開拓、という名のもとで、どんどん北アメリカを植民地化できた。重工業化に必要な原材料、資源、が豊富に入ったのです。それから、ドイツでは禁止されていた奴隷制度、これはもちろん、南北戦争の後、表向きは廃止されたのですが、安い労働力の供給源として役立った。もちろん、新しい移民もどんどん受け入れて、特にイタリアやアイルランドからの移民が増えてきた。

 それに対して、ドイツは周りが大国に囲まれていることもあって、植民地をなかなか広められなかったんですね。だから、20世紀に入ると、かなり強引に軍事力を使って侵略しようとした。イギリスやアメリカは自由主義で、ドイツや日本が軍国主義だ、といわれているのは、まあ事実ですが、それはもともと植民地を持っていたイギリスやアメリカに言われることではない、というところです。

 まあ、それはともかく、企業合併や国家の産業政策によって出てきた大企業化を、幾人かの社会主義者は、ある意味、中央で計画して統制していく計画経済が現れてきたもの、として歓迎する場合も多かったんですね。これをコンバイン(合併)型、と呼びます。いえ、私が勝手に呼んでるだけですが。。。

 えっと、そういう重工業化の流れの中で、逆に1970年代あたりから新しい地域アソシエーション型の経済の発展が注目されつつある、という話もしようと思っていたのですが、暑くなって来たので、ちょっと休憩を取ります。梅雨はどこへ行ってしまったのでしょう?夏日が続くようですが、皆様、お体をご大事に。敬具。

(つづく)


【参考文献】
マーシャル、アルフレッド『経済学原理』
中村剛治郎『地域政治経済学』
Dobbin, Frank, "Forging Industrial Strategy: The United States, Britain, and France in the Railway Age."
天気予報
[PR]

by ganpoe | 2009-01-31 12:23 | Social or Economic
2009年 01月 31日

アソシエーションの歴史(2)

2004年6月25日

 

 アソシエーショニズムと一言で言っても、実はいろいろなアソシエーショニズムがあって、特に、個々のアソシエーションとアソシエーションを結びつける仕方、これは議論として分かれるところだったのです。一般的には、それぞれのアソシエーションが代表を出し合って、それが中央評議会などを作る。そこにおいて、いろんな生産調整などをする、ということになっていたのですが、しかし、実際としては、中央に計画を専門にする機関があったほうがいい、ということで、結局、中央の官僚組織が複雑な計測や、計画、組織化を行う、という考えが主流だったのです。つまり、中央国家の下で調整されるアソシエーショニスト国家です。

 前回もいいましたが、サン=シモン派というグループに集った人に特にその特徴があります。その中からは、例えばスエズ運河を作ったり(レセップス de Lesseps)、フランス経済発展に中心的な役割を果たした銀行を創設したり(ペレール Pereire)、終にはフランスの皇帝になった人(ルイ=ボナパルト Louis Bonaparte)まで出て来ます。この様に中央の国家機構で全体を調整するのが効率いいし、正義にもかなう、という考えですね。こういう考えの大本には古代ギリシャの哲学者プラトン Plato がいます。哲学者による国家経営、というような。

 でも、この考えって、資本主義を批判してるようで、それと両立してでてきた官僚国家、とあんまり変わらないんですね。だから、あんた、それ批判て言っても現在の社会の仕組みとおんなじじゃん、てな訳です。運が悪いと、あくどい資本家を懲らしめる国家、この要素が強くなると、全体国家、見たいになってしまいます。その極端なのがいわゆるナチズム、スターリニズム。

 例えば、マルクス主義ってのを大成させたエンゲルス Engels、と言う人もこの系統ですね。彼は、当時出てきた大企業、つまり、生産部門から、部品部門、計画立案、資金調達、販売、貿易まですべての部門をこう垂直的に統合させて、その全体を本社が指令を出して効率よくやっていく、というようなシステムにとても魅せられていたんです。その流れが、結局、ソ連みたいな困った国家を作ってしまったんですね。

 そういうわけでアソシエーションと言っても、前にどっかで言ったような共同体的な全人格的没入、中央・共同体自身による支配、みたいな物とごっちゃになってしまったりしてる。

 そういうのを批判したのがプルードン Proudhon、という人。あくまで自由主義、何よりも自由が大切で、そのためにあらゆる権力を否定しようとした人。哲学者にありがちな自分の考え、論理で世界のすべてを説明できる、支配できる、というような考えから自由であろうとして、独立生産者が自主的に、限定された当座の利益のためだけに結びつこう、というシステムを主張したんです。

 でも、自由を目指す、ということは自分のだけでなく、赤の他人の自由も目指す、ということだから、ちょっと気に食わないようなことをあっちこっちでやる人たちもいてもいい、ということを認める、ということだった。しかし、あっちこっち自由でやるためには、支配関係がでてこないようにするしかない。そのためにこそ、エゴイストであるためにこそ、その目的にかなう範囲で逆にアソシエーションが必要だ、と考えた。ここがプルードンのオリジナルな点だったんですね。(と言っても、そういう考えは、スピノザ Spinoza、とか先行者がいたのですが。。。)彼はこういっています。

「工業的ないしは商業的アソシエーションが、その目的として、主要な経済的諸力の一つを実践させることを目指して、あるいはその本性上、共同企業、独占体、一つの企業名である事が要求される資本の運用を目指すようなときには、こういった目的のために形成されたアソシエーションが好成績を収めることがありえる。だがそうした結社は、このような成果をアソシエーション自体の原理のゆえに創造するのではない。それは、その成果を自らの諸手段に負うのである。

このことはあまりにも真実なので、同一の結果がアソシエーション無しで獲得されうるときには、人は常にアソシエーションを作らないことを好むものだ。アソシエーションは、本来、自由に対立する一つの拘束であり、われわれがそれに服することに同意するのは、ただわれわれがそこに十分な補償を見出す限りにおいてのみなのである。したがってわれわれは、すべての空想的アソシエーション構想に対して、次のような実際的法則を対置することができる。すなわち、人間がアソシエーションを作るのは、ただ不本意に、また彼がその他のことをなしえないからそうするにすぎない、というのがそれである。」(『十九世紀における革命の一般理念』)

 ここで言っているのは、まさにアソシエーションが、結びつく、ということを自己目的化して行って単なる共同体へと変化していってしまうことに警笛を発しているわけです。それは自由を拘束させる、と。つまり、「結びつく」というのは「自由になる、必要な限りの利益を得る」というエゴイスティックな目的。これを実現するために必要な範囲で仕方なくする手段。こういう限定した物として考えていたのです。

 というわけで、サン=シモン派からプルードン派まで、どういう目的で、どの程度、どういう組織で結びつくか、アソシエートするか、という問題なんですが、どうなんでしょうね。答えはその中間にある、ってのは、逃げか???

(つづく)
[PR]

by ganpoe | 2009-01-31 12:22 | Social or Economic
2009年 01月 31日

『フェアトレード』

『フェアトレード』

 マイケル・バラット・ブラウンというイギリスのオープン・カリッジで活躍している人だが、第三世界情報ネットワーク(TWIN)及びそのフェアトレード団体であるTWINTRADE の代表をしていた人でもあるが、その人によるまさに『フェア・トレード』という題名の本がある。新評論から出ている。ちょっと古い本(1993)だがなかなか面白い。普通、こういった類の本は、1から10まで正しい、正しい、あなたは本当に偉い、否定の余地無し、ごもっとも、といった感じで、私は敬遠しがちなのであるが、この本は世界貿易の厳しい現実をしっかりと述べている。それを読むと、どうやってもフェアトレードなんて無理だ、というような気になるぐらいだ。冗談ではないが、こういう本は面白い。

 まず、世界貿易、というのはどういうことか、考えてみよう。基本的に、遠隔地貿易であるから、そこにはこういう問題がでてくる。つまり、ある商品を買った地域とそれを違う国に持ってきて売る、この間の距離が大きいのと、時間の差が大きい、ということだ。それがどういう問題か、というと、買ったときには、はるか遠くの場所と時間で、どのくらい売れるか本当に不明だ、ということだ。そうすると、買い入れるときは本当に賭けみたいなもんだ。

 ところがである。世界貿易というのは巨大な多国籍企業が牛耳っている。彼らにしてみれば、そんな賭けみたいなことはしたくない。そうするとどうなるか。負担を第三世界の生産者に振るのである。例えば、まず、種を買わせる。こうすると生産者にとっては借金だから、収穫期まで頭が上がらない。いや、収穫の後も同じである。できた果実は、多国籍企業はそれが消費者に売れたときに本当に代金を与える、というような契約で持って行く。どういう意味かというと、生産者にとっては、例えば春に買った種の分のお金は、はるか彼方、消費者に売れるまでの例えば秋や冬まで返ってこない、ということだ。

 いや、実はこれはどんな商売でもおんなじことなんではある。そしてこの仕入をするときには、その仕入れたものが売れるかどうか決定的な確信がもてない、まさに暗闇への決死の跳躍と称されるもの、これが存在するのだ。

 この『フェアトレード』という本でも、例えば、第三世界で自立的な農業生産者団体を作ろうとする協同組合が直面する問題がこう語られる。

 「協同組合が直面している主な問題は、農民が作物の出荷後、できるだけ代金を受け取る必要があるのに、組合は普通、豆が売れて始めて顧客から支払いを受けるということである。トウモロコシについても同じ問題がある。収穫の直後に価格が底をついていても、品物を売り控えておくことができないのである。農民が飢え始めると「コヨーテ(安く買い叩く中間貿易業者)」がやってきて、最低の価格を受け入れさせる。協同組合は何とかしてこの不測の事態を未然に防止しなければならないのだが、無資本か、資本があってもわずかである上、法外な利子率でしか信用が受けられないため、外部からの援助が必要となる。」(p.14)
 
 この本の前半に渡って、植民地時代からの奴隷貿易、などを通して出来上がった世界構造、セカイノカラクリが見事に語られる。ここはアソシエーターを目指すならぜひ知っておきたい知識である。教科書に載らない歴史、である。実際のところ、こういう事情を知っておくほうが、日本のすばらしい伝統、なんてのを教えるより、よっぽど安全保障に役立つのである。というのは、例えばなぜ命を棄ててまでテロをするのか、というようなことが分からない。貧困があるから、というような説明がある。もちろんそれは間違ってはいないが、それでは十分説明できない。そもそもまるで貧困にある人が悪いようにまで聞こえる。そうではない。いかに人間の尊厳を痛めつけるような世界貿易を行ってきたか、これが分からないと命まで棄てる人の心情はわからない。実際、テロをするようなものたちは、最貧困にある人たちよりも、どちらかというと中間にあるような人たちである。

 貧困にある人たちには確かに責任があるが、しかし、彼らは人のせいにばかりしているわけには行かない。彼らが自主性をどうもっていけるか、それが無ければ、セカイノカラクリは変えられないだろう。これに関しても述べたいが、もう長くなってしまったので、また次回。

(2004/5/10)
[PR]

by ganpoe | 2009-01-31 12:19 | Books
2009年 01月 31日

自分探し?

よく、自分探し、という言葉を聞く。「自分」を探しにどこか外国にいく、というような話だ。でも、なんかおかしい。自分はここにいるのに、今まで行ったことの無いどこかほかの土地で自分が見つかる、というのも変だ。もちろん、僕はよく物をなくして自分で置いたとも思わないところで見つかったりするから、意外と行ったことも無いクアラルンプール辺りに僕がいるかもしれない。いるわけが無い。自分を探したいなら、今ここにいるのだから、ここで何かを始めたらいい。

 どこかほかの土地に行ったなら、探すのは自分ではなくて、他人ではないだろうか。もちろん、そんな他人は、今まで自分が常識と思っていた物とぜんぜん違う行動や考えを示してくれたりする。そうすると自分の考えなんかはぶっ飛んでしまって、なんかぜんぜん違う自分になってしまったりする。ようするに「自分探し」と称して旅をしたときに、自分が探せるわけは無く、つまり「自分」を捨て去ってしまうのが、旅、というものだ。

 今すぐ自分を探したいなら、今ここで何かを始めたらいい。というか本当のところ、自分なんて探すものではない。探して見つかるのは、遺伝とかDNA情報、とかぐらいだろう。何かほかのものになっていく、というのが自分というものだ。何になっていくか、それはアソシエーターになるしかないだろう。つなげる、つながっていく人に。

 自分を探す旅、そんなことよりもっと大事なのは、そして面白いのは、今の自分を棄てていく旅だ。今ある自分ってのは、自由な自分ではない訳。ってのは、まあ、遺伝子、というだけでなく、周りの家庭や共同体で作られた常識に固められた自分なの。それでは本当に自由ではないよね。自分からいろんな人と組み合って創造的になっていくこと、それがいろんな人たちとの関係(アンサンブル)によって出来上がっていく「自分」を自由にしていく、ということ。

 自分を探す、なら自由になること。そのためには今までの常識で固められた固い殻をガチンと割ってくれるような経験に出会わなくちゃ。そんな常識外れの他人に会わなくちゃ。それは、もちろん外国に行ってもいいし、今ここで自由になろう、と動き出せばきっと今ここでも会える。

 いろんな人とあって、次から次へと自分の殻を打ち破っていくこと、こんなことが可能なためには、たくさんの人たちと結びつかないとね。でも、またそういう人たちと共同体(仲良し仲間)を作ってその中で固まってしまっては、新しい常識の殻に移った、というだけ。アソシエートとは、多様な個性の混在の中で、対立を脱構築——両者にとって有利となり、対立が友好に変わるように、創造的に根本的に組み替えてしまうこと——させること。そうやって、自由な個人の共同体をつくってく、ということ。仲良し仲間ではなく、異質な人たちが友好によって結ばれていて、だからその異質性の数多い出会いが創造性につながる、という「コミュニティ」。次から次へといろんな人と結び合っていくことが、社会のアンサンブルとしての個人の自由につながっていく。

(2004 5/1)
[PR]

by ganpoe | 2009-01-31 12:17 | Social or Economic
2009年 01月 31日

アソシエーションとは?

2004年6月12日

 

 突然ですが、アソシエーション、と何度も言っているが、これはいったいなんでしょう?

  Association。元ラテン語であるが、つながる、とか、加わる、というような意味である。連想ゲームの連想、ってのもアソシエートである。つながっていく、いいと思って加わる。たとえば、ある運動クラブに加わる。映画好きが集まってクラブを作れば、映画好きのアソシエーション。

 ある人が自分のそのときの利益、興味などに従って、もし同じような意志の人たちがいたら、費用などを分担し合って作るのがアソシエーション。そうじゃなくて、問答無用で入らされていて、でるのも不可能、というようなのは共同体、コミュニティー。あと、自分の中の一部の必要だけを求めて、で、行動もお互いに認め合った範囲で負担しあう、というのがアソシエーション。コミュニティーというと全人格的な没入。ある一人丸ごとがその共同体の中に入ってしまう。たとえば、ヒッピーの文化であったようなコミューンってのは、もうその中で一人の生活全部が入ってしまうようなことですね。

 何でこんなことを細かく分けるかって言うと、都市、というのをどう考えるか、という問題とつながってきます。都市共同体、と平気で言ってるけど、都市は共同体かなあ?確かにある都市の中で丸ごと生活しているけど、それは一つの共同体、として考えるより、多様なアソシエーションの多層な連鎖、交錯、と考えたほうがよくないか。ジンメルという人が、現代人というのは様々なつながりがくもの巣のように絡まった内の結節点、といってますが、そういう感じ。いろんなつながりに属しているから、それだけ個人は自由になる。しかし、同時に個人はそれだけ忙しくなった、ってね。

 別に都市だけでなく、現在のように交通や、通信機器が発展していたら農村だって同じようになって行くんじゃないかな。ていうか、なっていかないと農村共同体って怖い。なんかそういうコミュニティっていいな、って勘違いする人がいるかもしれないけど、例えば、なんかミスしたら、もう逃げ場が無い、とかいやなところあるよ。多重所属があれば、別のアソシエーションに行けばいいだけ。いや、もちろん、ミスしたらそれなりの責任も取らなければいけないけどね。でも、もう村八分、ということは無い。契約上の責任をまず果たせばいい。

 会社、ってのはどうだろう?これは共同体だろうか?確かに日本では企業戦士、とか、会社主義、とかって呼ばれて、会社が家族です。共同体です、ってことをよく言われました。現在だってある程度そうだけど、リストラ、くびとかされたり、倒産したりすると、ふっとそれはやっぱりアソシエーション、つまり、必要に応じてつながっているだけなのかな、と思ったりする。

 でも、必要に応じてつながっている、というのは確かでも、それぞれの会社員のでは無くて、「会社」の必要に応じて、これといって問題を起こしたとも思えないのに、くびになるのはアソシエーションだろうか?そこに個人の自由はあるのかな?もちろん、会社アソシエーションは雇用の条件として、ある程度の能力を発揮できる人、でなければ退職してもらいます、という契約があるにはある。でも同時に生活費を稼ぐ唯一の場、として、やっぱり、自分の生活の全体が懸かっている、という面が会社にもあるので、単純にアソシエーションだ、とはいいにくい。やっぱり共同体的なところもある。

 そんなわけで、会社とはいったい何か、って言うのは難しい問題なんである。場所や時代によっても違う。前に言ったように日本の会社は共同体のほうに近い、といえるかもしれない。で、ヨーロッパではもっとアソシエーション的    19世紀なんかは割合アソシエーション的にやってたけど、20世紀になり大企業が出てくると、もっと共同体的になって、終身雇用、みたいなのが一般的になる。でも最近になって、情報や通信のシステムの発展によって、また個人の能力が重視され、会社への忠誠は少ない、どちらかというと一時的なプロジェクトのための集まり、というようなアソシエーションみたいな考えが増えてきている。

 とはいっても、会社というのはアソシエーション的なのと共同体的なもの、それからやはり雇用者、被雇用者、という支配関係的なもの、なんかが入り混じったもので、その一つの特徴だけを取り上げるわけには行かない。

(つづく)
[PR]

by ganpoe | 2009-01-31 12:16 | Social or Economic
2009年 01月 31日

アソシエーションの歴史

2004年6月15日

 http://tcxpress.com/aswt_58.html

 アソシエーションという考えの歴史を振り返ってみたいと思います。それは19世紀のはじめにさかのぼります。当時は、産業革命の結果が長所、短所あわせて明らかになってきていました。たとえば、機械生産による巨大な生産力の向上が見られた。しかし同時に貧富の差が拡大し、たくさん物が生産されても必要な人のところに行き渡らない、という現象が出てきた。

 で、これを見て、もっと道徳的な社会を作るべきじゃないか、というような人が現れました。有名な人で言うと、スコットランドのロバート・オーウェンRobert Owen。フランスのサン=シモンSaint=Simonとか、フーリエFourier。

Robert Owen Saint=Simon Charles Fourier

 オーウェンというのはすごい人で、20代の内に、スコットランドでもっとも大きな綿工場を経営するようになりました。それだけでもすごいですが、その後、労働者の環境をよくしたり、もっと平等に利益を分配できるようにしたり、協同組合、といって労働者が出資しあって工場を経営していく方法などを次から次へと実行していきました(失敗したものも多かったのですが)。

 サン=シモンはちょっと宗教がかった人で、サン=というのは聖、と言う意味ですね。自分は偉大な人間であると信じていて、キリスト教をさらに革新させて(ルターの後)全労働者を経済的にも救わなければならない、と訴えました。彼の後に続いた人たちは、それぞれの高い社会的地位からフランスをよりよくしようと活躍しました。といってもそれは中央から地方、下層階級を救う、という感じで、フランス官僚の立場を上げただけだった、という面もあります。

 フーリエもおかしな人ですが、世界人類が結びつけば、人間の感覚面なども全面的に発展できる、というような考えがありました。彼の書いたものは結構笑えるので、ぜひ読んでみてください。しかし、彼は誰か他の人が自分の著作を読んで、事業資金を持ってきてくれるだろう、と毎日決まった時間に自分の家で待っているだけだったり、ちょっと活動的とはいえないかもしれない。

 ともかく、彼らは労働者の就労環境を改善したり、利益をもっと平等に分け合ったり、あるいは生産と消費、ニーズとの間をもっと調和させようとしました。それでいろんな提言をしたり、いろんな社会的実験をしたんですね。そのいくつかは取り上げられたし、成功したけど、また多くは失敗した。そういう中で一つ、特にフランスで人気が出てきた考えが「アソシエーショニズム」と呼ばれるものだったんです。

 アソシエーションとはすでに言ったように、労働者たちが自主的に生産者として集まること。別の言葉で言えば、生産者協同組合ですね。それぞれがお金と技術などを出し合って、一つの事業体として経営していく、ということです。さらにそういう個々のアソシエーションがつながって協議会のようにしてつながっていって全社会を作る、というのが一般的なアソシエーショニズム、というものの考え方です。これは、資本主義社会のわずかな資本家がいて、彼らが生産設備などを所有していて、必要に応じて大多数の労働者を雇ったり、働かせたりする、しかし、大多数の利益は資本家に行く、というようなシステムのオルタナティブとして考えられたものです。

(つづく)
[PR]

by ganpoe | 2009-01-31 00:21 | Social or Economic
2009年 01月 28日

下北沢まち歩きリポート(09年1月17日)

毎月 第3土曜日に恒例となりつつある 下北沢まち歩き。

今回は,早稲田大学の英字新聞「Waseda Guardian」の方が取材をかねて見られると言うことで,楽しみにしながら待ち合わせ場所に向かう。ほかに東京大学の方と下北沢地区行政訴訟のサポーターの方が参加。みんな積極的で魅力的な人たち。

最初に歴史的・制度的背景を説明する際に,僕の語り口はちょっと、とちりとちりであったが,木下区議の力も借りながら,だいたいのところを説明。ちょっと冷や汗。

とりあえず,話をまとめて,後は得意のまちを歩きながらのトーク。

タウンホール脇の自転車置き場に立てられている道路計画認可の立て看板の前に立ち,実際の風景と合わせながらお話。行政の人たちも便利な物を作ってくださって,ありがたいことです。

その後,ちょっと坂をあがりながら,スズナリ劇場、下北沢教会などの第ニ工区の予定地を見て回る。教会の庭はまさにその予定地の真下にある訳だが,その上にそびえ立っている三角形のマンション、この角が道路予定地の線に沿っていることを説明。

予定地のところには,鉄筋コンクリートなど,後で建て壊しが大変そうな建物は建てないようにとなっているので,その場所は広場のようにして,丈夫なマンションを道路予定の線の外に沿って建てたそうだ。計画がある間は,何も建てられないからだろう。とはいえ,第二工区が実際に認可され買収が始まるのは,10年ぐらいはかかるのではないか。いや,始まるかどうかも怪しいと思う。

そういえば,今回のまち歩きは,道端で非常に多くの知り合いに会い,参加者にも「下北沢の路地界隈性」=知り合いに多く会えるまち,と言うのを印象づけた。まあ,今回の会いっぷりは,かなり特別すぎたかんじもあったけど。

その後,道路予定地をゆっくりと説明しながら歩く。しかし,今は1月。日が暮れてくるとともに,寒くなってきた。

急ぎ歩きになって,東洋百貨店の中に避難。

そこから、「うわさの」3階からピーコックビルの4階に抜ける通路を通って,暖かい室内でちょっと長話。

後は駅前市場などを早足で歩き,グルメタウン跡地がすっかり更地になっているのを見たりしているうちに,後でお茶によるよ,と伝えておいたチベットチベットの和気さんから「まだ着きませんか〜〜」のコール。ふと時計を見ると,既に2時間半も歩いている。

あわててモアカフェの前を通ったりしながら,南口を駆け下りて,チベットチベットに到着。

ちょうどその日、夜に貸し切りイベントがあるそうで,それまで僕たちが貸し切り状態。気を使ってくださって,お店の方々,ありがとうございました。

そんな中で,学生を中心とした参加者から、積極的な質問が飛ぶ。

論点の一つは、「下北沢」は「学生街」と言えるか,ということ。

いわゆる大学の前に広がっている街ではないので,学生街とは言えないのでは。しかし,そこには劇場やライブハウスや古着屋が多くあり,そういう「文化」の香りが学生を呼んでいることは確か。

学生だけでなく,いろいろな意志を持った人が集い,そこから起業していった例も多い。

「文化」と言う筋があって,学生から卒業してそこで起業して仕事もし続けようという,そういう魅力を持った街 ーー そういう魅力を持った街こそが,この現在の金融不況/自動車不況を越えて,「生き続ける街」につながるのではないか,そんなことを僕は語った。

だから,狭い路地が多くて再開発できないと街が寂れる,と言うのは,古い工業化時代の考え方だ。これからは逆に「街並み」に「文化」に魅力がある街、そういうところにこそ,意欲を持った人たちが集まり,いろいろな社会的・経済的変化にも対応できるような「経済発展」を作っていく,それこそがこれからの「経済モデル」であるのではないか。

そう,「文化」や「環境」はこれから決して「経済」に対して対立する物ではない。「文化」や「環境」を守ろうとすることが本当の「ニーズ」を掘り起こし,「持続する経済発展」につながるのだ。

一番重要なのは,実際にその町に,住む,働く,集う人々の間で,「路地」性、が生きていること。

「路地」で人々が情報を交換し合い,次の街の方向性に関して知恵を絞り合い,試し,行動し,時代に乗っていく,継続的に発展し続けていく、そういう風に「街が生きている」ーー理想論かもしれないけど,今の世の中を見ていると,これこそが一番現実的なのではと思う。

上から計画的に作った表向き「路地風」な町があったとしても、どこかの再開発地区みたいに,流行が終われば,飽きられて,そして,時代の変化に自ら,内から対応できず,廃れてしまう・・・のでは。

いつしか,まち歩きレポートから逸脱していつもの「地域政治経済学」論になってしまったが,この街歩き自体がいつも新しい・魅力のある人たちとの出会いの場を提供してくれていて,僕はまた来月の新しい出会いを楽しみにしてしまうのだ。
[PR]

by ganpoe | 2009-01-28 12:05 | Events
2009年 01月 24日

ユーロ崩壊?

うわさ、うわさなんだけど,

現在の金融不況で,各国が自由な財政政策をとりたかったり,国によって,財政赤字の度合いが違って,他の国が負担と考えたりするらしくて,特にドイツとかでユーロ離脱まで考えてるとか。。。

元々,ユーロって怪しい仕組みだと思ってたが(アメリカ帝国主義に対抗する独仏の帝国化への夢???見たいな。)、負担になると,またポイッと捨ててしまうのかな?

本当に1929年の大恐慌のあとみたいに、ブロック経済が広がって,戦乱とかにならなければいいのだけど・・・

あの不況の後、強引に抜け出すために,各国で,土木事業と軍事産業を押し進め,それが,現在までつながっている経済の枠組みなのはご存知の通り,1935年体制・・・と言ったかな。

グリーン・ニューディールとかも言われてるけど,結局「成長し続けなければ行けない」資本制の流れにあることは同じ。

また,同じような金融バブルが繰り返されるんだろうな・・・

一番重要なのは「情報の公開制」にあるのですよ。そこまで行けば,世界はよくなる。
[PR]

by ganpoe | 2009-01-24 12:04 | Social or Economic
2009年 01月 16日

和気優とストーンズ

ソウルフラワーユニオンのライブの次の日,下北沢でTibet Tibetと言う店を経営している,ミュージシャンの和気優さんのテレビドキュメンタリーを見て,不覚にも涙を流してしまった。

和気さんとは,今年の雑居祭りで同じ舞台に立った。
圧倒的な存在感だった。

11月にテレビ東京で放映されたドキュメンタリー。

夏の間,2ヶ月ほどかけて,全国をバイクに乗って,ギターを背負って廻る和気さん。
昼間には,自ら電話をして,少年院とか,擁護センターなどを廻り,道を誤りつつある少年・少女たちに全力であたって,歌を伝えようとする。
心を開こうとしようとしない子供たちも多いが,歌の力と人柄の存在感と(それと多分,あの髪を触りたくて(笑)、子供たちは群がりだし,ギターを手に取る子もいる。

うたは誰のものか?

それは誰にも所有されないものだ。
心を埋め尽くして,そして次の人たちに渡っていく・・・

ところで、Tibet Tibetの店の前からバイクツアーで旅立とうと言う和気さんを万歳して送り出す人の中に,下北の飲み屋でよく会う「博士」がいた。この人っていったい???

その後、新宿まで出て行ってローリングストーンズの映画を見た。

とにかく、ミックがよく動くこと。キースがよく笑うこと。

スタジオ録音はあまり聞かないが,このライブの音はすばらしい。

シダさんがミュージックマガジンでも指摘していたが,アップになった人が鳴らしている音が「これだよ」と分かるようにしているのも,配慮が聞いていると思う。画面で移っている人の「声」が聞こえるかのようだ。(実際のライブでは,エレキを使っているので,実際に近づいたからと言って音は大きくならない。アンプからPAが調節した音が聞こえ続けているだけ。)

もっと最近の曲もやってほしかったが,これはこれで楽しめた。

というわけで,土曜日のシモキタまち歩き,ソウルフラワーライブ共々,とても音楽的に,人間的に充実した週末でした。
[PR]

by ganpoe | 2009-01-16 11:56 | Music
2009年 01月 09日

漫画【資本論】

ところで、イーストプレスの漫画『資本論』ですが、読みましたよ。
http://www.amazon.co.jp/%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96-%E3%81%BE%E3%82%93%E3%81%8C%E3%81%A7%E8%AA%AD%E7%A0%B4-%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4781600212/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1231512503&sr=8-1

このシリーズは当然チェックしてました。
沖縄の漫画制作集団が漫画化してるんですよ。世界の古典を。

で、資本論、思いっきりドラマ化してました。

家業のチーズ作りを工場制にしようとする息子。
これが投資家から金を借りて、雇われ経営者となる。
経営者としては、労働者を搾取せざるを得なくなる・・・
金持ちになれる積りが、実は自分も投資家の雇われ人に過ぎないような気がしてくる・・・

と言うくだりです。

資本論第3巻を全然理解していない(「資本論」は実は資本制度を次の段階に持っていく物として,(肯定的)に見ている。(括弧付きで,ですよ!)
・・・どころか、貨幣形態論にもまるで触れてません。

とは言え、これはこれで良いんじゃないか、という気もします。
雇われ労働人だけでなく,社長(経営者)も実は大変なんだ、みたいなところも出てますし。

この漫画の中では,投資家は一方的に悪者にされてますが、最近の金融不況も
奴らが悪いような気もしますし、まあ、いいか、みたいな。

でも、金融不況になると投資家も大変、ですかね(?)。

結局、人間は、『貨幣』と言う制度に振り回されているだけ?
見たいな気がしてきました。

この漫画を読んだら・・・いわゆる「物象化」というやつ。

要するに【貨幣】と言う制度で起こるいろいろな悲劇なのだが,
でも『投資家』とか『官僚』とか、誰か人間に責任を負わせて
悪者を考えたくなる。

(投資家/官僚批判の最たる物が,当時それらの事業に多く従業していたと思われていたユダヤ人迫害のナチズムである)

この漫画の中で〔僕達は奴隷じゃない・・・〕
と言うせりふが連呼されますが、
マルクス「資本論」では,賃労働者は,
奴隷ではなく、あくまで自由労働契約である。
その分,資本制は奴隷制より進んでいるんだ,と。
しかし、まるで誰かに支配されているような気がする。
実は,人間を支配しているのは、誰か他の人ではなく「貨幣」です。

かといって「貨幣」なしでは,人間の間の交換が成り立たない。

では、どうやって、人間が「貨幣」を支配できるか?
『金持ち父さん』の本はある意味でその問いだったので、面白かったんだと思います。
しかし、その本の解答が正しかったのかどうか、
要するに投資家になれば,「金を自分のために働かせることが出来る」
という回答は,
土地や株のバブルが崩壊した今、???ですけどね。

やはり、答えは、「協同組合」的なものを、どうやって
「現状の条件」=資本・国家制度のなかで、実現できるか。
そして目的が、「交換価値」のみでなく、「使用価値」「社会的必要」
により傾斜できるか?

・・・という問いを追求する、以外に無いと思います。

その意味で僕はやっぱり「地域政治経済学」が好き。
[PR]

by ganpoe | 2009-01-09 12:02 | Books