1 2011年 07月 25日
SHIMOKITA VOICE 2011に向けて シモキタ再生 http://shimokita-voice.tumblr.com/ 下北沢の再開発見直しをめざすSave the 下北沢,下北沢商業者協議会、まもれ!シモキタ行政訴訟の会、そしてSHIMOKITA VOICE実行委員会のメンバーたちにとって,前20号(3月25日発行)から現在までは、多くの転換が起きた日々でした。 ひとつは,世田谷新区長の誕生。 ひとつは,世田谷エネルギーシフト55パレードです。「脱原発。こどもの日に,こどもたちの未来のために,代替エネルギーへの転換を行っていこう」と訴え,梅ヶ丘から下北沢まで歩く人々は800人を数えました。 さらに、5月28日には,下北沢カトリック教会 被災地支援フリーマーケットを行いました。出店料などを義援金として直接被災地に渡すだけでなく,お店を再開した被災地の花屋からガーベラなどの花を仕入れ,経済的な交流でもつながりを深めたいというイベントになりました。 このような311以後の大きな流れの中で,8月27日(土)、28日(日)に予定しているのが,SHIMOKITA VOICE 2011です。 昨年のテーマは「Shimokita is dead? (下北沢は死んだのか?)」でした。 世界的な不況、再開発狙いの建物の立て替えと家賃の高騰などがおき,下北沢のまちが,いままであった魅力を失いつつあるのではないか,という危機感の中で行われました。 悲しいことに今年は大震災・原発事故が起き,日本中が「Dead?」と問われるような時代が来てしまいました。 グローバルな生産流通システムの中で,港などの流通が破壊され、製造業から農業まで、部品が届かない,穀物が届かないなど、経済が危機に瀕しています。いかにそれぞれの地域がグローバル経済の中に組み込まれ,身動きできない社会になっていたかを明らかにしました。 下北沢の再開発も,グローバル化に大きな影響を受けていました。東京を世界一の金融都市にしようと,都心に必要ない施設を周辺に移築させ、都心には金融・世界資本の事務所を集中させようという巨大開発計画の中に,下北沢も組み込まれていたのです。 シモキタ再開発の第1次が、奇しくも日本の原発開発の父ともいえる中曽根政権下の1980年代からバブル崩壊までの90年代前半でした。その時,小田急高層化でまちが揺れました。 第2次が,小泉政権下の新自由主義です。その流れの中で,戦後すぐにつくられ眠っていた補助54号線計画などがゾンビのようによみがえってきたのです。 東京集中化の国土計画は,当然、地方の切り捨てが他方にあります。公共事業を東京圏に集中させるということです。放置され、過疎化を危惧する地方のあちこちのまちで,例えば,原発の立地、新規建設を誘導・促進して,補助金を得ようという動きにつながっていたのです。 補助金に頼ると,地域の人たちがつながって自分たちで工夫をしようとしなくなってしまいます。頭が無くなり,手足だけ残って他にコントロールされてしまうような事態です。 頭が無くなっていくと、地域が自ら時代に即して変わっていくことが出来ません。それが、またあらたな過疎を生み,次なる補助金を狙おうという麻薬に毒されていくことになるのです。 それが「原発ルネッサンス」というものだったのです。 一方で,頭だけでは,だめです。現場に行かないと。 東電の経営陣(頭)が,事故現場(体)に行かないで,ミスをお互いでしあっていたようなことになってしまいます。 ご存知の通り,長野県栄村でも震度6強の大地震が起きました。しかし、そこではコミュニティーが生きていたおかげで,まさに隣同士の機敏な助け合いで奇跡的に死者ゼロですんだのです。頭と体と両方使える地域がいかに大切か。 311の一番の教訓は、この東京都心を中心として,東京圏を,日本全体を組み替える,グローバル化の巨大開発が一挙に破綻したということだと思います。 戦後復興という言葉が昔使われていました。 しかし,それは戦時の統制経済を「復」活させ「興」しただけでなかったのではないでしょうか。地域独占の電気会社のシステムも含み,戦時の悪い社会システムがいままで継続してきてしまっています。 本当になすべきことは戦後の「転換」=エネルギーシフトだったのです。 いまこそ、単純な復興ではなくて,下北沢エネルギーシフトを行い,本当の豊かさを感じられる,持続可能な発展をめざしましょう。 このような大きな「エネルギーシフト」の流れで、もう一度、下北沢の独自の魅力と意義,そして巨大エネルギー消費を伴う再開発・工事がもたらす弊害,これを住民、商店のみなさまと再びとらえ直したい、下北沢を再生させるきっかけ、そのような場に今回のSHIMOKITA VOICE 2011がなればいいと思います。 下北沢近辺の多くのお店や団体・個人で、賛同いただける方に,ぜひ共催・協賛イベントを開いていただけるよう,呼びかけたいと思います。 トークイベント、音楽ライブ・コンサート、美術展,落語・演劇、様々なイベントをあなたのお店で,集会所で一緒に行いませんか。 一日、一カ所だけのイベントだけでなく,下北沢のまちに広がり,みんなで知恵と力を出し合って,下北沢のエネルギーシフト,そして,それが日本・世界全体のエネルギーシフトにつながるように、大きな一歩を一緒に踏み出していきましょう。 ![]() ▲
by ganpoe
| 2011-07-25 13:51
| Social or Economic
2011年 07月 11日
「サクリファイス」 自己犠牲。 タルコフスキーの映画でずいぶん昔に見た。 枯れ木、燃える家 枯れ木の脇に立つ人影。 物語と自然神話と理性と映像。そういうものが混ざっていて、明確に記憶している瞬間がいくつもある。 ゴダール映画では、物語と神話と理性と映像がバラバラになっている気がする。そして、きっとそれがゴダールの狙いなのだろう。自分はそういうバラバラな感覚をわざわざ映画や芸術に求めていないんだろう。ゴダールでは観念が思弁を重ね、周りの自然の風景はただ挿入される、利用される。 タルコフスキーはずっと心に残ってきた。なぜだろう?ストーリーなんてほとんど分からないのに。人間は自然のなかに含まれ、そして例えば枯れた木に水をかけ続けるという労働を通して人間は自然とつながろうとする。 「僕の村は戦場になった」水面のショット。少年が走る。色んなものが混ざった瞬間がやはりある。 柳田邦男の自死した息子を綴った本にも「サクリファイス」というのがあり、それはまさにタルコフスキーの映画に強く影響を受け、そこで語られる自己犠牲によってだけしか、他の人に愛を降り注ぐことができない、とまで追いつめられた魂の話だ。愛は自己犠牲と表裏一体なのかもしれない。 しかし、きっと、そこまで追いつめなくて、人間にはどこかで「あきらめ」が必要なのかもしれない。自分にはこの程度だよ、これくらいでいいじゃないか、うまく思うようにならない、そんなアホな自分でいいじゃないか、たまには自分を笑ってみよう。そんな気分になることも必要なんだろう。 〈前触れもなくそれが汝の前にきて かかる時ささやくことばに信をおけ「静かな眼 平和な心 その外に何の宝が世にあらう」〉三好達治の言葉が引かれる。 死と再生 自然はその循環だ、繰り返しだ。 再び生きる 再生 とはなんだろう。「大きい悲しみをのりこえていこうとする想い(想像力)によって再生は支えられていくのだ」 それは、合理的に二元論で決められないものだろう。 ずっと長い時間をかけて、一人一人が思い、物語り、対話し、祈り、触り、そんな「ファジー」な曖昧なところで、それぞれが「再生」していく、でこぼこしながら、曲がりくねりながら、壊れた道を当たり前のように歩きながら。 そのようにして、いのちは受け継がれていくし、そして自然も人間もいくつものいのちが積みかさなっていくようにして、死と再生がめぐられてきたのだろう。 「どんな日の終わりにでも、人は信じる理由を見つけようとする。それが不思議な気がする」といううたがスプリングスティーンにある。人はどんなときにでも、意味を、物語を探そうとする。そのことによって、自分の魂を壊れないものにしようとする。 indestructivity (破壊し得ないこと) 柳田邦男の本の中で、エリアーデのそんな言葉を引いている大江健三郎について何度か言及される。全編を通じて、大江のいくつかの小説に生きる証しを探そうとする、息子の魂を追っている。 わたしは大江さんには、会ったことは無いに等しい。一度、9条の会の講演を聴きにいった。内容は忘れてしまったが「憲法にある「希求する」ということば。希望して求める、今まで使ったことの無いことば、それなのに、ああ、これだったと思えるそんなことば、希み求める、希求。」というようなことを言っていたのが、強くこころに残っている。 もう一度は、ニューヨークで朗読会をしていたとき。顔を良く見たいと思い、近くに寄って座ったら、ちょっと不安そうに睨まれた。 彼自身の普段の行動について、間接的にいろいろ聞いたことはある。男親の立場を強く出し過ぎている、ということも聞いたことがある。しかし、そういう短所も含めた彼という人間が、「救済を希求する」「再生」というようなことをテーマにした小説やエッセーを書き続けさせる原動力になっているのだろうと思う。 八ヶ岳に行ったときに絵本美術館があって、そこに売っていた大江健三郎の『「自分の木」の下で』を買った。その場ですぐに開いて読み始めた。柔らかな木にたくさん囲まれた美術館横のオープン喫茶室で。 そこに四国の山の故郷での祖母の思い出を語った稿がある。祖母は「この森のなかで起こったことを書きしるす役割で生まれてきた」そうだ。 「その話のひとつに、谷間の人にはそれぞれ「自分の木」ときめられている樹木が森の高みにある、というものがありました。人の魂は、その「自分の木」の根方(ねかた)−−根もと、ということです−—から谷間におりてきて人間としての身体に入る。死ぬときには、身体がなくなるだけで、魂はその木のところに戻ってゆくのだ・・・」 それを読んでいたのは多くの木に囲まれた、まさに木の下で、本の内容、物語と自分の感性と魂のようなもの、それと考え、理性、さらに周りの環境、それが全て一体になったような、そんな一瞬があって、それで今でもその柔らかい葉っぱの一枚一枚を覚えている。 ▲
by ganpoe
| 2011-07-11 22:52
| Books
2011年 07月 07日
突然開始された、トランスコミック完全版にむけての草稿であります。 マンガがこの通りになる訳ではなくて、書く前に、いろいろ対話をしながら作ってく訳です。 あさわは全体の理論的なところをまとめてみました。 これを読めば、セカイノカラクリ、から、可能あるセカイノシュウリまで、わかりますよ。 なんか、ながい道のりで、ほんとのところ言うと、最後のセカイノシュウリ辺りが一番おもしろいんですけどね。 さっさとそこをアップしちゃおうかな。 生の地域とか、都市と農村とか、生と文化の活動とか。。。 そこまでの道程、一緒に勉強いたしましょう。(笑) 0.導入部:世界にはどんな問題があるのだろう?なぜ起きるのだろう? 1.セカイノカラクリ 交換 自然と人間の交換——人間と人間の交換 贈り物の交換 強奪と再分配ー国家(起源と役割) 2.商品交換(貨幣を伴う交換) 市場 資本の動き、止まらない貨幣の自動運動 命がけの交換 命がけを避ける方法(国家と資本の癒着など) 3.金融 貨幣を伴う交換から、貨幣自体の交換(貸し借りと利子の話)へ 金融制度が出てくる必然性 企業・組合 無限責任と有限責任 株式市場 投機的傾向 「投票」としての投資 4.資本の所有形態 株式会社と協同組合=所有による「民主的な調整」 「協同組合」化する社会的共同体(国家) 5.「生」のための経済とは? 破壊、危機の中から三つの交換を見つめ直す セカイノカラクリ「中心、周辺、その他の地域」 交換するもの——5つの交換物 「生の地域」—内発的な地域と外部からの開発 都市と農村 リクエストメイド・社会ニーズ・そして生と文化の活動 6.セカイノシュウリ ▲
by ganpoe
| 2011-07-07 13:54
| セカイノカラクリ セカイノシュウリ
2011年 07月 03日
1.セカイノカラクリ 交換 人間の社会とは何だろう? 自然から生まれた生物の一つ、人間。 二足歩行ができ、そして叫び声、鳴き声、歌が言葉にまで至り、その間の「コミュニケーション」、つまり、様々な交換が、他の動物と比べ、とても複雑になった生物。会話も「言葉」を通した「考え、気持ち」の交換だ。 様々な交換は人間同士だけではない。まずは、周りの自然と人間たちが、いろいろな交換を行ってきた。 人間同士の交換は、様々な「社会」のかたちを作る。 自然と人間の間の交換、人間同士の/社会の中でのいろんな交換 この二つの交換を探れば、「セカイノカラクリ」が分かる。 自然と人間の交換——人間と人間の交換 いまの社会を生きる私たちには、「交換」と言えば、貨幣を通した交換を第一に考えやすい。「もの」と「もの」の交換は金を通して、「もの」と「サービス」の交換も金を通して、それを行うのが社会… 本当にそれだけだろうか? 実は、交換には大きく分けて、三つの交換がある。 ひとつは、贈り物の交換。 ひとつは、暴力による収奪とそれを再び分け与える交換。 ひとつは、市場での交換、おおくは貨幣を伴う交換 だ。 これは、人間と人間の間の交換、自然と人間との間の交換、両方で起きる。 自然と人間の交換でいえば、本来自然の恵みをありがたく受け取ってきたのが人間だ。そして、また、自然は時に大きな災害を、病原菌を人間に与えてきた。それを避けるために、人間は自然からの大いなる贈り物に感謝し、宗教的な儀式などで、自然をなだめ、感謝を告げようとしてきた。 さらにまた、自然の水の流れに手を入れたり、雑木林を残して山の保水力を高めようとしたりして、自然のゆったりとした再生産を助けて災害が少なくなるように工夫した。自然界にあるいろいろな物質を混ぜ合わせたりして薬物として使ったりもした。荒れ狂う自然の暴力を少しでもなだめ、少しずつ安定して恵みを得ようとしたのだ。 そしてやがて人間はさらに自然をコントロールしようとし、自然に手を加え、暴力的に開発し始めた。 また、自然の恵み、自然による人間社会への損害も、やがて市場における交換の価値で測ろうとしだす。自然の損害、人命の損害さえも、結局「貨幣の損害」としか考えられなくなる。 しかし、そんな「交換」は大きな交換の中の一つにしか過ぎない。 「自然と人間との交換」さえも「貨幣を伴う交換」と考えるというのは、そもそもおかしくないだろうか。「自然」の承諾を得ていない、人間のおこがましい考え方。 「自然」は再生産を前提として、いまあるものを回復していく。木や草は朽ち、それを栄養にする生物がいて、その生物を食べる生物がいて、その排泄物が栄養になり、あらたな木が生える。水は海水から蒸気になり雨となり降り注ぎ、地下水から川を通り、多くの生物の体内を通り、海に戻る。太陽光や地熱はそのエネルギーを樹木・植物により変換され、光合成によって空気に酸素が加えられ、地球を生物が住める球体に維持してきた。その球体は宇宙との間で熱の代謝をし、マグマによる熱を放熱・調整し、地表の温度を岩石を大気を安定させてきた。 これが「死」と「再生」を通した自然の流れであり、循環であり、再生産である。 自然というものをよくみると、実はそこには「交換」という原理は存在していないように見える。つまり、あるものを渡して、その代わりに「等価」のものを受け取る、というのが「交換」の定義だが、自然はそのような交換をせず、絶え間ない贈与と絶え間ない略奪を続けながら、いつのまにか全体が釣り合っていく「循環」を行っている。太陽からエネルギーを与えられた(贈与)地球が代わりに何か太陽に返しているだろうか?交換しているだろうか?海が津波で陸を略奪したからといって、仕返しをしたり、略奪したものを意識的に再分配するだろうか?自然には、見返りも仕返しも無い絶え間ない贈与と略奪だけがあり、しかしながら全体が循環するという代謝がある。 しかし、人間は「等価」という観念をもつ。本来違うものを「等価」である、と意識できる。違うものを「等価」であると意識する能力は人間の想像力による「喩」の能力からうまれていると思われる。 「等価」という観念が無い限り、「交換」は成立しない。贈与されたときに、何か違ったものを返して、贈与返しをして「互酬」を成立させることはできない。贈与されたときに返却したい時はまったく同じものをそのまま返すしかできないだろう。「等価」と想像できず、「同物」は「同物」である、としか考えられないのが自然界である。つまり、贈与にせよ略奪にせよ、ものを渡されて消尽してしまえば、それで終わりである。返すことのできる別のものが「等価」であるとは考えられないのだから。しかしだからこそ、自然界は贈与・略奪の一方的な流れを続けながら、全体として循環を成り立たせられる。 人間は「等価」への想像力の能力を持つが故に、贈与・略奪に対して「等価」交換を行わない限り、耐えられない。「愛」からうまれる純粋贈与のような形でさえ、その相手からも愛されたい、という見返りを求めざるを得ないのだ。自然からの容赦のない災害(略奪)でさえ、なんとか意味を求め、ふたたび恩恵を下さるように祈ったりせざるを得ないのだ。 そしてさらに人間界で「貨幣を用いる市場交換」が発達するにしたがって、人間と自然との交換も貨幣価値で行えないかと考えるようにまでなる。 繰り返しになるが、自然は絶え間ない一方的な贈与と略奪を行いながらも全体としては「循環」が起きるような代謝を行っている。 この自然の流れを途絶えさせて、「自然」の被った損害を、人間の市場で交換できる「貨幣の価値」で測るとは、そもそも自然との貨幣を伴う交換ではない。自然は損害を貨幣で人間界に要求したりなどしない。自然から大きな恵みを得ながら、廃棄物を自然に垂れ流しているのは、平等な交換ではない。自然に暴力をつかって収奪する行為だ。 人間が「交換」を求めざるを得ない生物であるから、自然と人間との関係も、人間は交換を求めざるを得ない。しかし、自然は「交換」より循環を尊ぶ世界であるから、その両方を成立するような自然と人間の関係を樹立せざるを得ない。 それは自然を破壊し続ける開発ではなくて、自然のゆったりとした持続する再生産の流れに人間の社会を入れこんで包まれるようにしなければならない、ということ。どう行うのか、自然と人間の間の「交換」をどう行うか、人間側から知恵を絞り、自ら律するしか方法は無いだろう。 自然と人間の間の交換を3つの交換で分けてみるとこうなる。 1.贈り物交換:「死」と「再生」を通した自然の永劫的持続から様々な恵み、栄養を送られ、それに感謝する儀式を、自然の猛威をなだめようとする儀式を、行う人間たち。 2.収奪と再分配交換:自然も人間も時に暴力的にお互いを傷つけ奪い合う。自然災害は自然の人間に対する収奪だし、確実に生命を奪う「死」も自然による収奪かもしれない。そのかわり、自然は生命を維持していく大きな恵みを与えるし、あらたな「生命」子どもたちを産む力を人間に与えてきた。そんな自然に対して人間は奪ったものをどう再分配できるのだろうか。ある地域の地形を変えて人間の益にする代わりに、他の部分の自然をより持続可能なものに変えるのだろうか? 3.市場を通した交換:自然は貨幣を用いないし、価格交渉もしない。だから、自然と人間との交換で市場交換をどう考えるかは難しい。例えば、地面の値段、地代はどうだろう?地面は自然が生み出したものだから、その自然が再生産できるように、再創造できるようにする費用をその地面を利用した人は支払わなければならない、それが地代だ、という考え方がある。一方で、地面から生まれる貨幣的価値は、人間の労働が入るのと入らないので、大きく違う。だから地代は人間の労働力に対して支払うもので、その土地の私的所有者に支払うべきものだ、という考えもあり、現在はこの後者の考えが主流だろう。しかし、それでいいのだろうか? 自然と人間の関係に関しては、このあとも折りに入れ触れながら考察していきたい。 次章に続く ▲
by ganpoe
| 2011-07-03 14:38
| セカイノカラクリ セカイノシュウリ
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